間章

間話 神の名の下に

 フリードリヒとの結婚式と夜会での挨拶を終えたエレオノーラは、いよいよ初夜を迎えようとしていた。

 湯浴みの後に侍女たちが念入りなマッサージを施し、肌も髪も磨き上げて、香油を塗り込んだ。

 そして純白の絹の夜着を纏った彼女は、寝室で夫であるフリードリヒを待っていた。

 やがてフリードリヒが部屋へと入ってくると、迷うことなくエレオノーラの傍に腰を降ろした。甘い香りが彼女の鼻腔をくすぐった。


「ふん、最初は結婚を押し付けられて不満だったが……こうして見ると悪くない。実に良い女だ」


 そう言ってフリードリヒは汗ばんだ手で顎を持ち上げると、笑みを浮かべて瞳を覗き込んでくる。

 そんな彼をエレオノーラは冷静に見つめ返していた。


(……なるほど……どおりで)


 何かに納得したエレオノーラの心情など知る由もないフリードリヒは、そのまま彼女の唇に己のそれを重ね、欲望のままに貪った。

 長い口づけの後、唇を離したフリードリヒはそのまま夜着へと手を掛ける。


「そなたはどんな声で鳴いてくれるのだ?」


 ニヤリと笑いながらそう告げるフリードリヒに、エレオノーラは少し間をおいて魔法を唱えた。


『麻痺』


 その瞬間、フリードリヒの身体がビクリと跳ねて動かなくなる。


「な、何をした……」


 驚いた顔で問いかけてくるフリードリヒにエレオノーラは何も答えずに今度は『睡眠』の魔法を唱え、眠ったことを

 確認するとベッドサイドに置かれたベルを鳴らして侍女を呼び出す。


「お呼びでしょうか、エレオノーラ妃殿――これは……」


 やってきた侍女たちは床に倒れて動かないままのフリードリヒを見て驚きの声を上げる。そんな彼女たちに、エレオノーラは告げた。


「すぐにコンラート親衛隊長を呼んできてちょうだい」


 その言葉を聞いた侍女たちはすぐに部屋を飛び出していった。

  それから間もなくしてコンラートがやってきた。彼はベッドで眠る主の姿を見つけると驚愕に目を大きく見開く。


「これは……どういうことですか」


 柄に手を掛けて警戒するコンラートに、エレオノーラは小さな声で答えた。


「私が聞きたいくらいです。どうしてフリードリヒ殿下は薬を盛られているのですか?」

「え?薬ですか?」


 コンラートは予想外の言葉を聞いて思わず聞き返してしまう。


「帝国教会は薬草の専門家です。殿下は明らかに薬物中毒者のそれです」

「……まさか!」


 その指摘を聞いてようやく事を理解したコンラートは顔を青ざめさせた。


「血走った瞳に極度の発汗、それと甘ったるい体臭。恐らくクルワ草でしょう。思考能力が低下していき、興奮しやすくなったり、性欲を抑えられなくなります。長期的に服用していたのでしょう」


