第28話 竜鱗の腕輪
議論はそう長く続かなかった。ほとんどの意見はケーシーと村長を信じ、村に残るというものだった。全く数列を解けない老人や子供たちまで村に残りたいという始末だった。
逃げることは無理だと思ったのだ。リウトに賛同して村を出ようという人間は居なかった。
ケーシーは何もかも覚えていた。リウトが大学でどういう立場だったか、どういう人間だったか。誰とも対等に関わることすら出来ない劣等生だった時代を知っていた。
「向こうへいってろ、馬鹿野郎。一人で黒騎士から逃げ隠れしてろ」
村人の一人、ずんぐりした巻き毛の男がリウトを突き飛ばした。リウトは力なく後ずさりをすると尻もちを着いた。
「あ、あ、あ……」
忘れていた訳じゃない――忘れたかった事は否定できないが。幼少期の発話障害までが掘り返される。
マリッサが駆け寄りリウトの前に屈み込んだ。両手を差し出し、その手を握った。彼女の手は柔らかく、温かかった。
「あ、あ、ありがとう。し、し、知っていたのか? き、君も俺が、ば、馬鹿だって」
リウトは少女の胸の刺繍に目をやった。まっすぐ彼女の顔を見られなかった。鼓動が乱れ、口がこわばって上手く喋れなかった。
「……ごめんなさい、リウト。でも、それは恥じることじゃはないわ」
「き、き、君を助けたいんだ。い、い、一緒に行って、く、くれるね」
「それは無理よ」マリッサはちらりとケーシーを見た。その目を見れば、この頼みが無駄であることは明らかだった。
「ケーシーと……彼と婚約しているの」マリッサの気持ちはケーシーに向かっていた。
その晩、村の外で有力者達とケーシーは黒騎士のリーダーと交渉の席についた。そこにリウトは、参加させてもらえなかった。
何も考えられなかった。慣れない山登りでひどく疲れていた。
マリッサは何もしゃべらなかった。家に着くと、鍵のかかっていない自分の部屋へそのまま入った。すこしの間、ベッドに倒れた。
しばらくは一人で泣きたい気分だった。家には村長もケーシーも居らず、とても静かだった。明日にも黒騎士が襲撃してくるかもしれないというのに、誰も普段の生活を辞めようとはしない。
俺が少ない荷物を纏めていると、彼女の気配と同時に声がした。「家出する気?」
「あ、ああ。も、もともと俺の家じゃないけど。ど、どっちにしても、な、何も準備が、で、出来てない」
彼女はずっと前からそこにいた。「誰だってできてないわ。死ぬ準備なんか」
「し、死ぬ必要なんてない。ひ、卑怯だって臆病だって、恥さらしだっていいじゃないか。し、死ぬよりはずっとマシだ」
彼女を見て、驚いた。彼女は下着姿だった。小さな布切れ以外に、何もつけていなかった。胸元にあるネックレスだけが、黄色く輝いていた。
「なっ、どっ……どうして」
簡単に
「さっきの話、本当なんでしょ」
「し、信じてくれるのか?」
「ええ……」
彼女は俺にキスをした。ごく自然な流れのように。「避けなかったわね」
「う、うん」
「あなたが寝てるとき、イタズラしてやろうと思ったけど、避けられたのよ。なんで病人にそんなことが出来るのか、興味がわいたわ」
「う、うなされて避けたなら、それは残念すぎる。世界一の馬鹿だと自覚してるよ」
「偉大な魔術師は、無意識でも危険を察知するって聞いたわ」
「さ、察しの悪い魔術師もいるよ。俺は初級の魔術しか使えないんだ」
「嘘よ。最高純度のアクセサリーを持ってるじゃない。ケーシーやお爺さんにバレないように包帯で隠しておいたけど」
「は、ははは。本当にありがとう。でもこの指輪も、ちゃんと使えない」
「知ってるわ。ケーシーから色々聞いているから。リウトは魔術師じゃくても、色んな資格を持ってるのよ」
「あ、愛を語る資格とか?」
「ぷっ……ははは、馬鹿ねっ。やっぱりリウトは面白い、面白すぎる!」
リウトは教師の名前を聞いて、マリッサを抱く手を緩めた。ランプに照らされたオレンジ色の素肌に、すらりとした美しい体型が浮かびあがった。
「ケーシーは貴方に嫉妬していた」
「俺には何もない。君を連れ去る資格もね」
「それは魅力的な提案だけど、資格試験の応募はしてないのよ……あら、やっと
「本当だ。君は素晴らしい
「ふふ、何もしてないけどね」
(本当に……ありがとう)
マリッサはそっと目を落とした。連れ去って欲しいという気持ちは本物だった。婚約者が教え子に暴言を吐く姿を見て、真実が見えなくなっていた。
だが、知らなかったでは済まされない。村長の娘は、運命の輪は、曖昧な態度をとることを決して許さなかった。
※
夕暮れにドアが叩かれた。いよいよ、明朝に
