第5話 警告

 あの後、家に帰ってからしばらくすると、

「葵くんの家に行ってくる。お母さんが借りて来た面白い映画があるんだって、夜ご飯も向こうで食べてくるから」

 そう言って夕月は葵くんの家に出かけて行った。その時には声をあらげて泣いていた面影などなく、心なしかランチに行く前よりもキラキラした顔だった。

 僕は昼間のうな重の松が、胃の中に重く残っていたので、薬箱から胃薬を取り出し、一袋飲んだ後、学習塾に行くための準備をしていた。その時、ふと昨日ディスカウントストアで購入したロープが目に入った。今日改めて死ぬつもりなら、学習塾に行く準備ではなくこれを使って死ぬべきだ。父さんは今日も帰って来ないだろうし、夕月が帰ってくるのは八時頃だろう。

 ロープを手に持ち、自室で括れる場所を探そうとした時――

「ええ、だって理人クンもあの子も死んだ後の迷惑を考えてないじゃない」

ああまた、あの声、あの台詞だ。もう背後を振り返ることはしなかった。すると声は続けて、

「それに家族の人も大変よね、身内に自殺者がいるってどんな気分なのかしら」

頼むから静かにしてくれないか。君には関係ないだろう。僕の家族のことも、誰が僕の遺体を片づけるかも。

「じゃあ、またね」

 僕の思いとは裏腹に声は続けられる。

「また、なんてないよ」

 僕は誰もいない虚空へ返事をした。するとリビングに置いている電話機が甲高い電子音でパッヘルベルのカノンを演奏しだした。僕の家の電話機は細かく着信音が設定されていて、房俊おじさんならラヴェルのボレロ。お母さんの実家ならベートーヴェンのエリーゼのために。そしてこの着信音を設定してあるのは――

 僕はリビングに行き、ロープを食卓に置いて、オレンジ色に光るディスプレイを一瞥する。そこに表示されている名前は「イエイリ シュウト」僕は軽く息を吸って受話器を取る。

「もしもし、理人です」

「理人か、父さんだ。急な仕事が入ってしばらく帰れそうにない。食費はいつものカードを使ってくれ。ではな」

 それだけ言うと父は電話を切った。僕らはこのやりとりを何度繰り返したのだろう。いつも同じ文言、十秒足らずで終わる。たぶん、これが家入柊人(しゅうと)にとっての父としての仕事なのだ。これが父と息子の人生最後の会話になるとは夢にも思ってないだろう。

「お母さん……本当に父さんは僕に期待してたの?」

 期待なんてしていなかった。僕にもおそらく夕月にも。ただ自分が仕事をしていく上で邪魔にさえならなければどうでもよかった。そう言った意味では、僕と夕月は父にとって理想の子どもだったのではないかと思う。

 僕は、食卓に置いたロープを手に取ろうとした時、夕月のことが頭によぎった。父とは、あの会話が人生最後の会話になったとして、夕月との人生最後の会話がおよそ会話とは言えないものになったことに若干の後悔を覚えている。僕がこの世で最後に話す相手はお母さんが亡くなった後、家族というものの大部分を占めていた夕月にしたかった。

 夕月が帰ってくるまで待とう、最後くらいキチンと話してその後に死のう。

 それまでの時間を何をしようか? いや、何をすべきだろうか。

 残った夏休みの宿題も、生命活動を維持するために必要な食事さえ、もうしなくていいとなると、急に手持ち無沙汰になる。誰かに電話でもかけようかと考えたけど、今更話をしたいと思える人もいない。それを僕は少しだけ悲しく思う。

けど、それと同じくらいこれでよかったとも思う。僕の後を追って死のうとする人はいないだろう。仮にそんな人がいたとしたら、死にたくても死ねない。そんな風に自分の命さえも自分一人のものではなくなるのは御免だ。僕の命は僕一人で背負って、そして僕の手で終わらせたい。

 そんなことを考えた時、一人の少女が僕の背後にそっと座った。

 この時僕は後ろに振り返ってもいないし、「アナタはおいくつなのですか?」と声に出して尋ねた訳ではない。

 ただ、僕の後ろに少女が、それも僕と同じか少し年上で白糖のようなベタベタとした幼さはなく、ミントウォーターみたいな爽快さを今まさに纏いつつある。そんなイメージを抱かせる誰かがいた。

「何か御用ですか?」

 振り向くことはせず、要件だけを聞く。普通に考えれば物音一つ立てず、この部屋に侵入することなんてできるわけがない。そしてあまつさえ金品を漁るのではなく、かといって僕を脅迫する様子もなし。これは明らかに異常事態だった。そしてそれを視認せずに把握できる僕も異常であった、つまりこれは常識では図りえない出来事が起きている。ならば、こちらは落ち着いて対応するしかない。異常に対して異常に驚いたり、警戒したりしてはいけない、ただあるがままで受け入れなければならない。そう教えてくれたのは、岡野先生だったか。それとも富村先生だったか。それは忘れてしまったが、今大事なのは誰が言ったかではなく、それを実行できるか否かだった。そして僕はそれを僕にできる範囲で実行する。怯えず、そして動じず。そんな風に僕は彼女に対する。

 二分ほど経っただろうか。彼女は一言、

「警告」

 そう言い残してこの部屋を去った。そして残された僕はその言葉の真意を探る。

警告? 今更何に対して警告しろと言うのだろうか? 僕にはもう失うものなど何にもないと言うのに、それとも、自殺をする前にこの世でやり残したことがあるから、それを終わらせなさいと、そういう意味での警告だろうか。 

 やり残したこと……やり残したこと……

「あー」

 その時、僕が思い当たったのは昨日の鍵掛奈琴との一件だった。

 昨夜、彼女の意見に対して僕は暴力で対抗してしまった。討論の席に暴力を持ち出す。それは普段、僕が嫌悪していることの一つだった。 それをこのままにして、この世を去るのは、心残りと言えるだろう。

 僕は、今一度、鍵掛奈琴に会わなければならない。それはロールプレイングゲームで勇者が魔王を倒しに行くような、あるいは将棋において、銀の駒を横に動かすことのできないような、そんな決まりごとのように思えてきたのだ。

 電話機に目を落とすと、ディスプレイは十八時十五分を表示していた。夕月が帰ってくるのは八時過ぎ。まだ充分に時間がある。

 この日僕は、生まれて初めて学習塾をサボタージュした。

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