第6話 友達
家を出てから体感時間で二十分が経過した。昨日の公園に着いたけれど鍵掛さんの姿はなかった。考えてみれば当たり前だ。昨日、鍵掛さんと会ったのは、二十一時。今はまだ日も完全に落ち切っていない黄昏時。町は帰りを急ぐサラリーマンらしき人や、泥だらけのユニフォームを着て自転車に乗っている高校生ばかりが目について、どこか浮世離れした彼女の存在はそれこそ場違いのように思える。そもそもの話をすれば「また会いましょう」と言われたけれど、何時に会うと言った訳でもないし、なんなら、今日会うとも言っていない。僕が勝手に今日公園にいると思い込んだだけだ。
もしかするとあの少女の言っていた警告というのは、お前は死ぬまで余計なことをするな。そういう意味であの言葉を残してのではないか。今となってはそうとしか思えない。
そうだとしたらまったくもって僕らしい結末だ。家に帰って、夕月を待とう。
そう思って、来た道を引き返そうとすると――
「鼻大丈夫? 昨日けっこう強く入っちゃったけど」
背後から聞こえてきた声。それは昨日、出会ったばかりなのに、懐かしさを覚える。
振り返ると、コバルトブルーのTシャツにジーンズを着こなし短くなったタバコを加えて不敵な笑みを浮かべている鍵掛さんがそこにいた。
「ええ、全然大丈夫です。昨日ぶりですね鍵掛さん」
僕は、若干の緊張を含んだ声で言う。すると鍵掛さんはクスリと笑って、
「ええ、昨日ぶり理人くん」
「昨日はいきなり掴みかかったりしてすみません……頭に血が上りすぎて……とにかくごめんなさい……」
僕は、まず昨日の無礼を詫びるところから会話を切り出した。なんにせよ暴力はいけない。そして、それを行使したのならまず謝らければならない。それは僕が子どもの時からの当然のルールであり、大多数の人間が持っている倫理のようなものだ。
僕の謝罪を聞いた鍵掛さんは極めて温度のない声で「別にいいよ、気にしてないし」とそう言った後、僕にブランコに座るように促してきた。僕が座るとブランコはキィキィキィと古びた遊具にしか出せない音を奏でる。
「なんで隠れていたんですか? タバコ吸っているところ誰かに見られて追われてとか?」
この人ならあり得る。昨日の行動を見る限り不良行為は日常茶飯事というか、逆にこの人が真っ当な学生らしいことをしていることに違和感を覚える。
「隠れてた理由かー、それ聞いちゃう?」
鍵掛さんは少しはにかんで、右手の人差し指で自身の髪をさながらスパゲッティをフォークに巻き付けるみたいにクルクルと絡めた。
それをほどいて、また絡めて。この一連の仕草を三回繰り繰り返したところでようやく次の言葉を発した。
「……理人クンを試したの。どうしても会いたいなら、公園の隅々まで探すでしょ、逆にそこまで興味がないなら、さっきの理人クンみたいに一周見ただけでさっさと帰る。もしくはそもそも来ない」
「そうですよ。そもそもの話、僕が来なかったらどうするつもりだったんです?」
「別にどうともしないよ。それならそれで家に帰って一人寂しくタバコ吸いながらゲームでもするだけだよ。そして寝る前に私の脳内日記の今日は何の変哲もない一日だったと記して終わり」
……脳内日記ってなんだ? 日記って紙に書いて、今日こういうことがありましたよと、記憶ではなく記録として残すから意味があるものであって、それを一週間もすればあやふやになる脳に残して何の意味があるというのだろうか。
やはりこの人は変わっている。それもすごく。たぶん不良の中でも変人の部類に入るのではないだろうか。
そう言えば、まだ鍵掛さんに年齢を聞いていなかった。女性に年齢を尋ねるのは失礼にあたるとそう小学四年生の時に担任の先生に教えてもらったけど、この人はどう見ても女性ではなく女子だ。ならば問題はないはずだと、そう考え年齢を尋ねると、
「十六だよ。阿見弥〈あみや〉高校の二年生、ほとんど行ってないけどね」
そう言って鍵掛さんは、ジーンズのポケットからタバコとライターを取り出して口咥えて火をつける。
