ほんのささやかな黎明

@mina-tsuki

ほんのささやかな黎明

 暇だなぁ。

 そんな思考が、脳を掠めていった。

 温もりも優しさも持ち合わせないような、煌々とした白いLEDの光だけがある。

 紙を捲る、掠れた音がする。私が漫画を読んでいるのだから、それは当たり前だろう。

 時折、ドアの向こうから、微かに親のいびきが聞こえてくる。

 少し開いた窓から、ぬるい風が吹き込む。その度にカーテンが揺れる。

 それだけが、私の知覚するほぼ全てだった。

 やることはあるのだ。

 人と遊ぶ予定のゲームを起動して、アップデートしておきたい。

 もう半年は放置している小説を、いい加減書き進めたい。

 適当なフォルダに押し込んだアイディアを、もう少しばかり突き詰めたい。

 そろそろ四月から自分がどうするかを決めるため、大学なり専門学校なりをある程度調べたい。

 建設的じゃないことだって、例えばソシャゲのデイリーとか、古本屋で買ったまま放ってある小説を読むだとか、溜めてる録画を消化するだとか……本当に、やることはいくらでもあるのだ。

 それに、と手元のスマホを持ち上げる。どういう仕組みか、ボタンも押していないのに画面が付いて、意志も思考もないだろうそれに健気さを覚える。

 照明と同じように無機質な光が示すのは、今が深夜も深夜であるという事実だった。

 具体的に言えば、午前三時四十分。もしかしたら、人によっては早朝だと思うかもしれない。いや、さすがにあと一時間は要るだろうか?

 二時だったら間違いなく深夜だし、五時だったらまあ大体早朝だろう。つまり、今は微妙なラインだ。

 どちらにせよ言えるのは、今は大多数の人が眠りに就いているであろうということである。我が家とて、両親はとっくに布団の中だ。

 私だって寝ればいい。眠気はきちんとあるし、布団に横たわりさえすれば眠れるだろう。けれども、寝る気は湧かなかった。反抗するように、スマホの青いアイコンをタップする。

 SNSにさえ、人がほとんどいない。無職だとか大学生だとか夜勤だとかの人が五人ほど、ゲームのスクショや日々の愚痴をいくつか呟いているくらいだ。

 ちなみに、私は無職に該当する。半年前に高校を卒業したばかりの、前途有望な出来立て無職だ。無職にも前途ってあるんだろうか?

 浪人ではない。予備校には通っていないから。フリーターでもない。バイトの一つもしていないから。

 療養中、というのが一番の名目だけれども……。通っていた心療内科には、薬を飲むのが面倒になってもう三ヶ月も足を運んでいない。家にはまだ、飲み忘れの薬が山と転がっている。

