第二章 白紙の栞

2-1 電話の声は合成音

 放課後。それは、学生が授業からの開放感に浸り、その活動が活発化し出す時間だ。生徒たちがめいめいに動き出しざわめく教室の中、礼華はすでにまとめてあった荷物を手に立ち上がる。一歩踏み出しかけたちょうどその時、不意に鞄の中で携帯が鳴った。


「はい」

 登録済みの電話番号であることを確認し、二つ折りの携帯を開いて電話に出る。周りから驚愕の視線を感じつつ鞄を肩にかけていると、電話の向こう側から無機質な声が聞こえてきた。


「ただいま、電話に出ることが出来ません。ピーっという発信音の後に、お名前とご用件を」

「切りますね」

 礼華は通話停止ボタンを押し、『通話終了』の画面を顰めっ面で眺める。携帯をパタンと折り畳むと、すぐさま再び電話がかかってきた。先ほどと同じ発信人である。


「あのさぁ、まだ話の途中だったんだけど」

 責めるような言葉に反して、電話の向こう側の声は笑っていた。その後ろはガヤガヤと騒がしい。

「すみません、間違い電話かと思って思わず」

「容赦なさすぎて逆に笑ったよ」

「それはとても良かったです。ご用がなければ、ではこれで」

「あ、待った待った、切らな――」

 ブツリ。『切』のボタンを押した自分の指を見遣りつつため息を吐いていると、横から「須藤さん」と呼ぶ声がした。


「ん?」

 顔を上げて視線を遣れば、隣の席の小野が苦笑いと共に、廊下を指さしているところが目に入る。

「隠岐先輩が、須藤さん呼んでくれって」

「や、どうも」

 爽やかな笑顔を小野へ向け、隠岐がひょっこりと扉から教室を覗き込む。今日も今日とて白衣姿かつ、長身の彼はよく目立った。


「携帯、切らないでって言ったのに」

 笑顔をキープしつつ、隠岐がスマホを小さく掲げる。対して礼華は真顔のまま、「ああ先輩すみません、てっきり悪戯電話かと」と彼に向けて返答した。

 

「悪戯じゃないよ、結構真面目な話」隠岐はスマホごとポケットに右手を突っ込み、空いた方の左手で礼華を招く動作をした。「ちょっと君にも手伝ってほしい仕事が」

「……ゴミ回収ですか?」

「それもするけど、別の要件もある。ま、とにかく着いてきて」

 礼華の返事も聞かず、隠岐はすたすたと歩き出す。本当に着いていかなかったらどんな反応をするんだろうという考えが、一瞬彼女の頭をよぎった。


 彼の本性はあまりにも謎だ。自分が意外性のある行動をすれば、彼のあの、人を食ったような態度を崩すことが出来たりするだろうか。そんな悪魔の囁きを、礼華は内心「いや駄目だな」と却下する。


 彼はきっと、自分が抱えている『問題』を解くキーになってくれる。すんなり協力してもらうには、予定外の行動は慎んだ方がいいだろう。

 それに。恐らく自分には、彼のあの態度を崩すほどの影響力はない。意外性のある行動をしたところで、「はは、何やってんの?」と一笑に付されるのがオチだ。よって、なおさら却下である。


「須藤さん……大丈夫?」

 ぼうっと彼の背中を見送りつつ、悶々と考えていたところに声をかけられ、礼華ははっと我に返る。この声は、隣の席の近石だ。

「ああうん、大丈夫大丈夫」

 礼華はこくこくと頷きつつ、肩に鞄をよいしょとかけ直す。

「あの先輩さ……まあカッコいいけど、台無しになるレベルでなんかヤバいよな」近石が小野に呟くと、小野は「だな」と苦笑して礼華に向かって言った。「マジでほんとにヤバそうだったら、誰に何でも言いなよ。すぐ」

「うん、そうする。……ありがとう」

 礼華は小さく、苦笑を返した。

 

◇◇◇◇◇

「先輩、さっきはすみませんでした」

「ええ、まだ謝ってんの? いい加減さあ、慣れてよね」

 二年生の教室階に上がる階段の、その途中。礼華が謝ると、隠岐は呆れたような表情で彼女を見下ろした。


「ていうかここ、二年生の教室階だから」階段を登り、平場に出たところで隠岐が顔を顰める。「塩対応、続行よろしく」

 先日、礼華の鞄事件が解決した日の放課後のこと。二人は取り決めを交わしたのだ。


 隠岐は自分のファンを減らすため、『礼華にダル絡みしてはあしらわれる、面倒で情けない先輩』の役を。

 礼華は人を避けるため、『面倒な先輩に絡まれ、ひたすら冷徹な答えを返す塩対応でとっつきにくい後輩』の役を。

 どちらもそれぞれ平穏な学校生活を得るために、役割を演じることを取り決めたのである。それからというもの、礼華は毎日平日の昼休みと放課後、この先輩に『ダル絡み』という名目でゴミ拾いやら落とし物回収に付き合わされていた。


