デストルドー
羊部 アス
第1話 最期
僕の人生最後の買い物は近所のディスカウントストアで買った五百円ちょうどの綿のロープと、三千九百八十五円のプラスチックで作られた折りたたみ式の二段構造の踏み台と、三千五百円のゴディバのチョコレートだった。当初の予定では、ゴディバのチョコレートを買うつもりはなかったが、最後ぐらい贅沢してもいいだろうと思い、購入するに至った。
僕は右手に踏み台を左手にロープとチョコレートを入れたビニール袋を持って自動ドアの前立つ。
一瞬の間があり、ガガガガッと音を立ててドアが開くと加湿器のような熱気が襲い掛かってくる。二十一時過ぎとはいえ、七月の夜はまだまだ暑い、早くしないとチョコレートが溶けるなと思いながら、目的地の公園に向かって歩き出す。
僕は目的地に向かう道すがら、家を出る前に書き記した遺書について、思い巡らしていた。
それは十五年に渡って僕を養い育ててくれた父さんと、五つ歳の離れた実の妹に向けたもので、一枚目は父さんに向けたものであり、期待に応えられなかったことへの謝罪を綴った。二枚目の便箋は妹の
死人から激励があったとなればいらぬプレッシャーを与えてしまうかもしれないと危惧もしたが、送った言葉は僕の偽らずの本心であり、そしてそれはちゃんと文字にして送るべきであると思ったので、多少の躊躇いもあったが書かせてもらった。
ただ、一つ思い残しがあるとすれば感謝の言葉を書けなかったことだろうか。
今まで面と向かって父さんや妹に感謝の言葉を口にした記憶がなく、なんと書いたらいいのかわからなかったのだ。それらしいことを書いて、取り繕うという選択肢もあったが、最後の最後にそんなことはしたくなかったので、散々悩んだ挙句書かないという結論に至った。
他にも思い出とか印象的なエピソードとかについても書くべきかとも思ったが妹はともかくとして、父さんと親子の会話を言えるものをしたことがほとんどない。父さんは典型的なワーカーホリックであり、家にいる事が極端に少ない人であった。偶に家にいても分厚く小難しいタイトルの本を読んでいるか、お母さんが入れたコーヒーを飲みながら報道番組を見ていることが多く、僕や妹と積極的に会話をしようとする人ではなかった。
期待されているというのも半年前にとある事故で亡くなったお母さんが言っていただけであり、今となっては父さんの本心は皆目見当もつかない。
そんな風に記憶の引き出しを開け閉めしながら、所々にひびが入った歩道を歩いていくと、目的地である公園にたどり着いた。この公園は僕や妹が小さいときによく遊びに来ていた遊び場であり、鉄棒、滑り台、ブランコ、ジャングルジムなどのありふれた遊具が並んでいる。僕は手前にある、ジャングルジムの横を通り抜けた、奥に置かれているブランコに向かって歩いて行く、支柱が空色で塗られたこのブランコは子供のころ僕が一番好きな遊具だった。だからこそ僕はこの遊具を自分の人生を終わらせる凶器に選んだ。
僕は左手に持ったビニール袋をブランコの座席に置き、踏み台を活用して、ロープをブランコの上の支柱に結びつけた。
あと、僕がこの世でするべきことは、結び付けられたロープで首にくくることだけだ。おそらく十分足らずで終わるだろう。そこまで考えたところでゴディバのチョコレートを口にしていないことに気が付いた。「最後の晩餐だ……」とひとり呟いてブランコの座席に腰を掛ける。
ビニール袋からチョコレートを引っ張り出して、朱色の包み紙を破り、箱を開けると、十二個のチョコレートが枠に収められていた。僕は右上のチョコレートをつまむとそれを口に運び、口の中でゆっくりと溶かす。チョコレートの中身は苺のゼリーだったようで小学校の給食で出てきた、イチゴジャムに似て非なる香りが鼻をくすぐる、百円の板チョコにはない苦味とシロップの甘味を味わいながら、僕の死に場所となるこの公園を見渡す。
今夜は月もなく、十九世紀末の英国をイメージしたような街灯だけが唯一の光源だった。その光源はこのいささか侘しい公園を照らすには、明るすぎるように思える。そんなにキラキラと輝いて何を照らしたいのだろうか。
そんなひどくどうでもいいことをついつい真剣に考えてしまう悪癖が僕にはあった。でも今更直そうとは思わない。だってその必要はもうないから。
