第3話 延命
僕は虚脱感に包まれながら帰宅した。築八年の十階建てマンションの五階の角部屋。それが僕の家だ。玄関を開けると、リビングから光が漏れていて、中入ると妹の
「おかえりなさい、お兄ちゃん。ずいぶん遅かったけど何かあった?」
本から顔を上げてこちらを見つめてくる。長い黒髪とシーリングライトの光を反射してキラキラと輝く眼、贔屓目なしで見ても整った容姿だと思うが、全く異性を意識させないのは、まだ小学四年生の児童だからか、それとも家族だからなのだろうか、最近分からなくなっていた。
「別に……気分転換しようと思って散歩してただけさ」
僕は適当な言葉で誤魔化した。とてもではないが今日あったことを正直に話すことはできない。自殺をしようとしたら、タバコを吸っている女の子に見つかって、さらにケンカで負けましたなんて、冗談にしてもセンスがなさすぎる。
「それよりもう十一時だろ、そろそろ寝ないと明日ラジオ体操遅刻するぞ」
話を切り上げ、夕月に寝るように促す。もっとも夕月が遅刻したことなど母が亡くなってからは記憶にないが。
「ハイハイもう寝るよー、そういえばさ、
「そっか……家片づけとかないといけないな」
僕も夕月もどちらかと言えば几帳面な性格なので部屋はあまり散らかってないが、話題が変わったことに内心安堵して適当な相槌を打つ。すると夕月がソファーから立ち上がり、軽く伸びをしてから返事をしてきた。
「そうだねー、掃除機かけとくよ、お休みーお兄ちゃん」
「ああ、お休み……」
夕月が僕の横をすり抜けて、部屋から出る。僕は夕月が座っていたソファーに寝転んで「帰って来ちゃったな」と呟く。本当は今日全て終わらせるつもりだったのに、あの女の子のせいで……
それなりの覚悟をもって家を出たつもりだった。もう帰ってくることはないと思っていた。でも今、こうして自宅のソファーに寝転んでいる。
『君はさっき怒りに任せて後先考えずに私に掴みかかってきた。それは理人クンとっての大きな前進、大切なことよ』
鍵掛奈琴と名乗った少女の最後の言葉が頭の中で繰り返し再生される。大きな前進? なにが大切なことなのかさっぱりわからない。ただ一つわかることがあるとするならば、僕の人生を長引かせたのは間違いなくあの子だと言うことだ。
いつの間にかソファーで寝てしまっていたらしい、目を開けるとカーテンの隙間から日の光が差し込んでいる。壁にかけてある時計に目をやると朝の六時二十分だった。冷房は昨夜から付いたままだが、寝ている時に汗をたっぷりとかいてしまっていて、服が重たく汗臭い。着替える前にシャワーを浴びようと浴室に足向けた。
シャワーを浴びながら僕は今日一日の予定を考えていた。いつもは前日にある程度考えてから寝るのだが、昨日寝落ちしてしまっていたし、そもそも今日がくることを想定していなかったので、全く予定を考えていない。なのでこれから最低限の予定を考えなくてはいけない。
まず考えるのは、今日改めて自殺するべきかどうかだ。昨日はトラブルがあったせいで自殺出来なかったが、今日は死ねるだろう。昨日死ぬのも、今日死ぬのも大した違いはないせいぜい位牌に刻まれる没年月日が一日ズレるだけだ。そんなことを考えていると、背後から、
『理人クンもあの子も死んだ後の迷惑を考えてないじゃない』
思わず浴槽の方を振り返った。当然そこには誰もいない。
「耳障りだ……」
誰にも届くはずのない囁きは、シャワーの音でかき消されて、宙に散った。
「お兄ちゃん、そっち持って」
午前十一時、僕は夕月と一緒にリビングの掃除をしていた。妹が普段空いた時間で掃除をしてくれているので、あまり汚れていないと思ったが、いざ掃除を始めてみると、家具の陰や隙間などに埃が溜まっている。
「いっせのーで持ち上げるぞ」
二人でテレビ台を動かして、陰になっていた部分にたまっている汚れをとる。
「ねぇねぇーお兄ちゃん、リビングの大掃除するのっていつ以来だっけ」
そういえば、いつ以来だろう、少なくともここ二ヶ月は掃除をした記憶はない。母が生きていたときはよく僕と夕月と母の三人で協力して週末に掃除をしていた。掃除が終わったあとに、三人でショッピングモールに遊びに行ってパフェを食べたり、ゲームセンターで遊んだりしていたが、母が亡くなってからは週末にどこかへ出かけることは極端に少なくなった。父は土日にも大抵は家に帰らずに仕事に明け暮れているし、僕も勉強に力を入れるようになって、あまり外に遊びに行きたいと思わなくなった。
「たぶん、半年ぶりぐらい」
「半年かぁーそれは埃もたまるわけだねー」
