第17話 怒りを押し殺して
ブリュンヒルデとランベルトが廊下で会話を行っていた頃、マリアは父親である皇帝ディートヘルムと対峙していた。
「ローゼンハイム帝国の皇帝ともあろう者が……何だこの有様は?」
皇帝の私室には異様な光景が広がっていた。部屋中に散らばる酒瓶に割れたグラス。そしてベッドにはあろうことか全裸の侍女が三人おり、怒りの形相を浮かべるマリアを見るなりシーツで体を隠した。
「……なんだ……誰も通すなと……余は命じたぞ……」
しかしディートヘルムは酔いつぶれているのか、焦点が定まっていない瞳でマリアを睨んできた。
「娘が死地に赴いている間、お前は女を侍らせお愉しみか。これでは母上も浮かばれないな」
母という言葉を聞いてディートヘルムは僅かに反応すると、次の瞬間には声を荒らげて喚き散らした。
「余を糾弾するのかっ!殺したのは余ではない!」
そう叫ぶディートヘルムを見てマリアは溜息をつくと、視線を侍女達へと向けた。すると侍女達は怯えるように体を震わせると、急いで隣室へと逃げていった。
「原因を作ったのはお前だろう。穏やかな生活を送っていた母上を、地獄のような宮殿に呼び寄せた」
マリアの言葉にディートヘルムは頭を抱えながら叫ぶ。
「愛する者を傍に置きたいと思うのは当然ではないか!余は皇帝だぞ!」
その言葉を聞いたマリアは、まるで汚物でも見るかのように冷たい視線を向けると吐き捨てるように言った。
「名ばかりの皇帝だろう。愛しているというのならそもそも宮殿に呼ぶべきでは無かった。さらに言えば守る手段を講じるべきだったのだ」
その言葉にディートヘルムは顔を上げると、射殺さんばかりにマリアを睨みつけた。
「近衛騎士を張り付かせた。近衛騎士の怠慢だ!」
その発言に今度はマリアが激昂する番だった。普段は冷静な彼女が、鬼のような形相でディートヘルムに詰め寄ると胸倉を掴み上げ、壁に叩きつけた。
壁から鈍い音が響くと同時に、ディートヘルムの口から苦悶の声が漏れる。
だがマリアはそれに構うことなく、額がぶつかりそうな程顔を近づけると低い声で言った。
それはまるで呪詛のように冷たく、それでいて激しい怒りを感じさせる声音であった。
「お前の怠慢だ。母上だけを寵愛して、他の皇妃を煽り、三公爵家を不愉快にさせた。形だけでも同様に寵愛していれば毒殺などされなかった。後ろ盾など何もないのだからな」
その言葉を聞き終えると、ディートヘルムは力なく項垂れてしまった。
それを見たマリアはようやく手を離すと、乱れた服を整えて懐から一枚の紙を取り出した。
「サインしろ」
「なんだ……これは」
差し出された紙を訝しげに受け取ったディートヘルムに、マリアは内容を簡潔に告げた。
「レーゲンスブルク属州の総督任命書だ」
それを聞いた瞬間、ディートヘルムの表情が一気に変わった。
「馬鹿な……レーゲンスブルク属州は犯罪者共が跋扈する場所だ。一歩間違えば誘拐されて性奴隷として売り飛ばされるかもしれない――いや、女で皇族となれば尚更その可能性が高くなる。一生を慰み者として終えるつもりか!」
必死に訴えるディートヘルムに対して、マリアは静かに答えた。
「お前のいる帝都よりは随分過ごしやすいだろうな」
「……勝手にするがいい」
ディートヘルムが手を震わせながら署名した任命書を奪うようにして手にしたマリアは告げた。
「偉大なる皇帝陛下……あとは好きなだけ酒でも女でも楽しんでください。陛下がいなくても、国政は回るのですから」
それだけ言うとマリアは踵を返して私室を後にして、ブリュンヒルデと合流した。
「このあとはどちらに?」
「ロスヴィータ皇妃を訪ねるつもりだ。今なら全員揃っているはずだからな」
「では先触れを出しましょう。その間に湯浴みと着替えを」
ブリュンヒルデに言われてマリアは自身の格好に目をやった。
変色した血がこびりついた甲冑は、もはや元の色が分からない程に汚れていた。そして今更ながら汗と返り血によって異臭を放っていることに気付く。
おまけに兜を脱いで見ると、長く美しい金髪にも血が乾燥してこびりついていた。
「……流石にこれはまずいな」
マリアはそう言うと急いで自室に戻り、リアンナに先触れを頼み、アネットには湯と着替えを持ってくるように頼んだ。
その頃、ロスヴィータの私室にはシュテファニエとギュンター、そして側近たちが厳しい表情で集まっていた。
「二人ともまんまと出し抜かれおって」
そう叱責したのはギュンターであった。主催した茶会で毒殺事件現場などあってはならない大失態である。
「お前たちもお前たちだ。眼前で毒物を盛られても気が付かないとは、主を守れないと公言したも同然だ。覚悟は出来ているのだろうな」
ギュンターの言葉に、茶会に関わった侍女たちは顔面蒼白で震えていた。彼の言葉通り、下手をすればロスヴィータとシュテファニエも死んでいたかもしれないのだ。
「お前たちには尋問官による取り調べを受けてもらう」
その言葉に侍女たちは更に震え上がると、慌てて弁解を始めた。
しかしそれを制するように、ギュンターは続けた。
その表情はいつもよりも険しく、視線だけで人を殺せそうなほどであった。
彼は大きく息を吸うと、ゆっくりと吐き出してから言った。
その声色はまるで地の底から響いてくるような、暗く恐ろしいものであった。
「加担した者が一人とは限らない。なに、潔白ならすぐに終わるさ。だが少しでも疑わしいのなら……分かっているだろう?」