小さな馬車が二つ、止まっている。魔法数列とは縁のない二十人ばかり、五組の家族が待っていた。
「あなたは、彼らを連れてロザロへ向かうのよ。みんなを助けてあげて」
「マリッサ、君も来るんだ」
「うふふっ、残念ながら、私は婚約者と行くわ。貴方には心に決めた人がいるでしょ。ずっと、うなされてるときに、聞かされたわ。ローズぅ、ローズうぅって」
マリッサは、銀色に光る腕輪を見せた。「あなたには、これをあげる。大事にして」
「魚鱗の腕輪……かな。皮肉だね」
「あははっ、まあ、そうね」
この腕輪は過去に見た記憶を再投影する、いわば学習用アイテムである。授業や文献を繰り返し見るには絶好のアイテムだが、再生回数が少なかったり、映像クオリティが急に落ちたりするため、学生時代にしか世話にならないアクセサリーとして知られている。
彼女はこの腕輪で、今夜の記憶を忘れないで欲しいと訴えたかったのかもしれない。リウトはまだ目に焼き付いていた彼女の姿を思い出し、顔を赤くした。
「急いで。
「マリッサ……俺は……俺」
「つべこべ言わないで。貴方なら出来る、さっさと行って」
リウトは馬車の後ろを通りロバの前に立った。年寄りだらけの村人たちはマリッサの希望通り、若い白騎士に従うと言った。
「俺が先を行く」
「ああ、よろしく頼むよ」
日は暮れ、林に差し掛かる道で小さな馬車から荷物が崩れた。長持ちが倒れ衣類や調度品が散乱していた。慌てて準備をしたのだから仕方がないとはいえ、先が思いやられた。
「大事な物だけ、持っていけよ。丘に向かっているんだ。坂を登り切れないぞ」
「あんたは、その腕輪があるからいいよな。この村に代々伝わるお宝だ。それひとつで、相当な価値がある」
リウトは着ていたチュニックの袖を捲って、白い顎髭の村人に見せた。「ただの魚鱗の腕輪だろう。もう勉強なんてしないけどな」
学生の時には欲しくて欲しくて堪らなかったものだ。「付けて寝るだけで記憶が定着しますだの、有名な魔術師はみな魚鱗の腕輪をしていますだの噂があったな。そんな噂は全部――ただの宣伝に決まっている。インチキ、騙されて買うヤツは馬鹿だ」
その馬鹿は自分のことだった。実際に魚鱗の腕輪を付けても記憶を再投影出来るのは、一度か二度のボヤけたもので、場合によっては全く投影されないこともあった。
「よく見てみろ。そいつは本物の竜の鱗で作られた竜鱗の腕輪だ」
「なんだって?」
「何時でも、何処でも鮮明に記憶の世界へと飛べるうえに、記憶した画像は永遠に残しておける。不死のドラゴンの鱗を使っている本物だ」
「も、もしかしたら交渉に使えるかもしれないとか言ってた腕輪ってやつか。他にもあったよな、長槍とかネックレス……」
リウトはハッとした。マリッサの胸に黄色い宝珠のネックレスがあったのを思い出す。白髪の顎髭は流暢に話を続けた。
「言霊のネックレスはマリッサが持ってる。長槍ブリューナクは元々ジャガーのもんだから知らんが、その腕輪はちゃんとした魔術師のケーシーが持つはずだった。あんたじゃなく」
「何者なんだ、ジャガーって。そんなことより、そんな大事なものを何で俺に……」
頭の中には、レンギル魔法大学の図書館が映し出されていた。書物の中には、意味も分からずパラパラとめくっていた本も山ほどあった。
だが、リウトは四年間ですべての書物に目を通していた。それをもう一度見れるとすれば。いつでも好きな時に見えるとなれば。
(そうか……見えるってのは、こういうことか。本を……本棚を探そう)
黒騎士、黒の魔術師。隠匿術に関する本棚。兵士を遠目から見えなくする魔術は存在するのだろうか。
あった。指定したフィールド全体に効果を与え、隠匿魔法の効力を増加する黒騎士の魔術。
フィールド魔術とは――幻の
術の発動に所要する時間が長くかかり、集団的な効果を発揮するため、蔓延する疫病に例えられ〈死神の魔術〉と呼ばれる。
つまり昨晩、魔術フィールドの中に立った俺は、
雷光の指輪とは――加速魔術。
〈かくれんぼ〉という隠匿行動。〈死神の魔術〉と呼ばれる隠匿魔術。〈雷光の指輪〉によるその能力の加速と増大。
だから現実を飛び越えたのか。それで妙な幻覚が見えていたんだ。頭や体を慣らすか、きちんと鍛えていなければ、到底使いこなせる代物ではないってことか。
「す、すごい。なんてすごいお宝なんだ。魚鱗の腕輪なんかじゃない。これは、これさえあれば、いつでも何処にいても何でも調べることが出来る……」
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