第7話 醜態
奈琴さんと別れた後の帰り道、僕はスッキリとしたような、それでいて重い影を背負ってしまったような二律背反の感情に付き纏われていた。
生きることへの執着があったわけじゃない。だけれども心のどこかでこのまま死んでいいのだろうかという、葛藤も少しはあったのだと思う。奈琴さんは、そんな気持ちを僕に自覚させてくれた。
しかし、その一方で「なに、のうのうと生きているんだ恥知らず」と僕を責める声がさっきから聞こえてくる。なんなのだろうか、この声は……
「おい、聞こえているのか、恥知らず。馬鹿は死なないと治らないんだろ。だったら死ね、今すぐ死ね」
それは夜の闇が話しかけてきたようでもあった。僕はその声を無視して、自宅へと足を進める。
「おまけにあんな、自堕落的な女子と友達になった挙句、タバコを吸うとは、見下げ果てたな」
僕は、その声に足を止めてしまう。そうだ、タバコだ。これだけは、僕の中でもまだ完全に落とし込めてない部分があった。
これは、僕が所持しているだけで問題となる――いうならば爆弾であった。
僕が自殺をした後、遺品整理の時にこれが見つかったとしたら、色々面倒と面倒なことになるのは目に見えていた。最もその時、僕はこの世にいないわけだから関係ないと言ってしまえばそれで終わりなのだが、残された人にとってはハイそうですかという訳にもいかないだろう。なにか後ろ暗いことがあったのではないかと、いらぬミステリーを残してしまうことになる。その展開は僕にとってあまり好ましいものではなかった。
捨ててしまおうか。右横にはあつらえたように、幅八メートルほどの川が流れており、ポケットからタバコを取り出して、軽く投げるだけで爆弾処理は完了する。
「ほら、捨ててしまえよ、これ以上醜態をさらすのはやめろ」
僕はポケットに手を入れてタバコを握りしめる。そして、川に投げ捨てようと振りかぶったところで、
「このタバコは非日常に向かうためのパスポートみたいなものだから」
魔法なんて、中学生になった今では全然信じてなんかいないけど、今僕はまるで魔法にかかったみたいに体を動かすことができない。
奈琴さんの言葉が呪文となって、僕の体を拘束して投げさせまいとしているみたいだった。
深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。すると魔法は溶けたようで体は自由を取り戻した。僕は左手で胸ポケットから、ライターを取り出すと、右手に持ったタバコの箱から一本取り出して口に咥える。ライターを右手に持ち替えて、慎重に親指でスイッチを押して、タバコに火を付けようとするがなかなか火がつかない、ああ、そうだ、軽く息吸わないといけないだった。シュッと音を出して息を吸うと、また、舌に雷が落ちて、肺が痺れるような感覚がやってきた。でも、最初に吸った時と違って、脳がシェイクされることはなかった。これが慣れなのだろうか。
僕はゆっくりと時間をかけて紫煙を吐き出し、灰をポロポロ足元に捨てる。
これを何度も繰り返すうちに、街頭募金を無視するのと同じで罪悪感が薄れてゆくのだろうか。
僕は、もう一度タバコを口に咥えて五センチくらいになるまで吸い切ったタバコを足元に落とし足を軽く押し付けて、火を消した。
マンションにつくと、まだ夕月は帰ってきていないようで、部屋のなかは真っ暗だった
靴を脱いで玄関のデジタル時計を見ると、二十時二十分と表示されており、小学生である夕月が一人で帰路につくには、少々危ない時間であった。もしかしたら、葵くんの家に泊まるつもりなのではないだろうか。前にもこの時間くらいにかえって来ないことがあって、そういう時は決まって、「今日は葵くんの家にお泊りするから!」と電話で一方的に連絡を入れてくる。小学四年生なのに男の子の家に一人で泊まるなんてかなりませていると思うけれど、夕月はあまりそういう事を気にしないのだろうか? 玄関のドアがガチャガチャと音を立てて開かれる。
「あれ、お兄ちゃん帰っていたの? だいぶ早くない?」
開いたドアの先にいたのは、夕月と葵くん。そして白いブラウスに黒のロングスカート、少し茶色に染めたボブカットの中年女性が立っていた。
「はじめまして。いつもお世話になっております。私、葵の母のなぎさと申します」