その言葉を聞いた侍女達は皆一様に顔を青くすると涙を流し始めた。
そんな光景を無視してギュンターは配下の騎士に指示を出す。
「全員を連行しろ。徹底的に調べ上げるんだ」
指示を受けた騎士は敬礼すると、すぐさま行動に移した。
部屋に残されたのはロスヴィータとシュテファニエにギュンター、そして護衛騎士と邸宅からやって来た侍女数名であった。
「……お父様、議会はどうなりましたか?派閥への影響は?」
沈黙に耐え切れなくなったのか、口を開いたのはロスヴィータだった。
「ディートフリートがお前たちが犯人ではないかと追求してきた。状況証拠だけとはいえ、議会での心証は最悪だった。ヴィルヘルムも静観していたしな」
「ではこのままでは……」
「弾劾決議のあとに裁判という流れでもおかしくは無かった。そうなっていれば我々の帝位争いは終わっていたな」
「……?そうはならなかったのですか」
首を傾げたシュテファニエに、ギュンターは事の経緯を説明し始める。
マリアが乱入してきてディートフリートを散々に言い負かし、挙句の果てにはヴィルヘルムがマリアの案を採用して幽閉取り止めを採択したことを。
「第二皇女殿下が……」
それを聞いたロスヴィータは呆然と呟くように言った。まさかマリアがそのような行動をするなど夢にも思わなかったのだろう。
それはシュテファニエも同様だったようで、驚きのあまり目を丸くして固まってしまっていた。
「第二皇女殿下には大きな借りが出来た。なにかしらで恩を返そうと思う」
ギュンターはそう言って珍しく笑みを浮かべたあと、真剣な表情で言葉を続けた。
「今日の様子を見る限り、当面の敵はディートフリート派閥ということになるだろう。毒殺もきっと奴らの仕業に違いない」
そう言ってギュンターが拳を強く握りしめた時だった。マリアの専属侍女であるリアンナがやって来たのである。
◆◇◆◇
「急な来訪ですまないな、ラインベルク公爵」
マリアが謝罪の言葉を口にすると、ギュンターは笑みを浮かべて首を横に振った。
「第二皇女殿下には議会で助けていただきました。歓迎いたします。それと今更ですが、母君のことお悔やみ申し上げます」
それを聞いてマリアは頷くと、ロスヴィータとシュテファニエにも視線を送った。
「……私が主催した茶会での出来事です。殿下に何とお詫び申し上げればよいか」
「私も同罪です。申し訳ございませんでした」
二人が頭を下げるのを見て、マリアは小さく溜息をつくと言った。
「謝罪の言葉は必要ない。意味がないからな。それよりも私は今後のことについて相談に来たのだ」
マリアの発言を聞いて三人は怪訝な表情を浮かべた。それに気付いたマリアは先程の任命書をテーブルに置いた。それを見た三人が同時に息を呑んだのが分かった。
「……帝都を離れるおつもりか。しかし殿下、レーゲンスブルク属州は――」
「どんな場所かは十分に理解している」
マリアの強い口調と真剣な表情を見て、ギュンターは瞬時に説得は不可能だと察した。そして彼女が何を欲して会いに来たかも。
「……議会への根回しをせよと仰るのですね」
「そうだ。レーゲンスブルク属州ともなると親衛隊だけでは物足りない。出来れば第一遊撃騎士団も連れて行きたい」
これを聞いたギュンターは一瞬だけ迷った。第一遊撃騎士団の団長はマリア自身とはいえ、根本的には軍務省の命令で動く。そしてその軍務省を束ねる軍務大臣はあのディートフリートである。今日、あれだけ議会で激しく対立したのだ。とてもではないが素直に許可を出すとは思えなかった。
「……難しいことを仰りますな」
「恩を返す絶好の機会ではないか。それとも返す気はないのか?」
そう言われてしまえば答えは一つしかない。
「善処させていただきます、第二皇女殿下。他にご要望はございますか?」
その言葉を聞いて満足したように頷いた後、マリアは少し考えてから言った。
「そうだな……資金を少しばかり援助してもらおうか。それで今回の件は終わったことにしようと思うが」
「本当にそれだけで宜しいのですか?些か少ないように感じますが」
「これ以上望むのは私にはないが、他に何かあるかな」
マリアの問いにギュンターは少し考えたあと、ゆっくりと口を開いた。
「人……などはいかがでしょうか」
予想外の提案に今度はマリアの方が考える番となった。そして少し間を置いてから答えた。
「……誰か良い人材でもいるのか?」「ええ、まだ若いのですが非常に優秀な息子が一人おります。現在は魔導騎士となるべく訓練に励んでおりますが、いかがでしょうか」
それを聞いたマリアは笑みを浮かべたが、護衛のブリュンヒルデはあからさまに険しい表情を浮かべた。
「息子か。首輪のつもりか?」
「……そのようなことはございません。ただ遅くに産まれた子供ですので、出来れば活躍の機会を与えたいと」
ギュンターの言葉に嘘はないようだった。その証拠に彼の表情からは真摯さが感じられたからだ。
ただ全てを語っていないことも同時にマリアは察した。
「……実際に会って見なければ無理だな。明日、私の部屋に来るように伝えておけ」
「畏まりました」
こうして話し合いを終えたマリアは自室へと戻り、ギュンターはヴィルヘルムに協力を依頼すべく宰相室へと向かった。
そして残されたロスヴィータとシュテファニエは、帝位争いが本格的に動き出したことを実感しながら、静かに溜息をついたのだった。
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