 それを聞いてコンラートはますます顔色を変える。そんな薬草を常用しているということは普通に考えればあり得ない。つまり誰かに盛られたということだからだ。


「……すぐに治療は可能ですか」


 絞り出すような声で尋ねるコンラートに対して、エレオノーラは首を振った。


「自然に排出されるのを待つしかありませんが、禁断症状が出ると聞き及んでいます。宰相閣下に報告後、拘束して治療した方が宜しいと思います」


 その言葉に頷いたコンラートはすぐに踵を返すと足早に部屋を出て行ったのだった。


 そして翌朝、朝早くに報告を受けたヴィルヘルムは不機嫌さを隠そうともせずに舌打ちをした。


「つまり側近たちはフリードリヒが薬物中毒になっていくことにも気付かなかったというわけか」


 怒りを押し殺した低い声で言うヴィルヘルムに、コンラートは慌てて弁明をする。

 そもそもクルワ草は一般的には知られていない薬草だ。薬草に精通したエレオノーラだからこそ気付いただけであって、普通は気付かないだろうというのが彼の考えだったのだ。

 しかしそれを口にすれば更に機嫌を損ねるであろうことは想像がつくので口を噤むしかない。


「……それで、フリードリヒは今どうしているのだ?」


 苛立たし気に問いかけるヴィルヘルムに対し、コンラートはエレオノーラに指示された通りに答える。


「自室にて拘束しております。またクルワ草はアルコールに溶けやすいとのことでしたので、殿下の自室にあったワインなどは全て処分いたしました」

「そうか……犯人は誰だと思う。ギュンターか、ディートフリートか」


 その問いかけにコンラートは少し考える素振りを見せてから口を開いた。


「おそらくは後者かと。ラインベルク公爵は良くも悪くも実直な方ですから、このような陰湿なことをするとは思えません」

「となるとディートフリートか……やってくれるではないか」


 ヴィルヘルムはそう言ってから視線を逸らすと思案するように腕を組んだ。

 そしてしばらくすると再び口を開く。


「薬を盛られたのなら内通者が必ずいるはずだ。必ず見つけだして徹底的に尋問して背後を吐かせろ」


 有無を言わせぬ迫力のある言葉に、コンラートは思わず身震いしそうになる自分を必死に抑えながら返事をした。


 その頃、エレオノーラは祖父であるベネディクトに手紙を送っていた。


「クルワ草中毒とは……ヴィルヘルムは少々足元を疎かにしすぎておるのではないか」


 手紙を読み終えたベネディクトは眉間に皺を寄せて呟く。その表情からは呆れとも憤りともとれる感情が見て取れた。

 帝位争いを行っている以上、皇子という存在は必要不可欠なのに、どうも内部が手薄なように思えてならないのだ。


「妃殿下は他にはなんと?」

「信頼出来る人間を数名寄越して欲しいそうだ。当然だな」


 中毒ということは内部に裏切り者がいるのだ。ならばヴィルヘルム陣営から人を呼ぶよりも教会から人を派遣した方が安全度は高いに決まっている。


「薬学に詳しい者と世話係を数名選んで送れ」


 そう指示を出すベネディクトだが、内心ではそれほど穏やかではなかった。


(ヴィルヘルムめ。エレオノーラが不幸になったら絶対に許さんぞ)


 そんな決意を胸に秘めるベネディクトとは対照的に、エレオノーラはこの状況を好機だと捉えていた。

 彼女は禁断症状で苦しむフリードリヒの世話をしながら、今回の失態を理由に側近たちを一時的に遠ざけさせ、教会の者たちで周囲を固めさせた。

 そして自分への依存度を高めさせる為に、朦朧とする意識を利用して洗脳を施していったのである。

 もちろん自分の評判を落とすような真似はしない。あくまで献身的な妻を演じつつ、ばれない程度に軽い洗脳を行って思考を誘導していったのである。


(全ては帝国教会の権威と栄光を取り戻すため。そのためなら私は夫であろうと利用してみせるわ)



 同じ頃、ソフィア教大神官ジュリアンヌ・アリエールは自宅で密偵からの報告を受け取っていた。


「気付かれてしまったのならば仕方がありません。内通者を始末して撤収するよう隠密部隊に伝えなさい」


 静かに告げるジュリアンヌに跪く密偵は、深々と頭を下げると命令を実行するために退出していく。その姿を見送った後、ジュリアンヌは天井を仰いで思考を巡らした。

 正直、早々に発覚したのは彼女にとっても想定外の事態であった。

 尤も帝位争いが本格化するまでの時間を稼ぐだけの策だったので、彼女はそこまで焦ってはいなかった。


(帝国西部への布教準備は整っている。信徒を増やす時間はまだ十分にあるわ)


 治癒術に秀でたソフィア教会は各地の戦場で怪我人の治療を行い、その噂を聞いた民衆からの寄付によって莫大な財を築いていたが、ジュリアンヌはもっと効果的な金儲けと信徒獲得方法を編み出した。

 彼女が得意とする闇魔法で支配階級である貴族を洗脳する方法である。

 とはいえ気付かれてしまう洗脳では意味がないため、ソフィア教会の教義に沿うような形で徐々に思想を変えていった。特に帝国教会によって抑圧されていた性的思考を誘導することで、男性貴族はこぞって彼女が経営する娼館に足を運び、女性貴族は大胆な衣装を挙って彼女の商会で注文するようになった。


 そして上が変われば必然的に下も変わっていくもので、信徒の数は爆発的に増大、帝国南部ではもはや敵などいない状態であった。


(西部さえ押さえられれば十分に戦える。そう……仮にディートフリートに切り捨てられたとしてもね)


 元々ジュリアンヌには帝国の行く末に興味はない。帝位争いに協力しているのはソフィア教会の影響力を帝国全土に広げるという目的があるからで、利用価値が無くなればディートフリートさえも敵に回す覚悟があった。


(先が楽しみだわ)


 口元に笑みを浮かべるジュリアンヌの瞳は、まるで玩具を前にした子供のようにキラキラと輝いていた。


 そして時代はアーデルハイト皇妃暗殺によって大きく動き出していくのだった。




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