「いえ、こちらこそ……夕月がいつもご迷惑をおかけしているみたいで……僕は、夕月の兄の理人と言います」
すると、なぎささんは少し微笑んで
「ええ、いつも夕月ちゃんから伺っております。とても勉強熱心な兄がいると」
夕月、アイツ外では、そんな風に僕のことを話してもいるんだ。少し意外だった。
「本当にいつもすみません。今日もこんな遅くまで、ご迷惑ではないですか?」
ご迷惑と僕が言ったとき、夕月が僕をにらんできたが、隣にいる葵くんが気づく前にすぐに元の素直そうな笑顔に戻った。
「いえ、迷惑だなんて、とんでもない! ウチの子はですね、こうあまり社交的ではないと言いますか。周りの子と打ち解けるのが苦手みたいでして、夕月ちゃんが初めてなんです。ウチの子と一緒に絵を書いたりして、遊んでくれる子は」
葵くんは顔を赤くして、うつむいている。そんな葵くんの頭を夕月は撫でていて、まるで弟と姉のようであった。
「いえ、そんな……こちらこそ、よろしくお願いします」
僕は、深々と頭を下げて、なぎささんの言葉を受け取る。僕の知らないところで夕月が誰かにとってかけがえのない人になっているなんて、僕には思いもしなかった。おそらく、父さんや房俊おじさんも知らないだろう。僕たちは夕月の学校でのことについてあまりにも無関心だった。
「ところで……お父様はご在宅ですか? ぜひ、挨拶をさせて頂きたいのですが」
なぎささんが遠慮がちに聞いてきた。僕は、仕事が長引いているようですので帰ってきませんというと、
「あら、それはそれは、またの機会にさせていただきます。夕月ちゃんからも聞いていますわ。とても仕事熱心な方だと」
「ええ、熱心すぎるくらいに熱心です」
夕月、なんでも話してもいるな、もしかして、昨日の晩ご飯から、今朝おろした歯ブラシの色まで教えているんじゃないだろうな……そんなことを思いつつ、無難な返事をする。父さんのことについてはこれ以上話を広げられるたくなかった。
「そうだ! よかったら今度キャンプを行くのですけれど、よければ、理人さんとお父さんもご一緒にいかがですか?」
夕月が、なぎささんのスカートの裾を掴んで、「ねぇ、夕月は! 夕月は!」と叫んでいるとなぎささんは笑いながら
「当然、夕月ちゃんも一緒よ、どうですか。最近ご家族でお出かけもされていないみたいですし、また、お父さん一度お話をしてみてくださいね」
なぎささんはそれだけ言うと、「では、今日はこれで、葵も夕月ちゃんにバイバイして」と別れを告げて葵くんと一緒に帰っていった。
「夕月、あんまり外でウチのことは言わないようにね。特に父さんが仕事で家を空けていることが多いとかは」
僕は、リビングへの扉を開けて部屋の照明をつけながら夕月に注意する。
「大丈夫だよ、ウチのことは葵くんにしか言ってないし、葵くんはクラスの子にペラペラ喋る人じゃないもん」
夕月は、冷蔵庫からオレンジジュースの缶を取り出し、プルタブを開けた。
「まぁ、それでも言わないに越したことはないから……それで、キャンプの話」
僕はゆっくりと言葉を選んで話を切り出した。
「夕月も初耳だよ、お兄ちゃんとパパも誘うだなんて」
夕月はオレンジジュースを一口飲み、リモコンを操作して、テレビをつけると、ベテランの男性タレントが映し出される。
「父さんには僕から話をしておくよ」
お母さんが亡くなってから、夕月は父さんを少し避けているように見える。父さんの方もこの関係をどうにかしようとは、あまり考えていないみたいで、この半年、父娘の間には、必要最低限の会話しかなかった。
「パパがキャンプなんかに来るわけないじゃん。来年のお年玉全部賭けてもいいよ」
テレビでは先ほどのベテランのタレントが、スカイツリーの前で自身が出演しているドラマの宣伝をしている。
「大体、パパがキャンプや旅行に夕月たちを連れて行ってくれたことがあった? 唯一覚えてるのはお兄ちゃんの十一歳の誕生日に、遊園地に行くことになって、夕月がパパも一緒がいいって、ワガママ言って半日泣いた時ぐらいじゃない? こういうイベントに参加してくれたの」