夕月が掃除機の先端を取り替えて、細かい埃を吸っていく。その様子を何気なくなく見ていると、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「僕が出るから、夕月は掃除を続けてて」そう言ってから、玄関に向かいサムターンを回して解錠する。直後ドアが向こう側から引っ張られる。解錠してからドアが開かれるまでのあまりにも間がなかったので、僕はサムターンから手を放し損ねた。その結果僕は前のめりに転倒しそうになる。このままでは地面にぶつかるなと、衝撃を覚悟したところでドアの向こう側にいた来客に体を支えられる。
「すまん、すまん。もうちょっとゆっくり開けたらよかったな。あまりに久しぶりだから待ちきれなくてな。よぉ、元気だったか? 理人」
顔を上げるとまるでハリーポッターのような丸メガネに、テーマパークのスタッフのような柔和な笑顔の房俊おじさんがいた。
「久しぶりってほどじゃないよ、一ヶ月ぐらい前に桃を持って来てくれたじゃない」
僕は体制を整えて、房俊おじさんから離れる。房俊おじさんは好感を持てる数少ない大人の一人だが、いつまで経っても僕を子供扱いしてくる。そういうところは僕は少し苦手だった。でも、叔父ってみんなもそんなものなのかもしれない。甥や姪をいつまでもそんな風に扱うのが、叔父の役割なのかもしれない。――いや、みんなではない。少なくともあの人は僕を、いや夕月も含めて子ども扱いしたことはなかった。けど、それは……
「おい、どうした理人。ボーっとして、早く部屋に入れてくれ、このままじゃあ俺倒れちまうよ」
いけない。また、どうでもいいことを考えてしまっていた。早く房俊おじさんを部屋に入れてあげなければ。
僕はどうぞとだけ言って房俊おじさんを部屋に招き入れる。
リビングに入ると、夕月が麦茶を三人分コップに注いで、テーブルの上に置いておいてくれた。房俊おじさんはそれに気付くなり、一目散にテーブルに駆け寄り、一番手前にあったピンクの水玉模様のガラスコップを手に取り、一気に飲み干す。
「夕月ーおかわりー」
そう言って房俊おじさんは夕月におかわりを要求する。
「夕月、喉乾いてないから、夕月の分も飲んでいいよー。てか、今おじさんはが飲んだの夕月のコップだし、房俊おじさんのはその後ろにあった、ウサギの柄のやつだよ」
「ああーすまん。それが夕月のコップかと思ってた。ウサギは俺には可愛すぎるかなと、てか理人見てたんなら言ってくれよ」
とても口を挟める勢いではなかったのと、あと、僕もどれが夕月のコップでどれが房俊おじさんのコップだかわからなかったというのもある。この家のコップは生前お母さんが買い集めたものばかりで、どれもこれもが可愛すぎる。そして可愛いコップはどれも割れやすいときている。そのため頻繫に買い替えなければならなかったので、僕はどれがお客様用でどれが夕月のコップなのかがわからなかった。
しかしそんなことを房俊おじさんに説明しても、笑い飛ばさるだけだろう。だから、僕は「ゴメン、ゴメン」と形だけの謝罪を口にする。
「まぁ、いいけどよ。それより、今年暑すぎじゃない? 俺の同僚がここ最近立て続けに熱中症になって病院送りになったんだけどさ。みんな口を揃えていうわけよ。今年の夏は過去最強に暑いって」
過去最強とかいう、まるで小学生の男の子みたいな発言を中年のサラリーマンが口にするのかと意外に思った。それとも房俊おじさんの周りの人だけなのかもしれない。類は友を呼ぶ。時々おじさんは同僚の人の話をするけど、それは同僚というより、親しい友達の話をするような口調だった。
「いくらなんでも、熱中症になりすぎじゃない? 夕月だったたらそんな会社やめちゃうなぁー」
少し離れたところでソファーに座り漫画を読んでいた夕月が呆れたよう言う。
「そう簡単に辞めるわけにもいかないんだよ。それに熱中症になったのは会社のせいだけじゃない。本人の体調管理が悪かったってのもあるだろうしな。お前らも水分補給は細目に取れよ。部屋の中にいるからって油断するなー、最近は室内熱中症も増えてるって話だし」
僕はうん、わかったと返事をした。夕月は返事をせず、また漫画を読む。僕が房俊おじさんの子ども扱いしてくることを苦手としているのと同じく、夕月はこういう風に時々小言を言ってくるのを苦手としているようだった。
「ところで、水分補給以外での熱中症予防といったらなんだと思う?」
房俊おじさんの質問に僕は少し真剣になって考える。ありきたりというか、すぐに思いつくのは塩分補給とか首の裏を冷やすとかだけど、房俊おじさんの顔を見るとそのようなありきたりな答えではないように思えた。
「それはな、活が入るものを食うことだ。というわけで昼飯は鰻を食いに行くぞ! お前ら準備しろ!」
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