第37話 魔女と娼婦〈ラルフ編〉
神父が人払いをした為、教会は静まり返っていた。礼拝堂は美しく荘厳なはずだが、どうもこの場所は好きになれない。
いつも薄暗く、寒く、壁に掛かった古めかしい蝋燭台は何十とあるのに、火が灯っているのは祭壇にある数本だけだった。
アネスは礼拝堂の祭壇に祀ってある宝珠を見やってほくそ笑む。神父ラルフは、まだ娼婦とお愉しみ中のようだ。
大理石に寒々しく響く自分の足音に混じって、正面の両開きの扉が、少しだけ開いていることに気づく。
(この宝珠は偽物か――やはり、あのタヌキを拷問するしかないか)
そばに物音を聞いたアネスは薄暗い礼拝堂を見回すと、まっすぐに続く赤いカーペットを踏んで近づいた。「……誰かいるのか」
魔女アネスは眉根を上げて扉の入口を見た。下着一枚で上半身の肌をあらわに、拘束具をつけられた小男が寝かされていた。身体中にムチで打たれた痕があった。
「あっはははは!」魔女は普段から厳格な態度をとっていた哀れな神父の変わり果てた姿を一笑した。「呆れたな、変態神父よ。貴様は一体何をしているんだ」
猿ぐつわを外された神父は、息を荒立てて話し出した。「すぐに、あの娼婦を捕まえてくださいっ! 逃げ出したのです。こんなことが、手前のこんな失態が公けになれば、手前は教会に殺されます」
「何だと?」傷だらけで後ろ手を解いたラルフと共に、教会の中庭に出た。暗闇を寝巻き姿の女が走っていくのが見える。魔女は腕組みして、自分より先に神父を拷問したという娼婦を見やった。
「ふん。たかが娼婦に、ここまでやられるとは」そう言いながら、疑問がよぎる。娼婦、娼館、節制の女神、占い師の女。「あいつは森の娼館から来たのか?」
「は、はい。娼婦の主人が寄越したのでございます。て、手前は騙されたのです。あの娼婦に騙されました。共に楽しもうではないかと、樹輪の宝珠を使って性行為を行えば、絶頂は永遠にも繰り返され――」
「っく、反吐がでるな。なんと下劣な男だ」
神父は話しながら惨めにも泣き出していた。剥げた小男の情けない姿に、アネスは目を背けたくなるほどだった。手の震えは酷く、腕までが揺れていた。小刻みに震える全身に、歯までカチカチと鳴らしている。
(おぞましい……)
「分かった。待っていろ」
魔女は両手をかざし詠唱をはじめると、赤い光を放った。はだけた寝巻き姿に素足をさらけ出した娼婦は三半規管に異常をきたしたように足を縺れさせ、こわばった表情のまま、その場に倒れた。
「ま、魔術でございますかな?」
「ああ、動きを抑える魔法だ。すぐに娼婦を取り押さえろ」
(話はそれからだ――)
少しは冷静さを取り戻したと思った神父だが、娼婦にむかって駆け寄ると、泣き喚くように金切り声をあげだした。よだれと、汗、涙や鼻水、小便まで垂らしながら転げ落ちるように娼婦に飛びつくす姿は、あまりに汚らしく見えた。
神父は下着からナイフを取り出し、躊躇なく娼婦の脇腹に差し込んだ。アネスは神父のすぐ後ろに立っていたが、眺めているしか出来なかった。
「死ねえっ! 死ねえっ! 死ねえっ!」
娼婦は悶え苦しみ、全身をばたつかせ痙攣していた。娼婦は口から大量の血を吐き突っ伏したまま腕と足をピクピクとさせている。その手元にしっかりと持たれているものをアネスは見て、驚愕した。
「ま、まさか!!」
(樹輪の……まさか、宝珠を持ち出そうと!?)
「愚かな娼婦めっ!」返り血が神父の額に飛び散っていた。「よくも手前を騙したなっ! 死ねえっ! 死ねえっ!」
「や、やめろ。ラルフ!!」
アネスが慌てて女の前に立つと、ラルフは鼻に血を滴らせ微笑んでいた。「ご安心くだされ、祭壇に〈樹輪の宝珠〉はございます。もしや、
ガキンという音と共に娼婦の手元から、ガラス細工の破片のようなものがバラ撒かれた。
「うっうううううっ……」悶える娼婦からは尚もうめき声がしていた。
(な、なんという愚かな――。この間抜けな神父のせいで、全てが無駄に終わってしまった。じゅ、樹輪の宝珠が……く、砕け散ってしまった!!)