阿見弥高校というと、この地域ではまずまずの進学校である。校風もよく、鍵掛さんのような素行のあまり良くない生徒は珍しかった。
「理人クンは中学生よね、二年? それとも三年?」
鍵掛さんは紫煙を吐きながら僕に尋ねてきた。
「西大路〈にしおおじ〉中学の三年生です」
僕が通っている中学は、県内一生徒数が少ないということ以外取り立て特徴のない市立中学である。
「じゃあ、私の後輩になるわけだ。けど、なんか意外、理人クンは中高一貫の進学校に通っているのかと思ってた。そういう所に通ってる子くらいしか、成績が良くないから自殺しようなんて考えに行きつかないでしょ」
「市立でも勉強について悩んでいる人は、僕以外にも結構いますよ」
最も自殺しようとまで考えるのは、僕一人だと思うけれども。
僕は鍵掛さんが一本目のタバコを吸い終わったのを見計らって、少し踏み込んだ質問をしてみることにする。それは僕にしては珍しく単純な好奇心というものだった。
「鍵掛さんはなんで学校に行ってないんですか?」
本当は、なんで不良になったのですかと聞きたかったが、あまりに直接的すぎて、怒りを買ってしまうかもしれないと思い言葉を少し変えて質問してみた。
鍵掛さんは、二本目のタバコを箱から取り出しながら面倒くさそうに答えてくれた。
「毎日毎日、同じことの繰り返しで飽きたのよ。最初のころは少し面白いかもと思ったこともあったけど、二年になるともうダメね。クラスで友達も何人か作ったけど、話題はいつも、昨日のドラマか、周りの恋愛事情か、部活の先輩のグチなんだもん。いい加減うんざり」
それは、以前の僕を取り巻く状況と非常に似ていた。三年生になった、今でこそ受験に目を向けて、必死に勉強するクラスメイトが大多数を占めるが、二年生のころは、先ほどの鍵掛さんの周りの人たちと同じような話題がクラスの中心に常にあった。ただ、以前の僕はそれにとくにうんざりすることもなく適当に話を合わせたり、興味のないドラマを夕月と一緒にただなんとなく見ていた気がする。
「そんな時私は思ったの、このまま淡々と高校生活を続けていていいのかなって、もっと、知らないことに目を向けてみようって、それからしばらくしてかな、学校に行ったり、行かなくなったりしたのは」
そのことについて親や先生から注意されなかったのですか? と質問を続けたかったが、それは超えてはいけないラインを踏み超えてしまいそうで、とても聞く勇気が持てなかった。
「次は私が質問していい? 理人クン、君がその馬鹿は生きてちゃいけないという過激的な考えに至ったのには、何か理由があるのではなくて?」
鍵掛さんはタバコを口に咥えて、こちらを覗き込むように聞いてきた。
「ええ、確かに理由はあります。ただ、他人にベラベラと喋るような内容ではありません」
僕ははっきりと拒絶を口にした。それは僕の超えてはいけないラインの向こう側の話であった。
すると鍵掛さんはクスクスと笑って――
「他人にか――、じゃあ、友達なら話してもいいの?」
「友達ですか?」
思わず聞き返してしまった。友達……小学生の時は当たり前のように使った言葉だけど、中学生になってからはあまり聞かなくなった言葉だった。小さい子供のように、「僕たち友達だよな」と確認しなくても、いつの間にか、一緒にいることが多くなって、自然と周りの人たちから、あの集まりは友達の和なんだなと認識されだす。だが――
「そう! 友達! 友達になろうよ理人クン! 私さー最近同じくらいの年の子でお話ができる子いなくて、気軽に相談したりとか遊びに行けるような友達が欲しいなって、思ってたの!」
鍵掛さんは、短くなっていた二本目のタバコを地面に投げ捨てて、ブランコから立ち上がる。そして両手を大仰に広げ夜の風を一身に浴びていた。そこだけを切り取るとまるでシェイクスピアか何かの舞台を最前列で鑑賞している気分になる。もっともシェイクスピアの舞台なんて一度も見たことないけど。
