1-9 その鞄は誰のもの

◇◇◇◇◇

「……先輩、本当にこの中行くんですか?」

「そんなビビんなくていいよ。大丈夫、俺が居たら百パー平気」

 その自信は一体どこから湧いてくるのか。半ば遠い目で、礼華は目の前の光景を見遣った。

 見渡す限りの人、人、人。一年生の教室前の廊下は、赤や青、白のラインの入った上履きの生徒たちでかなり混雑を極めていた。どうやら昼休みは三年生も部活勧誘に参加しているらしい。


「はいはーい、通して通して」

 そんな人混みの中でも、長身にたった一人の白衣の生徒はよく目立つ。隠岐が軽く手を挙げて進むと、人垣がさっと割れて道が出来た。

 まるでモーゼの海割りみたいだなと、礼華は現実逃避のようにぼんやり思う。


「隠岐だ……」

「え、あれが噂の?」

「後ろに居る子、誰? めっちゃ美人」

「あの白衣って委員会説明の時の人?」

「うわ、隠岐だ」


 この隠岐という先輩は一体、前に何をやらかしたというのだろう。一年生からの反応はまあ分かるが、二・三年生から受ける視線と反応が尋常ではない。

 特に二年生男子などは、彼を見て一様に顔を引き攣らせている。なかなか異様な光景だ。


「ほらほら、よそ見してるとコケるよ」

 生徒の波の中で礼華がカチコチに固まっていると、隠岐が鞄をくいと引っ張ってきた。前進を促されて数歩進めば、「床、紙で滑るから気をつけて」との声が彼からまた降ってくる。


 廊下の上に散らばる、新歓のチラシの数々。確かに彼の言う通り、気を抜けば即座に滑ってしまう要素満載の廊下が出来上がっている。


「あ、はい。ありがとうございます」

 この先輩、変だけど意外と優しいところがあるかもしれない。そう礼華が思った側から、隠岐は「あ、そうだ言い忘れてた」と床を指差す。


「君、どうせ暇でしょ? あとで床に落ちてる物、全部回収しといてね」

 予定も聞かずに「暇でしょ」ときた。その決めつけ方には異を唱えたいものの、残念ながら礼華には彼の言う通り予定は特にないし、何より床の惨状はなかなかだ。

 何せ、床にビラが散らばっているのみならず、ロッカーの上に置かれた私物の体操着袋などの中からもビラが溢れているような有様なのだ。通り過ぎる際に近くの教室の中がチラリと見えたが、人はごった返しているし床や空席の机の上までもカラフルなビラたちで埋め尽くされているしで、ちょっとした祭りのような騒ぎ。片付けも骨が折れそうだが、誰かがやらねばなるまいと、礼華はこっくりと頷いた。


「分かりました」

「おや、意外と素直」

「……『意外』って」

 一体この先輩は、自分に対してどういう認識なのか。そう思いながら開きかけた口を、礼華は再度また閉じる。


「ん? 何か言いかけた?」

「いえ、特に何も」

 何も期待しない、関わらない。後から失望されるくらいなら、最初からいっそ関わらないほうがいい。それがモットーだったはずなのに、隠岐にずるずると引きずられるうち、かなりペースを乱されていた。

 あまり、気を抜きすぎるのは良くない。口をつぐんだ礼華の沈黙を、隠岐はあっさりと「あ、そう」とそのまま流す。

 その淡白さは、今の礼華にはとても有難いものだった。


「んじゃまあ、さくっと入ろっか」

 廊下は混んでいたけれど、隠岐のモーゼ効果のおかげですぐに二人は一年F組の近くまで辿り着き。周りからの視線も一切気にせず、ノンストップでズカズカと、隠岐は教室の後ろ側のドアから中に入っていく。


「え、あの先輩、まだちょっと心の準備が」

 できてないんですけど、と言いかけた礼華の言葉は、すぐ近くで発された音のせいで宙に浮いた。

「あれ、須藤さん?」という小野の声と、「えっ」と慌てる様な声と共に、近石が席から勢いよく立ち上がった音が聞こえたのである。


「……あ」

 目の前にそびえ立つ隠岐の背中の後ろから教室の中を覗き込み、礼華は小さく声を上げた。

 まず目に入ったのは自席に座って弁当を広げている小野と、その隣に立つ近石の図だった。近石のすぐ後ろには、礼華の机。弁当箱が載っていたので、先程の隠岐の言葉通り、礼華の席で彼が昼食を取っていたのだろう。

 そして弁当箱は一つではなく複数あり、よく見ると近石の後ろにも何人かの男子生徒がたむろしていた。恐らく、集まって昼食をとっていたのだろう。


「須藤さん、ごめん。すぐどく」

 どこか気まずそうな表情で、近石たちがてきぱきと机の上の弁当箱を片付け出す。弁当箱の中にはまだ食べ物が残っていた。


「あ、いや大丈夫、そのまま食べてて」

 思ったより大人数の生徒がその場に居たことに動揺しつつ、礼華は慌てて首を振る。

「いや、でも」近石も負けず劣らずぶんぶんと首を振り、弁当箱を他の空いた机の上に置く。そして顔を上げ、側を通りかかった生徒に声をかけた。「先輩ちょっとすみません、そこの鞄いいすか?」


「え? あ、うん」

 先輩と称されたその生徒が顔を上げる。小柄で可愛らしい印象を与えるショートカットの女生徒で、新入生だらけの教室にすっかり馴染んでいたものの、なるほどその上履きには青いラインが入っていた。

 その横で、近石が礼華の机の横にかかった鞄に手をかけるのを、礼華は見た。


「ああなんだ、誰かと思えば河本かわもとさんか」

「隠岐くん? 何でここに」

 どうやら河本というらしい女性徒は隠岐と知り合いだったようだ。目を丸くする彼女の前で、隠岐が軽く肩をすくめる。

「何でって、君みたいな人が居るからだよ」

「私みたいな人?」

 河本が眉根を寄せると、隠岐は「その右手の物は何?」と畳み掛けた。


「何って、勧誘のチラシ」

「それ、今どこに置いた?」

「『須藤さん』って子の鞄の上……ってあれ、鞄は?」

 河本はキョトンとした顔で礼華の机を見遣った。その横で、相変わらず気まずそうな顔で近石が小さく右手を挙げる。

 その左手には、大量に新入生勧誘のビラが載せられたスクール鞄が一つ提がっていた。


「すいません。さっきの鞄、俺のっす」

「えっ、そうなの? 須藤さんのじゃなくて? ……なんで?」

「……まあ、その」

 驚きの声を上げる河本を前に、歯切れの悪い様子で、近石が礼華と隠岐の方をチラリと見る。躊躇うように何度か口を開け閉めする彼を見て、隠岐が盛大に長いため息をついた。


「ま、自分たちじゃ言いづらいか」

「言いづらい……?」

「そう」

 礼華の質問に、隠岐が浅く頷いた。

「そもそもの発端は、君の鞄に、上級生が色んな勧誘ビラをどんどん突っ込んでいったこと。彼らは君の代わりに上級生からビラを預かって、君に渡そうとしてたんだ――そうだろ? 二人とも」

「……え」

 礼華が言葉を失って顔を上げると、決まりが悪そうな表情をした近石と小野の姿が目に入る。


「……話そうと思ったんだけど、中々タイミングが見つかんなくて」

 ゆるゆると近石が口を開き、二人は「ごめん」と頭を下げた。

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