第2話 最悪
「うん……大丈夫、行ったみたい」
鍵掛さんがすべり台の陰からひょいと顔を出して、公園の入り口付近をまじまじと見る。少し遠くから初老の男性の落ち葉を掻き回したようなかすれた声が聞こえてくる。
「鍵掛さんはこういう事慣れているんですね」
「こういう事って? 知らない男の子に声かけること? それなら何回かあるよ」
「補導員のおじいちゃんから身を隠すことですよ」
彼らの気配を感じた鍵掛さんの行動はまさしく俊敏というしかなかった。
何やら声らしきものが聞こえるやいなや、僕の手を引っ張り滑り台の陰へ押し込めると、鍵掛さんもその横にしゃがみ込み、唇の前に指を立て口角を上げた。
「そだねー、もう条件反射みたいなものかな、でもまだ詰めが甘い人で良かったー。キッチリした人だと遊具の裏とかもいちいちチェックするから私たち見つかってたよ」
「もしチェックされてたら、どうしたんですか?」
「どーもしないよ、この時間ならまだ口頭注意だけでしょ。でも理人クンはそれだけじゃないかもしれないけど」
鍵掛さんは、視線を公園の入り口から、僕へと移してペリドットの眼で僕を真っ直ぐに射貫く。
「それじゃあ、さっきの話を続けましょうか、なんで死のうと思ったの?」
僕は一度宙を見上げて、息を吹き出す。そして彼女を向き直って一言
「それは僕が馬鹿だからです」
そう言うと鍵掛さんは、口を開けて、ポカンとした後、
「ゴメン、もう少し詳しく話して」
「詳しくも何も学力不振ですよ、四月からここ最近にかけて段々と成績が落ちてきて、このままだと志望校に受からないんです」
「うん? つまり君は学校の成績が良くないから死のうと思ったってこと? いじめとか、家庭問題とかじゃなくて?」
鍵掛さんは、ガチャガチャで目当ての玩具が出なかった時のように不満げで眉間にシワを寄せる。
「死にたい理由はそれだけ?」
「ええ、それだけです。別にいじめられているわけでも、親から虐待されているわけでもありません」
「理人クン……君……あんまり面白くないね、ちょっとがっかり」
僕は何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこない、すると鍵掛さんが言葉を続ける。
「何かもっとグズグズドロドロした面白い理由があるのかと思って、声をかけたのにさー、前に飛び込み自殺をしようとした女の子は結構込み入った事情があってね、初恋の人を妹にとられて、その腹いせで妹の恥ずかしい写真をバラまいちゃったんだって。もうその後は地獄よね、妹は部屋から一歩も出られなくなっちゃうし、親からはもう娘じゃないだの、悪魔の子だの言われてさー、それで何処にも居場所がなくて、死ぬしかないーーって家を飛び出し、踏切へダイブって話」
最悪だ……まだ、先ほどの補導員のおじいちゃんに見つかった方が良かったかもしれない。彼女には良心やモラルと言ったものがまるで感じられない。今の話だって、その飛び込み自殺をしようとした彼女からしたら、真剣な問題であり、決して他人に面白がられるためにしたことではないだろう。それを軽々しく他人に話す。
「鍵掛さん、貴方最低ですね」
僕は面と向かって人に皮肉や暴言を言ったことはあまりない。そういうことを言って人から不興を買わないのは一部の独特のキャラクターを持つ人だけだとそういう自論があるからなのだが、今回ばかりは勝手が違った。お腹の底から湧き出ててくるような嫌悪感。それが僕を突き動かした。
しかし鍵掛さんはどこ吹く風といった様子でタバコを一本、箱から取り出し口に咥えて流れるような動作で火をつける。そして一息吐いてから、
「最低ねぇ、どちらかと言うと最低なのは理人クン達のほうじゃない?」
一瞬、彼女の言葉が上手く飲み込めなかった。最悪? なぜ?
「達って、僕とその女の子のことですか?」
「ええ、だって理人クンもあの子も死んだ後の迷惑を考えてないじゃない。貴方たちの遺体は誰が片づけるの? 電車に引かれてグチャグチャになった女の子や目玉が飛び出て、顔がパンパンになってる男の子。それを片付ける人のことを考えたかしら、それに家族の人も大変よね、身内に自殺者がいるってどんな気分なのかしら、私には想像もつか――」
僕は鍵掛さんの言葉を遮って両手で胸倉を掴む。異性にこんな事をするのは当然初めてだった。ワンピースは掴んでみるとサラサラしすぎていて、ふとした時に僕の手をから滑りぬけてしまいそう。衝撃を加えられた鍵掛さんは壊れた人形みたいに首がガクッと大きく前に揺れる。それからベルベットの瞳を大きく見開き、僕の目を見て一言。
「前言撤回、君やっぱり面白いかも」とそう呟いた。
僕はその時、反射的に恐怖を覚えた。華奢で乱暴に扱ったらガラス細工みたいに粉々になってしまいそうなこの少女のどこが恐ろしいのか、それはまるでわからなかったが、一刻も早く、ワンピースを離さないといけないとそう理解する。だから僕は手のひらを開こうとしたけど、手はまるで僕の言うことと聞いてくれなかった。それどころかますます力が入ってワンピース越しに爪が食い込む。このままではいけない。そう考えていた時、鍵掛さんが口を開いた。
「ねぇ、理人クン喧嘩したことないでしょ」
鍵掛さんはそう言い終わるやいなや、足元に激痛が走る。鍵掛さんのヒールが僕の右足の甲をグリグリと踏みつけていた。思わず突き飛ばそうとして、両手の力を抜いた瞬間、鍵掛さんの肘が僕の鼻先を突き刺さる。先ほどの激痛が子供の悪戯だったと思えるほどの痛み。馬鹿みたいに鼻血が出てくるので、うずくまって右手で鼻を押さえていると、頭上から鍵掛さんの声が聞こえた
「喧嘩に慣れている子なら胸倉を掴んだりせずに、不意打ちで殴り掛かってくるわ。さっきの私みたいに」
鍵掛さんはしゃがみ込んで僕と目線を合わせる。咥えていたタバコを右手の人差し指と中指で挟み込むと口から離して地面に押し付ける。ジ、ジ、ジ、と古い腕時計を耳に当てた時のような音がして火が消える。ふわぁと鍵掛さんは口に残っていた煙を僕に吹きかけて、小さい子供を諭すような声で
「君はさっき怒りに任せて後先考えずに私に掴みかかってきた。それは理人クンとっての大きな前進、大切なことよ」
そう言うと彼女は、ゆっくりと立ち上がり、手でパンパンとワンピースに付いた砂を払うと、「じゃあ、またね」とだけ言って、足音も立てず鍵掛さんは公園を後にした。
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