1-11 人の悪意は蜜の味
『本当にごめん。なかなか声かけられなくて、渡すタイミング逃してた』
昼休み、隠岐が立ち去った後の自分の教室での光景を、礼華はぼんやりと思い出す。
近石と小野にはかなりの勢いで謝られ、礼華は「あ、いや、そんな、こちらこそごめん気遣わせて」としか言えなかった。何より、周りからの視線がこちらに一気に集中している状況に、彼女自身が完全に動揺していたのである。
『なに近石、お前って結構シャイなん?』
『意外! かわいい〜』
『うるせ』
クラスメイトから揶揄われて耳を赤くする近石の横で、『こいつ悪い奴じゃないんだけど、めちゃくちゃお節介で……俺からもごめん』と小野から真剣にまたも謝られ。つくづく、近石は人望を集めるタイプなのだなと彼女は思った。入学してまだ間もないのに、恐るべし人誑し能力である。
そして同時に、面倒なことになったと思った。
今までの経験上、男女問わず人気の高い人間、特に男子と関わってしまうと碌なことにならない。
――こんな最初から、やらかす羽目になるなんて。
礼華は内心ほぞを噛む。目立たず、平穏に、「そういえばそんな人いたね、絡みないからあんま印象に残ってないけど」と言われるレベルを目指して、ひっそり高校生活を送ることを目標にしていたのに。その目標が、早くも暗礁に乗り上げてしまった。
「須藤さん」
「うおはい!?」
思考に耽っていたところに声をかけられ、驚きのあまり礼華の口から素っ頓狂な声がまろびでた。
「君は一つ、大事な質問をしてないね」
「確実に揶揄われる」と身構えた礼華を余所に、隠岐は廊下のロッカーの上へ半ば腰掛けるようにしてもたれかかる。
「大事な質問?」
「そう。大事なことで、近石くんや小野くんが自分から言いそうもないこと」
嫌な予感がした。次に彼が何を言うか、礼華には予測できる気がしたからだ。
「――そもそも彼らはどうして、まとめたビラを君の机の上に置いておかなかったのか。別にわざわざ手元に持って、君に渡すタイミングを見計らったりなんてしなくても、最初からそうすればよかったのに。それなら、君も『誰か親切な人が整えて置いてくれたんだな』と思うだけで済んだんだ」
礼華は沈黙した。何を言っても不正解にしかならない気がしたのだ。
「ま、興味がある相手に話しかけたり関わりたい一心で行動した挙句、側から見ればそれが空回りしてるなんてよくあることだし。彼らは、君に話しかけるきっかけが欲しかったのさ。――ビラを『これ、代わりに預かってたんだ』とか言って君に差し出せば、自然に会話が発生するからね。それを期待してたんだと思うよ」
ちょうど腰の位置ほどの高さにあるロッカーにひょいと腰掛け、彼は礼華の方を見る。黙ったままの礼華をしばらくじっと見つめた(観察したという方が正しいかもしれない)後、彼はゆっくりと首を傾げた。
「君、こういう話苦手?」
「……こういう話とは」
「誰かから好意的なものを向けられるフラグ、みたいな話」
「……」
正直な話、好意も悪意も、どちらも礼華は苦手だった。けれど、どこまで正直に言っていいのか分からない。躊躇っているうちに、隠岐は「うん、苦手だね」と断定してきた。
「顔に出てるよ、思いっきり」
指をさされて指摘され、礼華は両手で頬をむいと持ち上げる。図星を刺され、動揺が顔に出てしまったらしい。
「クラスメイトに連絡先を教えてない、休み時間も教室にいない、登校もギリギリで放課後はすぐ帰る。随分徹底して人を避けるわけも、そういう話が苦手で、その対策をしてるのかな」
「……え、あの」
礼華は目を見開いて「ちょっと待ってください」と口を開いた。
「どうして、私がクラスメイトに連絡先教えてないと思ったんですか?」
「近石くんの発言ですぐ分かるよ。俺が君を教室に探しに行った時、彼がスマホ取り出しながら言ったって言葉、覚えてる?」
隠岐の問いかけに、礼華はすぐさま記憶を遡る。
「ええと……『多分ですけど、図書室だと思います。美化委員ってことなら、安田なら呼べますけど』でしたっけ……あ」
思い出しながら、礼華はまたも途中でやっと気づいた。
「流石、記憶力いいね」隠岐が悪戯っぽい笑みを口元に浮かべる。「そこまで覚えてて分かってなかったの、逆に面白いな」
完全に馬鹿にされている。礼華はむっとする気持ちを押し殺しつつ、「すみません、今分かりました」とため息を吐いた。
「スマホを取り出してるのに、『安田なら呼べますけど』としか言えなかったってことは、彼が私の連絡先を知らないからだと容易に推測できますね」
「そ。容易にね」
やたらと『容易』の語彙を強調した言い方だ。礼華は「馬鹿ですみませんでしたね」と投げやりにため息を吐いた。
「誰も君を馬鹿とは言ってないけど」
隠岐がわざとらしく目を丸くする。どの口が、と礼華はじろりと彼を見上げた。
「節々に、そう思ってるのが滲み出てます」
「心外だな、むしろ俺は君を買ってるのに」