「ねぇ、いいでしょ! 別にクラスの子たちみたいにいつも一緒ってわけでもなくて、今日みたいにたまたま会った時に話すとかそういう関係でいいからさ! そうだ今ならプレゼントもあるよ!」
「プレゼント? 何がもらえるって言うんです?」
「それは、友達になるって答えてくれるまで秘密。どう、自殺しようと思ってたなら、その前にさ、友達一人増やしてみない?」
鍵掛さんは、こちらに顔を向けて、僕の目を真っ直ぐに見つめてくる、
「残念ながら友達になってもすぐにいなくなりますよ。それこそあと三時間ぐらいで」
「うーん、それは嫌だなぁ、じゃあさ、この一週間だけでも生きてみない? 夏休みの間はさ、受験とか、成績とかから、少しだけ解放される気がするじゃない」
いいや、まったくしない。少なくとも僕には。僕の三年生の夏休みは勉強とともにあった。朝起きて、朝食のトーストを食べながら、英語の単語帳をめくり、その後、日によっては塾に行く。帰ってきてから夏休みの宿題。夜ご飯を食べた後、また塾に行くこともある。
僕が黙っていると鍵掛さんが言葉を続けてくる。
「いや、でもね、やっぱり夏休みの間に死ぬなんてもったいないって、この夏休みは目一杯遊んでさ、それでも死にたいなら自殺すればいいじゃない。実は私もさ、学校に飽き飽きしてたころはさ、そりゃ死にたいとまでは思わなかったけど、こんな繰り返しの日常続けていても意味あるのかなって、結構考えてたんだよ。でも自分が今まで目を向けてこなかった世界に目を向けてみれば、退屈なんてすぐになくなって毎日が楽しくてしょうがないの! だからさ、理人クンも死ぬ前に私と一緒に今でも体験したことない非日常を体験しようよ!」
鍵掛さんは、サンタクロースの素晴らしいを伝える子供のような目をして、僕に訴えかけてきた。
非日常。僕が今でも目を向けて来なかった世界――
そんな日常に身を置けば僕は死にたくないと思えるようになるのだろうか。
僕は少し考えてから、
「わかりました。一週間……一週間だけ、死ぬのを先延ばしにします。この期間だけ僕たちは友人関係。その後のことはお互い干渉しない。それでいいですか?」
「いいよ、一週間だね。この一週間で理人クンに非日常の素晴らしさを教えてあげるから」
そう言うと、鍵掛さんは僕の方へと右手を伸ばして握手を求めてきた。この手を取ったら僕たちは友達になるだろう。
僕はズボンで右手の汗を軽く拭って、鍵掛さんの手を取る。その手の感触は意外なほど硬くて内心で少し驚く。
「うん! これで私たちは友達ね! 改めてよろしく理人クン! 私のことは奈琴って読んで!」
「ええ、こちらこそ。では奈琴さんと呼ばせてもらいます」
少し気恥ずかしくもあった。呼び方については彼女の希望に添えるようにした。十秒ほど立って僕の方から握手をほどく。
「じゃあ、これ、友達になった記念のプレゼント!」
奈琴さんは左ポケットに手を入れると、そこから封の切っていないタバコを差し出してきた。
「タバコですか……これをどうしろと? もしかして僕に吸えと、そういうことですか?」
差し出されたタバコを受け取れないままでいた。当然ながら、僕の人生に置いて一度もタバコを吸ったこともないし、吸いたいと思ったことも特になかった。ある意味では、タバコを吸うということは、自殺する以上の大罪であるように思えた。
「いや、もしかしても何も、これはもう君のものだよ。別に吸わなきゃ腸ぶっこぬくぞって脅すつもりはないけどさ。とりあえず物の試しで吸ってみなよ。このタバコは非日常に向かうためのパスポートみたいなものだから」
奈琴さんは空いている左手でポケットからライターを取り出して、僕の前に両手を突き出してきた。右手にタバコ。左手にライター。この場面を写真に納めて、その写真に大きく赤いバッテンを入れてたら、未成年の喫煙防止のポスターの出来上がりと、とてつもなくどうでもいいことを考えて、現実逃避あるいは決心がつくまでの時間稼ぎをする。