僕の頭の中で懐かしい記憶が思い起こされる。僕の十一歳の誕生日、房俊おじさんが知り合いから、隣の県にある遊園地のチケットを貰ったとかで、せっかくだしみんなで行こうという話になったのだけど、父さんは「いい、柄じゃない。俺が行っても仕方ないだろう」と言って、行こうとはしなかった。そんな父さんの態度に対して、「少しは、父親らしいこともせんか!」と房俊おじさんが激怒し、「まぁまぁ、この人は最近仕事が忙しかったみたいで、たまの休みくらいゆっくりと家で過ごしたいみたいんです」とお母さんが懸命に擁護する中「ケンカしないでヨぉ、パパも一緒に行こうヨぉ」とワンワンと泣いていた。僕は正直、父さんが参加してもしなくても、どっちでもいいと思っていたので、ただ夕月をなだめているだけだった。
やがて、房俊おじさんの圧に根負けしたのか「行くよ、行けばいいんだろ」と言ってワイシャツにスラックスという、バリバリのビジネススタイルで参加した。
遊園地でも、僕らがジェットコースターやフリーフォールで悲鳴をあげている中、父さんはベンチに座って缶コーヒーを飲みながら本を読み一人難しい顔をしていた。
誰が楽しげに微笑んでいる遊園地の中において、そんな父さんは花畑の中に置かれた、二宮金次郎の銅像のようであり、異物でしかなかった。ジェットコースターの行列に並んでいた時、すぐ前にいた僕の腰のところくらいまでしか身長がない女の子が、「おじいちゃんー、さっきベンチに座ってずっと本を読んでるへんなおじさんいたよー」と彼女の祖父らしき初老の男性に向かったとても滑稽な物を見たように話していた。
「お父さんはなんでジェットコースター乗らないの?」
女の子の話を聞いたあと、僕は一人で本を読んでいる父さんの所にまで行き率直に疑問をぶつけた。誓っていうがこの時、僕は一ミリの悪意も邪心も持っていなかった。ただ、
当時の僕は言葉をオブラートに包むということも嫌みの使い方も、そんな事はまるで知らない子供だったのだ。
そしてその悪意なき嫌みをぶつけられた父さんは、僕の方を見ようともせず本に目を向けたまま面倒くさそうに「意味がないからな」とだけ言って、話を終えた。
「――ちゃん。お兄ちゃん! どうしたのボーっとして」
目の前で夕月が街中で突然倒れた人の意識確認でもするかのように手を振っている。そうだ、ここは隣の県にある遊園地ではなく、慣れ親しんだ我が家だ。いつの間にか僕の意識は三年前にタイムスリップしていた。
「いや、なんでもないよ、ちょっと考えごとをしてただけさ」
「ホントに? パパは来ないとして、お兄ちゃんはどうするの?」
「夕月が一人でキャンプに参加するのが不安じゃないなら、僕も留守番でいいかな」
そう言うと、夕月は「不安じゃないよー大丈夫」とだけ言って、飲み終えたオレンジジュースの缶をゴミ箱に捨てた。
僕はリビングを出て自分の部屋に戻り、ベッドに横になる。枕元に置いてあった学習塾のテキストが目に入り、こんなに勉強しなかったのは、いつ以来だと自虐的な気分になる。夜の闇がまた話かけてくるかなと思ったが、どうやら彼は沈黙しているみたいで、冷蔵庫の機械音とミンミンゼミの鳴き声だけが部屋の中にこだまする。
寝返りを打つと、ポケットにしまったタバコが、太ももに当たってかすかに痛い。右手でポケットからタバコを抜き出して、月明かりに当て観察する。
箱の表面には、英語でセブンスターと書いており、タバコに詳しいはない僕でも知っている銘柄だった。
改めて味わってみようかと思い、タバコ一本取り出したけれど、灰皿がないことに気づいて断念し、机の引き出しにしまう。
部屋の外で女性の甲高い声が聞こえてきた。僕はベッドから起き上がり、窓から部屋の外の様子を伺う。見ると千鳥足になった大学生風の女性が、恰幅のいい同じく大学生風の男性に支えられていた。ウチの近所には、城賀大学という偏差値の非常に低い私立大学があり、時々このような光景を目にすることがある。女性が、また楽しげに誰かの名前を叫んでいる。支えている男性の名前だろうか。
僕はこのような光景を目にするたびに、「ああなってはダメだ」「ああなってしまっては人生お終いだ」と自分に言い聞かせてきた。そして決まって僕はやるぞやるぞと、心に熱がともり、やる気に満ちあふれたものだが、今日はまったくやる気が出ない。決まっている――奈琴さんの影響だ。彼女の自由気回りない言動は、僕の心に深く絡みつく。
僕は早くも変わりつつあるのかもしれない。それが世間一般の常識からしていいことではないだろうが。
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