 現実を直視した途端、心臓の辺りに黒くて重い何かがのしかかってきた。何かというか、明確にストレスである。なんなら軽く胃も痛い。

 目を逸らすため、もう一度漫画を開く。

 恋愛ものの漫画だ。それなりに有名な作品で、アニメ化もされた。

 紙面上では、女の子が涙ぐみつつ相手に歩み寄っていた。その相手は、微笑みを以て女の子を抱き止めている。

 好きです、と女の子が言う。

 私もだよ、と相手の女の子——大人びているからか、どちらかというと“女性”という感じがする——が応える。

 幸福な結末。

 二人は歩み寄り、見つめ合う。最後のコマには、背伸びをする女の子の足元だけが描かれていた。

 ちりり、と胸の奥が痛む。腕に抱いていたぬいぐるみを、尚強く抱き締める。

 羨ましいのだろうか。全く無いとは言えないけれど、これは多分正解じゃない。

 妬ましいのだろうか。これは完全に不正解だ。捻くれている自覚はあるが、筋の通ったハッピーエンドはちゃんと素直に好きである。

 例えば、どこまでが黄色でどこからが黄緑なのかと色相環を見せて訊ねたら、人によってある程度違う場所が示されるだろう。それと同じで、感情に境界は無い。

 その上で、私は今心臓の奥にある感覚を、思考の中で文字に起こす。

 寂しいなぁ。

 多分、それが一番近い。

 漫画を読み終わってしまったために、私はぬいぐるみとスマホだけ抱えて部屋を出た。電気を消すと、視界が黒一色に染まる。

 それでも、数秒したら多少は目が慣れる。歩き慣れた我が家の廊下を歩いて、リビングにたどり着いた。そこには、布団が二枚敷いてある。

 片方は私ので、もう片方はお姉ちゃんのだ。

 今は、どちらの布団も空っぽだけれど。

 冷暖房代の節約という理由と、後は普通に仲が良いということもあって、私とお姉ちゃんは二人並んでリビングに布団を敷いている。川の字ならぬ……リの字、だろうか。

 私が布団の中にいないのは、そりゃあそうである。今しがた部屋から出てきたばかりであり、もしいたとしたらそれはドッペルゲンガーだ。

 お姉ちゃんがいないのも、理由は簡単。今日は外泊しているから。

 ……いや、今日も、と言うべきか。

 ここのところ、姉はあまり家に帰ってこない。どうやら彼氏ができたようで、ついでに言えば彼氏は一人暮らしをしているらしくて、足繁く通っているのだ。

 お姉ちゃんがいなくて寂しいかー? と、当の姉本人に揶揄われたことがある。

 別に、と返した。

 でも、多分、それは嘘だった。現に、私は今、言いようのない寂しさを抱えている。

 お姉ちゃんとは仲がいい。昔からよく一緒に出掛けるし、ゲームもするし、歳が離れているからか喧嘩は殆どしたことがない。

 だけど、最近はあまり一緒に遊んでいない。

 カラオケ行きたいね、今度行こうか、と話していた。時間がある時に誘ったら、昨日彼氏と行ったから喉が疲れていると言われた。

 夜にゲームをしよう、とささやかな約束していた。夕方に、チャットで彼氏の家に泊まると連絡があった。

 そういう諸々の積み重ねが、小さなひび割れが、まるで傷のようなかたちを取っている。

 他にも、要因はある。

 スマホ越しで、友人の彼氏に対する愚痴を聞いたこと。

 道で楽しそうな高校生集団とすれ違ったこと。

 それから、さっきまで読んでいた漫画のこと。

 買い物と散歩以外は家に篭り、家族以外の知り合いとは顔も合わせない私に対し、それらは痛みとも呼べないくらいの細く小さな棘となって、今でも確かに刺さっている。

 ……一人は、寂しい。

 寂しいのだ。

 慮ってくれる両親がいても、仲の良い姉がいても、通話をしてくれる友人がいても。

 それでも、私は一人だった。

 腕の中にあるぬいぐるみを、また強く抱き締める。

 なんの変哲もない、デフォルメしたニワトリのぬいぐるみ。それを持ち上げて、顔の高さまで上げる。

 自分の口元を、ぬいぐるみのくちばしに触れさせた。ゆっくりと、優しく。

 ぬいぐるみは、なんの反応も返してこない。私の好意に応えてくれることもないし……逆に、拒絶してくることもない。

 それだけで、私の中身はささやかに満たされる。


「……ちゃも」


 付けた名前を呼んでも、やはりぬいぐるみが反応することはなかった。返事をすることも、嫌がって身を捩ることも。

 今日は、このまま寝てしまおうか。

 でも、今何もせずに目を閉じたら、きっと嫌なことを色々考えてしまうだろう。暗闇と静寂は、心を弱くする。

 音楽でも聞きながら無理やり寝ようと考え、イヤホンを耳に突っ込む。スマホに端子を差し込んで、その時点で違和感があった。接続した時特有のプツッという音が、右耳でしか聞こえない。

