第36話 時間跳躍〈ラルフ編〉
太めな修道士のフウロと痩せたウォルドは、神父ラルフの元に駆け寄った。
「神父様、兵舎より夕刻に白馬が連れられまして……ひどく弱っております。今しがた、医療室に運び込み、チコリとロセニアが治療にあたっております」
「白馬を医療室にと言いましたね」
「そ、それが、白馬は
聖堂を抜け、医療室に入る。大きな敷布が広げられ、鈍い蝋燭の灯りが照らしていたのは、ちぢこまって寝ている一頭の白馬。
額の中央には、確かに一本の角が伸びている。王家の紋章にも描かれる神聖な生き物が、目の前にいた。
その白馬が魔女の作り出した幻影だと神父は知っていた。あるいは魔女自身が、教会内に潜り込む為に姿を変えているのだと。
「治療は、手前一人で充分です。神獣があらわれ、死んだとなれば機密事項ですので、修道士もすべてこの教会から退去してください」
「ラルフ神父。何をおっしゃいます。人払いをするおつもりですか。治療はどうなります」
「大丈夫です。神獣は
「……わ、分かりました。我々は近くの民家を借りて静かに祈りを捧げましょう」
サマーは横たわる神獣を前に、神妙な表情を浮かべる神父をみた。「私はここに居ていいのかしら」
「無理強いはしませんが、心の準備がおありなら聖なる腕輪をはめてただきたい」
彼女は銀で出来た対の腕輪を渡されると、器用に左右の手首にはめる。
「この聖堂に祀ってある宝珠はご存じですな」
「はい。樹輪の宝珠ですね」
「その効果を知るものは、少ないですが。高濃度の宝珠は、死したものを一度だけ復活させると云われています。かつて死の間際、賢者の石で命を取り留めた青年もいたとか。これに祈りを捧げれば神獣に効果がありましょう」
「分かりました」広い教会にひとり残されたサマーは不安を胸に聞いた。「私も精霊術なら多少は出来ます。お手伝いさせてください」
「白馬は……放っておけばよいでしょう。神獣が現れれば人払いをし、教会を閉めなければならないとは古い仕来たりに過ぎませぬ」
「わ、私は何をすれば?」
「――何も。手前が勝手に楽しませていただきますゆえ。樹輪の宝珠とは、時を司る輪廻をかたち創ると云われております」
サマーの両手首に付けられた腕輪は、磁石のように引き合いカチャンと音を鳴らしくっ付いた。呼吸が乱れ、胃が限界以上に持ち上がる。血の気が引き、吐き気がする。全身の力が抜け、立っているのがやっとだった。
「……なっ!?」
物音ひとつしない部屋に神父の怒声は響いた。「この売女め。貴殿が〈節制の女神〉が寄越したスパイだと、手前が知らぬとでも思いましたか」
「なっ、何よ! 人を呼ぶわよ、叫ぶわよ!」
「無駄でございます、馬鹿な娼婦め。わざわざ手前に近付くとは愚かな。じっくり聞かせて貰おうとしましょう……その体にね。さあ、礼拝堂へ来なさい。宝珠を使って、何度でも苦痛と快楽を味わいましょうぞ。そして、そなたは生け贄になるのです」
「は、離せ! 離せえっ!」
「騒いでも誰も居りませぬ」
「……っ」
蝋燭の火が落ち、部屋は暗闇に覆われた。医療室で話の一部始終をきくと、一角獣の灰色がかった姿は徐々に魔女の外套へと変化していく。
「……」
外套のフードを持ち上げると魔女アネスは薄ら笑いを浮かべながら扉に立った。
(娼館の女に先回りされては堪らなかったな。しかし、あの神父。本物の屑と見える……娼婦を生け贄に捧げる気か?)
