第4話 地雷
房俊おじさんが連れて行ってくれたのは、駅前のうなぎ屋だった。
「お前ら、鰻食うのは久しぶりだろ。遠慮せずにいけ」と房俊おじさんは豪語すると、僕と夕月に松を、房俊おじさんは梅を注文した。十分ほどして運ばれてきた松は想像よりも大きくて、元々食が細い僕は全部食べ切れるか不安になった。どうにか半分食べた所で、お茶をすすっていた房俊おじさんが声を低くして、僕たちに話かけてきた。
「お父さんは最近どうだ? ちゃんと家のことはちゃんとしているのか?」
僕はなんと答えたらいいのか迷っていた。正直に言うとあまりしてくれているとは言い難い。せいぜい全自動洗濯乾燥機に自分の汚れ物を入れて翌日取り出すぐらいだ。だいたいの家事は僕と夕月が当番制でこなしている。うまい言葉が出て来ないので、横目でチラリと夕月の様子を伺うと、同じように横目でこちらを見ていた夕月と視線がぶつかる。
「どうやら余りちゃんとしていないようだな。全くあいつだけは……いい加減父親の自覚を持ってほしいものだ。これじゃあ天国の璃子(りこ)さんに合わせる顔がない」
房俊おじさんは怒っているような、呆れているような、あるいは嘆いているような、そんな感情がごっちゃになったような声を吐き出した。場に重い空気が流れる。こんな時になにか気のきいた台詞でも言えればいいのだが、僕はそんなに器用ではなかった。
十分ほどして夕月が食べ切れなかったうなぎを房俊おじさんが代わりに食べて、僕らは店を後にした。房俊おじさんが帰りスーパーでアイスを買ってくれると言うので、来た道とは別の道を歩いていると、昨日僕が自殺しようとして鍵掛さんと出会ったあの公園の前を僕らは通りがかった。
「懐かしいなぁ、覚えてるかこの公園、お前らを連れてよく遊びに来てたんだ」
房俊おじさんが足を止めて公園に目を向ける。当然ながら僕に懐かしさはなくて、背中のあたりぞわぞわして冷たい汗が流れる。そんな僕の様子に気づくことはなく、夕月も懐かしさに目を細めて、
「覚えてる、覚えてる、お兄ちゃんとよく来てた!」
夕月の鈴のような甲高い声が響いた時、公園の中から、こちらに向かって距離を詰めてくる。小さな人影が見えた。
「夕月ちゃん……? どうしたのこんなところで? 隣の人はお父さん?」
公園の中から僕らに近づいてくる小柄な人影があった。見たところ小学生低学年くらいの男の子で、右手にスケッチブックを持ち、ゴッホの向日葵が印刷されたtシャツを着ている。僕と同じタイミングでその男の子を視認したであろう夕月が突然駆け出し、その男の子に飛びついた。
「ブブー、ハズレ、この人はパパじゃなくて、前に話してた、よくお土産持って来てくれるおじさん。その隣にいるのは夕月のお兄ちゃん。パパは仕事中だよ。
夕月が葵くんと呼ばれた男の子の首元に腕を絡める。葵くんは一瞬振り払おうとするが、諦めたような顔をして、夕月にされるがままになっていた。少しして夕月がこちらに顔を向けて、笑いかけてきた。その笑顔には何か含みがあるようで、僕はこの時初めて夕月の少女としての一面を見た気がした。
「紹介するね、夕月のクラスメイトの古町(ふるまち)葵君、趣味は読書と絵を描くこと、特技は折り紙だよ」
夕月がそう紹介すると、葵くんはペコリと頭を下げて、僕たちに挨拶をした。
「ねね、今日は何を描いてたの?」
夕月がそう言うと、葵くんが手に持っていたスケッチブックをパラパラパラと夕月に見せていた。
「今日、書いてたのはテントウムシだよ、ほら、あの草を登っているんだ」
「わぁ、素敵なテントウムシさんね、きっと彼も喜んでいるわ! こんなに綺麗に書いてくれてありがとうって!」
夕月が葵くんの頬にすりすりと自分の頬を摺り付ける。いわゆる頬ずりだ。葵くんは流石に顔を赤らめて、ちょっと止めてよ夕月ちゃん……と呟いているが、夕月はその呟きが聞こえなかったかのように、頬ずりを続けている。
「夕月、やめなさい。葵くんが困っているだろう」
房俊おじさんがこんな風に夕月のことを注意するのは珍しい。その声にはいつもの陽気さはなく、まるで危険なことをした生徒を叱る学校の先生のようだった。
「はぁい、やめます。でも別に葵くんも困ってたワケじゃないもん」
夕月は渋々といった感じで、葵くんから距離を取る。葵くんはホッとした様子で、セイタカアワダチソウの方へ早足で歩いていく。
「夕月、お前いつもあんなことをしているのか?」
房俊おじさんが今日一番低い声で夕月に尋ねる。
「別にあんなの普通だよ、クラスにはキスとか、もっと色々してる子もいるし」
夕月はなにか問題でもあるのとばかりに、僕らをというより、房俊おじさんを睨み付ける。
「お前まだ四年生だろ、あんまり大人の真似ごとばっかりするんじゃない。天国のお母さんにも怒られるぞ」
「ママは関係ないじゃない!」
突然響き渡る怒声、夕月がこんな声を上げるのは、僕が知る限りだと初めてだった。どうやら先ほどの房俊おじさんの発言は夕月の地雷を見事に踏み抜いたようであり、それも周囲一体を吹き飛ばすほどの特大のクレイモアだったみたいだ。
「さっきのお昼ご飯の時もそう! 房俊おじさんは何かあるたびに、天国のお母さんはー天国のお母さんはーって、しつこいんだよもう! いい加減にしてよ!」
夕月ははぁはぁと息をして、目には涙をいっぱい貯めて房俊おじさんを睨み付けている。
「そうか……ゴメンな夕月、理人……余計なことを言い過ぎたよ。そうだよなぁ、こんなこと口をだすべきじゃあなかったよなぁ」
おじさんはそれだけ言うと、クルリと背を向けて公園を去って行った。葵くんが駆け寄ってきて、「大丈夫? なにがあったの?」と訪ねると、夕月は「ううん、心配かけてゴメン」と言って、葵くんの胸に額を預けていた。僕は急いで房俊おじさんを追いかけようとしたけど、何と声をかけたらいいのか思いつかなくて、足を踏み出すことが出来なかった。ただ、最後に見えた房俊おじさんの寂しそうな顔だけが、僕の脳裏に焼き付いた。
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