「はい?」
一体全体なんの話だ。礼華が眉を顰めると、「前に提案したろ」との言葉が返ってきた。
「人払い要員になってくれないかって。君と同様、俺も人的トラブルを避けたいタイプでね」
「……え、その話、今日の昼休み限定の話だったんじゃなかったんですか?」
「俺、期限なんて言った記憶ないけど」
「……」
確かに、思い返してみれば言われていなかった。礼華の確認ミスである。
「俺も君と同様、色恋沙汰は避けたいんだよね。めんどくさいし、ただでさえ限りのあるリソースをわざわざそっちに割きたくない。だから、相互協力してくれると助かるなと」
「……相互協力?」
「別に何も難しいことはないよ」
隠岐がロッカーの上から、投げ出した長い足を子供の様にプラプラとさせながら欠伸をした。
「変な上級生からのウザ絡みを鬱陶しがる新入生、その役をやってくれればいい」
「へ、変な上級生……」予想外の提案に、礼華は恐る恐る小さく手を挙げる。「それって先輩のことですか?」
「そうだよ、それ以外の文脈なくない?」
「……いえ、自分で『変』だって自己申告する人初めて見たので」
「そ? 俺から言わせりゃ、人間なんてみんな変だけどね」隠岐がひょいとロッカーから降りる。「俺は俺が、自分が変だと自覚してる。そんだけまだマシだと思わない?」
礼華はしばらく黙考してから、静かに頷いた。
「……そうかもしれないですね」
「理解が得られて何よりだよ。じゃ、協力してくれる?」
人気のない放課後の廊下に、沈黙が落ちる。黙ったまま躊躇う礼華に畳み掛けるように、隠岐が「君に損はないと思うけど」と首を傾げた。
「俺が勝手に適当に動くから、君は俺に対して塩対応をしてくれればいい。そうしたら俺は『新入生にも相手にされない情けない男子』ってことで自分のファンを減らせるし、俺が周りを彷徨いてたら他の奴も君になかなか絡みに来づらくなるでしょ。どう?」
正直、その提案は礼華にはとてつもなくありがたいものだったのだが。
「あの、それ先輩が失うもの多すぎないですか?」
「いんや? 全然」隠岐があっさりと、礼華の言葉を一蹴する。「得るものの方が明らかに大きいね」
「……ファンを失うのが、先輩の『得たいもの』なんですか?」
「うん」
隠岐が真顔でこっくりと頷く。どうやら冗談ではなく、本気らしい。礼華は頭の片隅が痛くなってくるのを自覚した。
「だとしてもそれ、私じゃなくて他の人との方がいいと思います」
「なんで?」
きょとんとした顔の隠岐を前に、礼華は大きく息を吐く。あまり過去のことは話したくないが、これだけは先に言っておいたほうがいいだろう。
「……私と居ると、きっと碌なことがないですよ。私、中学時代『悪女』って呼ばれて……」
「そりゃあ最高だ」
のろのろとした礼華の言葉を遮って、隠岐がにんまりと笑顔を浮かべる。予想外の反応に、礼華は思わず眉を顰めた。
「最高? 何がですか?」
「君は碌なことを引き寄せないってことだろ? つまり、君の周りに居れば人の悪意を観測できる機会が増えるってわけだ」
「……はい?」
礼華が言葉の意味を噛み砕こうと頭を捻る側から、彼は予想だにしない言葉を続けて発した。
「人の悪意は蜜の味だよ。ただし、俺が第三者であるに限るけどね」
「それ、ただの嫌な人じゃないですか」
礼華は思わずそう突っ込む。この人は一体、何を言い出すのか。倫理的に完全アウトだ。
「だって実際、面白いし。人間の本性垣間見れる時って面白くない?」
「……」
悪びれる素振りすら一切見せない彼に、礼華はそれ以上突っ込むのをやめる。そんな彼女に、隠岐はにこにこと廊下の床を差し示して見せた。
「そうと決まれば早速なんだけど、廊下の掃除と見回り手伝って」
「……掃除はまだ分かりますけど、見回り?」
「落とし物探しだよ。はい、これ使って」
白衣のポケットから何かを取り出し、隠岐がそれを礼華へ投げ渡す。慌ててキャッチしたものを彼女が確認すると、それは一対の新品の軍手だった。
「落とし物ってのは、人の痕跡そのものなのさ。なぜそれを待っているのか、なぜ落としたのか――意外とそれが、面白い謎に繋がったりするんだよ。だから、ネタ探すの手伝って」
「……?」礼華は疑問符を頭に浮かべ、手元の軍手と隠岐を見比べる。「『だから』の使い方、おかしくないですか?」
「しっかし、こんなに廊下が綺麗なんじゃ、全然張り合いないんだよね。何で君の学年、こんなにちゃっかり片付けするわけ? ゴミとか痕跡とか、もう少しどっさり残してよ」
「あの先輩、その前に私、まだ何も」
「あ、あそこに紙落ちてる」
礼華の言葉を完全に無視し、飄々と隠岐が破白衣を翻して歩き出す。
――『変』な人だ、本当に。
手の上に残された真っ白な軍手をしばらく眺め、礼華は静かにそれを両手に嵌めるのだった。
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