 嫌な予感と共に音楽を再生する。やはり、右耳にしか音は流れない。

 断線している。

 マイクが反応しなくなったり、時折音が途切れたり、そういう前兆はあった。でも、やはりガックリくる。

 スマホと同じメーカーの純正品であり、それなりに値段のするものだ。ついでに言えば、私のスマホにはイヤホン用の端子がない。つまり、このイヤホン以外は使えない。

 どうするかと考えた後、一つのアイディアが浮かぶ。

 確か、このメーカーの細やかな製品は、コンビニでで販売していたはずだ。そこには、今しがた壊れてしまったイヤホンも含まれている。

 一応検索してみると、やはり売っているようだった。しかし、販売店舗が限られている。三大チェーンの内の一つだが、家からはやや遠い。歩きで行って帰るとして、三十分くらいだろうか。

 スマホの画面の上に小さく表示されている、三つの数字を見やる。深夜も深夜だ。

 私とて一応女の子であり、ついでに言えばやや臆病であり、この時間帯に出掛けるのは少々気後れする。外は完全に真っ暗だ。

 しかし、同時に好奇心があるのもまた事実だった。日付が変わった頃くらいなら家族と出掛けたこともあるが、今はそれよりも余程遅い時間だ。それに、一人で深夜に出歩いたことはない。

 少し、思案する。

 親にバレたら、多分怒られ……るかは分からないが、間違いなく苦言は呈されるだろう。実際、危険ではあるだろうし。

 しかし、芽生えた気持ちは抑えられない。勢いのままにズボンを履き替え、上着を羽織り、鍵を手に取る。

 私の布団があるリビングは、親がトイレにでも起きたら通り道になる場所だ。バレないように、抱き枕と姉の布団を掛け布団で包む。うまい塩梅に人型っぽくなった。

 財布の中身を確認する。足りるだけの金額はあった。それだけ持って出ようとしてから、良いことを思い付く。

 私は白いトートバッグを手に取ると、そこに財布を放り込んだ。それから、ニワトリのぬいぐるみも。こちらは優しく、ひっくり返らないように。

 リビングと玄関の間にあるドアを閉める。音が少しでも響かないように。

 姉のサンダルを履く。少しぶかぶかだが、ちょっとした散歩なら問題ない。

 鍵を開けると、ガチャリとはっきりした音が響いた。それだけで心臓が跳ねる。ドアノブを捻って押すと、さらに大きな音が鳴る。眠りの浅い親が起きないように、私は信じてもいない神様に祈った。

 一歩、踏み出す。

 体が外気に晒される。

 外は、思ったよりも涼しかった。家の中からはぬるく感じた風も、今はしゃっきりとした冷ややかさで余計な火照りを拭ってくれる。上着を羽織ってきて正解だったな、なんて思った。

 それから、そろそろとドアを閉める。鍵を掛けるか一瞬悩んで、さすがに掛けない選択肢はないなと観念した。ガチャリ、と明瞭な音。幸い、親が起きた気配はない。

 前へと向き直る。

 外は、真っ暗だった。

 いや、暗さだけで言うのなら、カーテンを閉めた家の中の方が余程暗い。ここは駅が近いので街灯もあるし、他に色々と細やかな光もある。

 しかし、いつも夜だって空いているスーパーも、この時間はすっかり照明を切っている。車は一台も通らず、信号機だけが意味もなく決められた期間を空けて切り替わる。たくさんの家々だって、光が漏れている窓はほとんどない。

 日常的な非日常に、私はワクワクした気持ちで踏み出してみる。

 歩き出して最初に感じたのは、穏やかな静けさだった。

 完全な静寂ではない。風に街路樹が擦れる音はするし、虫の声もするし、時折ずっと遠くから微かに車のエンジン音もする。

 しかし、逆に言えばそれしかないのだ。

 普段は賑やかな吹奏楽が流れているのに、今は木琴一つだけが低音を響かせているかのような。不安にもならず、不快にもならず、ただただ心地よさだけがある。

 光が少ないのも、雰囲気作りに一役買ってくれている。暗さはレースカーテンのように辺りの全てを包み込んでいて、なんとも言えない落ち着きが私の中を満たしていくのが分かった。

 つい、と上を見上げる。普段使い用の度が弱い眼鏡しかしていないにも関わらず、星が煌めいているのがよく見えた。そういえば、月は出ていない。新月なのだろうか。

 心地よさに身を浸していると、あっという間にコンビニに辿り着いた。煌々と明るいそこは、部屋と同じような無機質さがあるのに、足を踏み入れるとなぜだかどうしようもなく楽しくなってくる。