「……よろしくと言われても、加減がよく分からないんですが」

「さっきのくらいでちょうど良いよ。ナイス塩対応加減だった」言葉を切り、隠岐がニヤリと笑う。「電話中、マジで真顔だったもんね。結構怖かったよあれ」

「すみません、顔はもともとこんなです。……というかやっぱり先輩、最初から教室の近くに居ましたね?」礼華はすうと目を細めた。「やたらタイミングが良すぎると思ったんです」


「あはは、授業が早く終わったから、つい」

「『つい』ですることじゃないんですよ、それ」

 笑顔で話す隠岐と、真顔でひたすら答えを返す礼華。周りからの驚愕の視線が二人に向けられたが、二人とも至って平然とした態度で廊下をずんずん歩いていく。


「ところで、さっきのどうだった? 不在時の自動音声の真似」

 二階の渡り廊下を渡り切り、人気の少ない旧校舎側へと辿り着いた途端。「うん、もういつも通りに話していいよ」と口火を切った隠岐が、脈絡もなくそう切り出した。


「自動音声の真似?」

 眉を顰めてオウム返しに繰り返しつつ、礼華はふと考え込む。いつも通りの話し方とは、一体どんなだったろうか。

 そもそも隠岐とは、「いつも」と言えるほど会話を重ねていない。礼華が高校に入学してからまだ一週間ほどしか経っていないのだから、当たり前のことなのだが。


「え、覚えてないの? 仕方ないな」隠岐がやれやれとでも言うように軽く首を振る。「ただいま、電話に出ることが……」

「あ、大丈夫です再現しなくて」ご丁寧にも全て再現しようとする隠岐の言葉を、礼華は真顔で遮った。「ちゃんと覚えてます、あえてノーコメントで乗り切ろうとしただけで」


 途端に、隠岐が「ええ」と不満げな顔をする。

「なに、ノーコメントって。結構上手かったと思うんだけどなぁ、あれ。機械の声真似って結構ムズいんだよ」

「……というか、電話越しですし。上手いかどうか、厳密には判別できないです」礼華はちらりと隠岐を見上げる。「そもそも携帯電話の声って本人の声じゃなくて、本人の声に近づくように変換された合成音じゃないですか。れっきとした機械音になりますよ、誰でも」


「コードブックに載ってる声の合成音、ね」隠岐がやれやれと首を振る。「そりゃまあ確かにそうなんだけど。君は屁理屈がほんとに上手い」

「お褒めいただき光栄です。……ところで先輩、これは一体、どこに向かってるんですか?」


 どうでもいい会話を繰り広げているうちに、いつの間にやら二人は階段を下っていた。一度新校舎側から二階へ階段で上がり、今度は旧校舎側から一階へ降りているということになる。


「旧校舎の一階に用事があるなら、一階の昇降口から出て、そのまま最短ルートでまっすぐ行けばいいじゃないですか」

「ああ、なのになんで一旦、二階まで上がったのかって?」

 隠岐が白衣からスマホを取り出し、片手で画面を繰りつつ肩をすくめる。誰かとメッセージアプリのやり取りをしているらしいところが伺えて目を逸らす礼華を前に、彼は珍しく苦笑した。

「……まあうん、あれだ。これから会う奴の中に、ウザいくらいの優等生がいるから」

 それは初めて礼華が見た、とてつもなく本気らしい、彼の苦い笑みだった。


◇◇◇◇◇

「おーい恭介きょうすけ、もう居るかー?」

 数分後。隠岐が遠慮のない勢いでとあるドアを開けるのを、礼華は少し引き気味に眺めていた。

「え、なんでここ……?」

 勝手知ったる様子で彼がドアを開けたのは、紛れもなくこの学校の生徒会室。少なくとも、入学してきたばかりの新入生がお世話になるところでは確実にない。


 戸惑う礼華が中を覗くと、部屋の奥でパタンと本を閉じ、立ち上がる人影が一つ見えた。


「だから何度も言ってるだろ、渉。その聞き方は意味ないって」


 涼やかで穏やかな、テノールの声。その声が良く似合う容姿を持つ、長身の男子生徒がこちらに向かって歩いてくる。

 まるで夏の清涼飲料水のCMに出てきそうな青年だった。柔らかい目元を持った爽やかな雰囲気で、『優男』と称してもいいかもしれない。そのさらさらとした茶髪は指通りまでもが良さそうだ。


「『居るか』と聞きながらドアを開けるのは、頭もマナーも悪いよね」

 が、その整った容姿から発される言葉はだいぶ鋭く。

「あーはいはい、次から気をつけますっての」

――まあうん、あれだ。これから会う奴の中に、ウザいくらいの優等生がいるから。

 珍しく「げえ」という顔をする隠岐を初めて見て、「この人のことか」と礼華は一瞬で悟った。

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