「今さら何タバコなんかで動揺してるのよ。死ぬつもりだったんでしょ、タバコは不健康の象徴みたいなイメージあるけど、その健康うんぬんから一番遠いところにいたじゃない」
奈琴さんは挑発するような視線を僕にぶつけてくる。強要するつもりはないといいながら、グイグイ押してくる。
わかった、ならば吸おうじゃないか。確かに奈琴さんの言う通り、僕は健康、不健康について考える必要はない。だったら――
僕は奈琴さんからタバコを無言で受け取り、封を切る。
右手親指と人差し指で挟んで、一本取り出し口に咥える。すると、奈琴さんがライターに火を灯して、僕の口元へと近づけてくる。
「軽く息を吸って、ホントに軽くでいいから」
奈琴さんに言われるがままに、タバコに火が点けられる瞬間、軽く息を吸う。
「ッ――――!」
まず、最初に感じたのは、痛みだった。口の中に雷が落ちたようでタバコを吹き出しそうになる。それをこらえると、次にやって来たのが、肺が痺れる感覚で、最後に絶叫マシンに乗った時みたいに脳がシェイクされて、前後不覚になる。
「うう、なんなんですかコレ……」
僕はタバコを指で咥えて、一度口から離す。喉と頭がとてつもなく痛い
「想像以上に想像通りの反応。理人クンやっぱり面白いわぁ」奈琴さんはお腹を抱えて大爆笑している。
「奈琴さんも最初吸った時は、こんな感じだったのですか?」
僕は灰を地面に落としながら、奈琴さんに問いただした。
「いや、私は最初から普通に吸えてたよ。私にタバコを勧めてきてくれた人が言うには珍しいタイプらしいけどね。大体の人が、今の理人クンみたいに一口吸った途端に苦しみだすみたいだよ」
なら、吸う前に教えてくれよと、内心で奈琴さんに文句を言う。そうこうしているうちに、タバコは夏場に放って置かれたアイスキャンディーみたいに崩れてしまった。奈琴さんは「これもあげる」とすでに火の消されたライターを僕の胸ポケットに入れてきた。
それから、奈琴さんはお尻のポケットからスマートフォンを取り出して、何やら操作をすると、こちらに向き直って
「ねぇ、理人クンの連絡先教えてよ。私、今日はこれから約束があってさ、そろそろ行かなきゃなんだけど、また、遊べる時に連絡するからさ」
そう言うと奈琴さんはスマートフォンの画面を僕に見せてきた。画面にはメッセージアプリのQRコードが表示されている。
「いや、でも僕スマフォ持ってないですし」
家入家でスマートフォンを持っているのは、父さん一人であり、僕も夕月も持っていない。僕の周りでも中学生になった時から、少しずつ持っている人が増えて、持っていない人は仲間外れになる。そんな空気が出来つつあったが、僕は特に気にしたことはなかった。
「えっ、嘘でしょ……今時スマートフォンを持っていない中学生がいるなんて、なんの冗談よ。仕方ない、妥協案でいきましょう。家電はあるよね。そこの番号教えて」
奈琴さんは、スマートフォンを操作して、今度は電話番号を表示させる。
僕は書き留めるものを何も持っていなかったので、頭の中に記録するしかなかったが、幸いというべきか、奈琴さんの電話番号は同じ数字が連続している特徴的な番号であり、覚えるのはたやすかった。
次に僕が電話番号を口頭で奈琴さんに伝える、奈琴さんはそれをスマートフォンのアドレス帳にポチポチっとなと言いながら登録する。
「理人クンの家ってさ、夜に電話かけても大丈夫なタイプ?」
「ええ、大丈夫ですよ。父さんはあんまり家にいないですし、夕月……妹が出ても、僕のクラスメイトで連絡事項があるとでも言ってもらえれば」
「りょーかい、じゃあ、また連絡するねー。バイバイ」
奈琴さんは、スマートフォンをポケットにしまうと僕の横を通り抜けて、そのまま公園の出口へ向かって歩いていく。僕が「はい、ではまた」と別れの挨拶をすると、奈琴さんは、振り返らずに右手を軽く振って応えた。
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