「……」
アネスは、しばし間抜けのように立ちつくていた。この場を納得しようにも目の前の光景を説明することが、酷く馬鹿馬鹿しく思えた。自分より一歩先に来た娼館のスパイに先を越されたのだ。それを阻止しただけで、よしとするしかなかった。
「は、あはっ、あはっ、あっははは!」神父は狂った笑いを発した。「神獣も宝珠も……無事に済みました。いやはやアネス殿のおかげで助かりましたぞ」
「……っう……っうう」
「ひっ。ひいいっ、い、生き返った」
娼婦がむくりと頭をあげると、手元から砕け散った宝珠がキラキラと零れ落ちた。「なんですか、それは。どういうことですか」
「宝珠が砕け散ったのだ。その娼婦の身代わりになって」怒りに顔を引きつらせたアネスは声を荒げて言った。「このゲス野郎。お前のことはミルコ団長にもしっかり報告してやるからそのつもりでいろ」
「な、何故アネス殿が宝珠のことを知っておられるので?」
「うるさい。もう、ここに要はない」魔女はそのままスタスタと教会を後にし、暗闇に消えて行った。
「きっ、貴様ああああっ!!〈樹輪の宝珠〉をすり替えたのかっ」
血まみれの神父が怒りに身を任せ、娼婦の首を締めていた。女の助けを求める声がしたが、魔女は振り向きもしなかった。
※
「これで良かったのでしょうか」サマーは芝居を終え、焦燥しきっていた。はだけた寝巻きは真っ赤に染まり、下着も外れていた。
神父は、去っていく魔女を立ちつくしたまま見ていた。二十六週目にて、やっと誰も死なず、宝珠も奪われずに魔女アネスを追いやることに成功した。
「アネスが
あの時点、早い段階で神獣を殺害することは不可能ではなかったが、こちらの被害も大きかった。どうやっても、チコリかフウロは助からなかった。
誰も死なせないという目的を最優先し、ラルフは考えを代えた。まず、アネスに宝珠の特性と、サマーの秘密をわざと聞こえるように説明する必要があった。
これを先じてサマーに説明するのは得策ではなかった。どうしてもぎこちなくなり、その場で一角獣は姿をかえ、我々を拘束した。
信憑性をだすためにサマーには、後から説明するしか無かった。彼女の誤解をとき、完全にこちらの意図を理解させるのは容易ではなかった。
やるしかなかった。はじめは彼女を罵り、真実を捲し立てた。次には芝居がかったセリフで彼女を持ち上げ、やる気を起こさせた。
次には、優しい言葉と真摯な態度で彼女の奴隷となり、ムチ打たれた。次には、彼女を力一杯強く抱きしめ、こころから謝罪した。
何度目か……最後にはサマーはすべてを信じ、ソフィアから受けた奇跡の言葉をラルフに告げた。娼婦は聖母になると。
『では、裏手にあるステンドグラスの破片を一握りと、厨房から豚の血を詰めた袋を用意してください。私は拘束された状態でアネスの気を引くとしましょう。万事、うまくやってください。貴殿の演技が成功の鍵です。女の武器というやつです』
これ以上は、手前の体力も精神力も持たなかったでしょう。この選択以外で全員が生き残りアネスを欺く方法はなかった。
「たった一人で、よく頑張りましたねえ」
サマーは乱れた髪を撫で、服を整えて言った。演技とはいえ、神父に殺される役は彼女の胸を高ならさせた。背中と手に、びっしょりと汗をかいていた。
「これほど、みっともない選択肢しか無かったとは情けない。一人ではありません。貴殿のような恥も外聞も気にしない非常識な人間がこの場に居なければ、到底不可能でした。心よりお礼申し上げます」
「褒められている気がしませんね。ですが、なんで、アネスはそこまで宝珠にこだわっているんですか?」
「長生きしたければ、知らないほうがいいやもしれません」
「言ってください。そういうルートです」
「はあ……魔力の流れを変える為だと聞きました。高濃度エレメントを一気に粉砕させると人間の精神はある場所に到達するのです。そこに行けば、魔力の流れを操作出来ると言われております。これは人知を越えた恐るべき行為といえます」
「ま、魔力を独占して神にでもなろうってことかしら?」
「世の
「いいえ、なら吊られた男とは、誰か分かったのですか?」
「はい。分かりました」
ラルフは汗と血で汚れた顔を拭った。「手前に生涯尽くすなどという誓いは撤廃なさいませ。貴殿はまだ若すぎる」
「意外といいコンビだと思うけど?」
「そういうのは、いりません」
「実のところ、貴殿がアネスを殺すシナリオを何度も試みました。手前が死ぬ訳にはいかないですからね」
「そうですよ。私にはアネスを殺す覚悟がありました。やはり力不足でしたか?」
「いいえ、貴殿は殺ったかもしれません。手前が上手く指示すれば。実際にあと少しという場面までいきました。そこで……貴殿は
「まあ、わ、私は元娼婦だし神父さまとは違います。人殺しだってする覚悟です……なんですか。宝珠の能力を私が使ったらどうなるというのですか!?」
「どうなるかは、手前にも分かりませぬ。ただ、貴殿にだけ汚れ仕事を押し付けたくはありませんでした。そして殺すという行為を貴殿にさせたくないと感じたのです。いや、させてはならないと知ったのです」
「……何故ですか」
「貴殿は、若く、美しい。そんな聖母に殺しを強要するわけにはいきますまい。貴殿には、その資質がございます」
「神父とも、あろう方が人を理解出来ないとは残念です。私は聖母ではありません」
「先の話しとは存じます」
「鈍いのね。貴方の前では娼婦だって言ってるんです、まだ分かりませんか」
「……なっ」神父はサマーの露出した美しい体から、目を背けると顔を真っ赤にしてうつむいた。「なんということを、おっしゃる」
照れた神父を見るサマーの笑顔は、まるで聖母のように温かかった。
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