僕が二つ目のチョコレートに指をかけたところで、ザクザクという物音が公園の入口の方から聞こえてきた。もしかして、警察あるいは補導員が深夜の見回りに来たのだろうか。そうだとするならば非常に不都合である。今の状況下でもっともらしい言い訳など思いつかないし、逃げようにもこの公園には入り口が一つしかなく、走って相手の脇を通り抜けしかない。
どうする、どうすると必死に頭を回していると徐々に相手の足音が大きくなってくる、逃げるしかない……そう考えて一歩足を踏み出そうとした瞬間。
「本日はご来園誠にありがとうございます。恐れ入りますが本日の営業は終了致しました。またのお越しをお待ちしております」
抑揚がなく、温度を感じさせない声と動物園の閉園アナウンスのような女性の声、僕は思わず声がした方を注視する。
「繰り返しお知らせ致します。本日はご来園誠にありがとうございます。恐れ入りますが本日の営業は終了致しました。またのお越しを心よりお待ちしております」
こちらに距離を詰めながら、繰り返し発せられるアナウンス、そこにいたのは黄昏時の小麦畑を想起させる金髪をツインテールに、ペリドットのような明るすぎる緑色のパッチリとした眼、雪原みたいな純白のワンピース、そしてそのワンピースよりも白いのではないかと思わせる、病的なまでに白い肌の少女だった。
「えっ、いや、すみません、すぐに帰りますから」
僕は何に対して謝ればいいのかわからなかったが、とりあえず謝った、この状況で自殺をするなんて不可能だ、下手をすると通報されるかもしれない
「ホラホラ、急いで急いで」
少女はパンパンと手を叩いてせかしてくる、僕は何も持たずに走り出す、脳みそがバチバチと音を立てて火花を散らしている感じがするし、心臓も爆発しそうな勢いで脈を打っている。
「ちょっと! 荷物忘れてるよ」
彼女の横をすり抜けようとした僕の左腕が不意につかまえられる。僕は反射的に振りほどこうとするが、なかなか振りほどけない。
「す、すいません! 今すぐ片付けますから」
僕は腕をつかまれたまま、顔をブランコの方に向けた。ブランコにはまだロープが吊下げられたままで、何とか彼女に気づかれず回収する方法はないものだろうかと必死に頭を働かせるが妙案は浮かばない。すると彼女もブランコの方に顔を向けて言葉を発する。
「なかなか素敵な処刑台ね、絞首刑になるのは貴方かしら、ワクワクしちゃう」
ブランコから視線をこちらに写し、熟視する彼女、その目線はブクブクと太った蟇蛙を見つけた蛇のようだった。
「ねぇ、死ぬ前になにか死ぬ前になにか言い残したいことはあるかしら」
彼女の顔がグッと近くなる、吐息がかかる距離まで彼女が顔を近づけたのだった。思わず息を吞む。僕の人生の中でこんなにも異性と顔を近づけたことがない、あと、五センチ顔を近づけてしまえばキスができる距離。自然と彼女の唇を意識してしまう。彼女の唇はまるで熟れすぎた林檎のように赤く染まっていた。そしてその唇から視線を彼女のペリドットの眼を移し、僕の口は自然と言葉を発した。
「その目の色は生まれつきですか?」
僕が口にしたのは、最後の言葉ではなく単純な疑問だった。すると彼女はクスリと笑って、
「もちろん、カラーコンタクトよ、こんな目の色をした日本人いるわけないわ」
そう言うと、彼女は僕の肩をトンッと軽く押して、軽やかな足取りで三歩ほど後ろに下がった。
「それより、最後の言葉がそれでいいの?」
彼女はそう言いつつ、右手でワンピースのポケットをまさぐり、手のひらにすっぽりと収まる箱のようなものを取り出す、目を凝らしてよく見てみるとそれはタバコであった。慣れた手つきで箱をトントンと叩くと選手宣誓の挙手が如き勢いでタバコが一本パスっと頭を出す。そのタバコに顔を近づけたかと思うと、その先端にキスをする。そして唇で挟んでゆっくりとタバコを箱から取り出した。
「あの、貴方は未成年者なんじゃないですか」
彼女がタバコに火をつけるのを見つめながら、できるだけ平静を装って声をかけた。すると彼女はゴホッゴホッと突然咳き込みだしたかと思うと、まだ一口しか吸っていないタバコを地面に放り捨てお腹を抱えて笑い出した。
「そんなセリフ、面と向かって言われたのは初めて」
彼女はアハハと笑いながら、両目に溜まった涙を右手で拭った。それから彼女はふーと一息つくと
「ねぇ、貴方お名前は?」
そう言ってにんまりと笑って僕の名前を問う美女に抗する術を僕は知らなかった。
「僕、僕の名前は……
「私の名前は
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