24歳 2

 僕たちは、歓楽街にある安い居酒屋に入った。ひなたはジャケットを脱ぎ、ワイシャツ姿で僕の向かいに座っている。すでにカシスのリキュールを一杯飲んだ彼女の頬はほんのりと赤らんでいて、もとより整った彼女の顔立ちをより魅力的に見せていた。彼女は半分中身が残っているグラスを傾けながら言う。

「まさかここでまた会うなんてね。優くんは普段この駅使っているの?」

「いや、僕は本当に久しぶりに来たよ。たまたま今日は営業でこの駅を通ったんだ」

僕のその言葉を聞いて、彼女は少し、伏し目がちに目を泳がせた。しかしそれは一瞬のことで、彼女は手に持ったグラスを軽く呷った。

「そうなんだ。私はずっとこの駅を使ってるよ。派遣先のオフィスがこの近くでさ」

今度は僕が、彼女の言葉に動揺してしまった。持ち上げかけていたグラスが机にぶつかり、鈍い音が鳴った。僕は、それが何でもないかのようにゆっくりとグラスを置き直すと、自然な流れで、目の前にある枝豆を拾いとって口許に運んだ。さやの中の豆を押し出す振りをして、僕は手で表情を隠す。実際、彼女に再会した時点で何となく予想はしていた。彼女は仕事服を着ていたから。だけど彼女が「普通の」仕事をしていることを、もう歌っていないことを、僕は上手く現実として受け止められなかった。

「それにしても、まさかあの場所に君がいるなんて思わなかったよ。一瞬見間違いかと思ったけど、後姿はやっぱり面影が残ってて。振り返ったら変わらない優くんのままで、何だか少し安心しちゃった」

彼女はそんな僕の動揺を知ってか知らずか ―まぁきっと勘づいていたのだろう― 明るい口調でそう続けた。僕は指先で軽く口許を拭って、笑い返した。

「僕もだよ。七年ぶりにこの駅に下りたから、少し感傷ぶって来てみれば君もいるなんて。あの変なモニュメントは相変わらずだけどね」

僕が少し冗談めかしてそう言うと、向かいの彼女も軽く笑ってみせた。そして目線を落とし、片手に持ったグラスを優しく回す。中の氷がカラン、と音を立てた。

「もう、七年なんだね」

先ほどと変わらない、明るい口調。でも居酒屋の照明は思いのほか暗くて、うつむいた彼女の顔には深い陰が下りていた。僕はレモンサワーに口をつける。鼻に抜けるような酸味のあとに、わずかな苦みが口に残って消えた。


 僕たちは、あまり多くを語らなかった。まばらにお互い何かを話して、その間の空白は酒が埋めていた。僕たちが一緒に過ごした一年間の思い出、ばらばらになった七年間の話、そして今の僕たちについて。話すことはたくさんあった。でも、僕は、僕たちは、それらを紡ぐ言葉と勇気を持ち合わせていなかった。あの日々のことを、それからのことを、下手に言葉にしてしまえば何かが崩れてしまうような、あるいは何かが確定してしまうような、そんな恐れが僕たちの間には横たわっていた。

 それでも僕は、とてもありふれた感情として、彼女との再会を喜んでいた。彼女とのこの時間を、手放したくないと感じていた。きっとそれは彼女の方も同じだったのだろう。どちらも、もう帰ろうとは言い出さなかった。

 終電の時間が迫ってきて、僕たちはようやく店を出て歩き始めた。駅からは少し離れていたので、その帰路にはたくさんの建物が見えた。ただの居酒屋から、目を逸らしたくなるような猥俗な看板の店まで。あのときの僕らが入り込まなかったこの街の夜には、安い電灯に照らされた大人の世界があった。僕たちはつかずはなれずの距離でそこを歩く。駅の東口に続く大きな通り、そこに出るすぐ手前に、周りより少しだけ薄暗い照明をした建物が見えた。街中にあるくせに入り口の雰囲気はまるで外国のお城みたいで、その様子が逆にその建物を低俗に見せていた。僕たちはその前を通っていく。ふと、軽く袖が引っ張られるのを感じた。それは肩を叩かれるよりもささやかで、でもそれよりも確かな主張だった。僕はひなたの方を振り返る。香水の香りは、まだ残っていた。彼女は入り口の前に立ち止まったまま動かない。僕は息を呑む。俯いた彼女の表情は見えなかった。


 彼女の首筋は、甘い女性の匂いがした。その唇にはリキュールの味が残っている。シャツの下の彼女の身体はなめらかな曲線を描き、それは芸術的な美しささえ孕んでいた。その素肌の感触はあまりに柔い。僕が優しく彼女の身体を撫でるたびに、彼女の口からは吐息のような声が漏れた。ベッドの上で横たわる彼女のあり方は酷く繊細で、今にも砂のように崩れてしまいそうだった。僕は彼女が崩れてなくなってしまわないように、指先で確かめるみたいに彼女の身体に触れていた。

 そして僕は彼女の様子を見計らい、ふと彼女から自分の身体を離す。ベッド脇のサイドテーブルに置かれたそれを手に取って、僕自身に手早く取り付けた。彼女はその様子を、横目にじっと見つめていた。僕はまた彼女に覆い被さる。抱き合ったまま、僕はゆっくりと彼女の中へと押し入る。彼女は目を閉じていた。でもそれは痛みを耐えるが故の苦悶の表情というわけではなかった。彼女はすんなりと僕を奥まで受け入れた。彼女は目を開く。その顔はほんのり上気して紅くなっていた。

「どうしたの?」

彼女に声をかけられて初めて、僕はずっと彼女の表情を見つめていたことに気がついた。彼女は少し、不安そうな顔をしていた。

 なんでもない、そう言う代わりに僕はキスをした。そして、僕はゆっくりと動き始めた。

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