 イヤホンの名前と写真が書いてある札を手に取って、すぐにレジへ向かう。かなり年配の男性が対応してくれた。なんとなく、いつもよりはっきりと「お願いします」と言いながら商品を差し出した。相手から返事はなかったけれど。

 折れ曲がったお札を四苦八苦して機械に入れると、イヤホンを受け取って店を出た。出てから、せっかくならアイスでも買えばよかったな、なんて思った。涼しいからいいや、と引き返しはせず帰路につく。

 そこでようやく思い出し、私はバッグの中からぬいぐるみを取り出した。二十センチくらいのサイズはあるし、ぞんざいには扱いたくないし、自然と両腕で抱えることになる。

 出掛けることを思い付いた時には、帰り道はイヤホンで音楽を聴きながら帰ろうと思っていた。しかし今は、なんだか勿体無い気がした。

 風の音。虫の声。途中、一台だけ走ってきたバイクの運転手が、悠然とこちらに顔を向けつつ走り去って行った。

 信号に引っかかる。五秒ほど青になるのを待った後、どうせ車なんて通らないことに気がついた。赤のまま渡ってしまう。罪悪感と、そこからくる高揚感で足取りが弾む。


「楽しいね、ちゃも」


 ぬいぐるみの名前を囁く。有声音にできなかったのは、まだ高揚が足りていない証拠だろうか。

 それがなんだか悔しくて、私はぬいぐるみのくちばしに口を触れさせた。人が出歩く時間帯なら絶対にできない行動だ。さぞかし、頭がおかしく見えることだろう。

 いや、実際にやっている以上、頭はおかしいのかもしれないけれど。でも、周りにそれが知れ渡るのは嫌だった。

 ぬいぐるみを抱えたまま、一歩ずつ家に近づいていく。

 一つだけ、明かりのついている窓があった。それを見て、なぜだか冷たさが募った。

 寂しいな。

 高揚と緊張で薄れていた気持ちが、再びじわりと染み出してくる。

 願わくば。

 誰かを、世界で一番好きになりたい。

 誰かに、世界で一番好きになってもらいたい。

 それが恋愛である必要はなくて、友愛や姉妹愛だって構わない。しかし逆に言えば、恋愛でない必要もないのだった。

 贅沢を言えば、可愛い子がいい。でもこれは本当に贅沢であって、そうじゃなくてもいいと思う。

 ぬいぐるみは、半分だけ願いを叶えてくれる。私が好きでいることを拒絶しないでくれる。

 しかし、もう半分が欲しくて欲しくて堪らなかった。

 心地よさと寂寥の合間にある感情を抱え、家のドアを開ける。気を抜いていて大きな音を立ててしまったが、幸い、親が起きた様子はなかった。

 上着を抜いて、ズボンを履き替えて、ぬいぐるみを抱いて、布団の中に潜る。買いたてのイヤホンを耳に突っ込み、端子をスマホに差し込む。

 楽しい散歩だったな、という感想がよぎる。SNSを立ち上げて、呟きアイコンをタップして、「初めて一人で深夜徘徊した。めっちゃ良かった」と入力して。

 そこで、手が止まった。

 あの心地よさを、高揚を、非日常を、そんなつまらない短文に纏めてしまうのを勿体無く感じた。

 私は部屋に戻ると、パソコンを開く。ワープロソフトを起動して、かたかたとキーボードを叩く。

 日記や自伝の類ではなく、小説という体にしよう。だから、少しだけフィクションを混ぜよう。とびきり綺麗な言葉を考えよう。それから、それから。

 指が、軽快に文章を紡いでいく。そういえば、小説を書くのは半年ぶりだ。なのに、何の気負いもない。

 タイトルは何にしようか。

 光を感じるようなのがいい。けれど、心地よい暗がりもあるといい。

 段々と夜が明けていくのにも、部屋が明るくなっていくのにも気付かないで、私は文章を書き続けていた。

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