ラルフは蝋燭を持って腕輪で拘束された娼婦サマーを自室に招き入れた。「あっ、あんたみたいな小男が、大胆なことをするわね。そんなに私の体に興味があるとは知らなかったわ!」
「貴方に説明するのは何度目でしょうか。既に貴方は五回死んでおります。さすがに要領を得てきましたので、はっきり言いましょう。
「あ、アネス。あのモリスンとかいう白騎士が言っていた敵のスパイが、何でわざわざ白馬に化けているのよ。頭でも打ったの?」
「手前どもは、同じ過ちを幾度と繰り返しています。なんとか全員の命を救おうと挑戦を続けている次第です」
「……言ってる意味が分かんないわ」
「信じてもらえるよう試行錯誤しました。サマー、貴方には命を掛けて魔女を倒してもらう他ございません」
「私に手を出そうってのなら、引っ叩くわよ」
「それも再三、経験しました。一度は痛い目を見ましたが、決め手となる言葉がみつかりました故、省かせていただきます」
「……」
「貴殿は親友であるソフィアさまにこう言われましたね……神父ラルフに仕えなさい。そして、手前を信じ抜くことが出来れば――」
〈節制の女神〉が彼女の何を知って、その言葉を残したのか。そこまでは知るよしもございませぬが、サマーは元々、名のある精霊術師の娘。酒場のダンス場でも優雅に見えるのはその証拠でございましょう。
「娼婦は聖母になると」
「……どうしてその言葉を」
「ええ、貴殿しか知らないことです」
「誰に聞いたの?」
「あなた自身です。さあ、時間がありません」
樹輪の宝珠とは、生命の循環をつかさどる教会のシンボルでございます。この教会の中でのみ、この魔術の使用が可能となります。
時間を繰り返す魔術――
「ただし自ら殺生を行うことは禁じられております。また貞操を守ることも条件となります。この宝珠は利用者が生と死を司ることを決して許しはしないのです。他にも様々な規律と制約がございますが、さておき――」
「つまり、あなた童貞ってこと?」
「はい。そこは聞き流して頂けるとありがたい部分でしたが、サマー殿がこの程度の事実で平穏を得られるのであれば笑って頂いて結構でございます」
「ぷっ、なんかごめんなさい」
「いえ、本題に入ってよろしいですか?」
「え、ええ。
「先読み以外の言い方はありませぬ。後読みでは、ただの回想禄になってしまいます……ですが、手前にとっては後読みが可能と言えましょうか」
「む、無敵じゃないの」
「滅相もございませぬ。手前が死ねば、この魔術を使うものがいなくなるのですから、当然すべては失敗に終わります。致命傷を負っても同じです。過去に戻っても手前の怪我だけは癒えません」
神父ラルフは上着を脱ぎ、ムチで打たれたような切り傷を見せた。
「いやっ……傷だらけじゃないの。誰がそんな酷いこと」
「犯人は貴殿ですが、詫びはいりませぬ」
「ご、ごめんなさい。あなたを誤解していました。神父様は立派な人です。私はあなたに生涯尽くすことを誓います。神に誓って――」
「手前に? いえ。良いでしょう、この場で言い争っても仕方ありません」
神父は頬を赤らめたように見えた。サマーには何度目かの
「分かりました。つまり、私が何度しくじっても、命を落としたとしても貴方が巻き戻してくれれば、その失敗は無かったことになる。そういうことですね。貴方を信じ従います」
それ以上、彼女に説明は要りませんでした。何度、時を繰り返しアネスの殺害を試みたことでしょう。手前に殺生が出来ないために、サマーは幾度となくこれを失敗し、幾度となく魔女の返り討ちにあいました。
「行きます!」
背後からナイフで襲いかかれば、首を跳ねられ、教会の二階から煉瓦をおとせば魔法弓で胸を撃ち抜かれました。
「……
「行きます!」
サマーの斧は、アネスの腕を鮮やかに切断しました。肩の付け根からすさまじい量の血飛沫が散ったかと思うと、サマーの細い胴体は横薙ぎで真っ二つに別れました。
「行きます!」
少女だったサマーもソフィアと同じ時期に娼館へ働きに来たといいます。彼女たちは互いの強さと、弱さを分け合うように成長したと聞いております。
サマーはいつでも笑顔を絶やさず、客たちに歌ってみせたといいます。場を明るくする才能などというものが、努力以外にあるのでしょうか。確かにサマーは美しい顔立ちをしていますが容姿が良いというだけなら、街には幾らでも美しい娘はおりました。
「……
精霊術師の父を失い、病気の母と幼い家族を養うため、彼女は娼館酒場での女中の仕事に自らついたといいます。
サマーはどんな苦しい生活のなかでも、市場でも、酒場でも優雅に踊ったのです。ソフィアにとっても彼女は希望の存在でした。
暗い話をしている客たちも、いがみ合う店の娼婦たちも、彼女の楽しそうな仕事ぶりには、どこかで感謝をしていたと言いました。
「行きます!」
辛い時期を過ごしていたのはソフィアだけではなかったのです。酒場に活気が溢れるのは彼女の踊るような給仕があればこそでした。
そこにソフィアは何度も希望の光を見、新しい人生を始めようと勇気付けられたといいました。娼婦の仕事、恋愛、人間関係、金銭問題などサマーの前では小さいことでした。
「行きます!」
娼婦サマーには聖母になる資質があるとソフィアはいいました。その資質とは人を信じることを決して忘れないという覚悟でございます。
騙されやしないか、裏切られやしないか、怒りだしやしないか、そんな心配がサマーには無かったのでございます。
信じるものの為に、自分が傷つくことを彼女は恐れないのです。それは誰もが簡単に出来ることではありませんでした。
「行きます!」
手前は――若き日の自分を、平和だった頃の毎日を思い出していました。幸せそうな母親が子供の手をひいている姿をながめている自分に、ふと気づくことがございました。
自分がもし、あんなふうに手を引いて歩けたなら、どれほど夢見心地な気分だろうと。
「……
誰かの助けがなければ生きることもできない弱い存在が、なにも不安を感じないのは、どうしてでしょう。
守ってもらえると信じているから。ただひたすら信じるという本能があるから。あるいは、慈愛に満ちた汚れなき精神を持っているから。
「行きます!」
「お待ちなさい……」手前は我が目を疑いました。「貴殿のその腕、傷が残っているではありませぬか!?」
「どういうことですか。怪我をした記憶はありませんけど」
「サマー、これを最後の時間跳躍にします。貴殿には……死んでもらうほかないようです」
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