17歳 1

 あの日は確か、初夏の風が吹き始めた頃だった。教室のカーテンの隙間から流れ込んだ風に、微かに混ざり込んでいた夏の匂いを、今でも何となく覚えている。僕はそんな五月の日、一人で放課後の廊下を歩いていた。先ほどまで音楽室で作っていたギターのコード譜を置き忘れてしまったので、取りに戻っていたのだ。音楽室がある三階に辿り着くと、僕は背中のギターを背負い直した。その時、制服のシャツにうっすらと汗がにじんでいるのに気がついた。本当は、こんなかさばって重いもの、いちいち持ち運びたくはなかった。だけど、家では騒音の関係で弾けないし、軽音楽部にも所属してないから部室に置いていくこともできない。だから放課後、一時間だけ間借りしている音楽室に毎日このギターを持ち込んで、一人細々と演奏しているのだ。僕は、これからやってくる夏と、それに伴う更なる暑さを想像して思わずため息をつく。そして音楽室の前まで戻ってきたとき、ふと立ち止まった。夕暮れの校舎の静寂、その隙間を縫うようにして、歌が聞こえたのだ。それは目の前の音楽室から鳴っているようだった。普段のこの時間は誰もいないはずなのに。教室のドアにある小窓から中を覗いてみる。教室を見渡すと、奥の窓の側に、誰かがこちらに背を向けて立っていることに気がついた。でもここからじゃ、詳しい様子は分からない。どちらにしろ僕は、この教室に入って忘れ物を回収しなければならなかった。顔を小窓から離して、ゆっくりとドアを開けた。


 聞こえたあの歌の発信地は、やはりその人からだった。彼女は、教室に入ってきた僕には全く気がつく様子もなく、先ほどと同じように、窓の外に向けて歌っていた。

 彼女を取り巻くその光景には、彼女以外の誰の存在も、意図も、存在していないように見えた。彼女の世界には彼女だけが存在していた。つまり、そこには人工的なものの一切が排除されていたのだ。彼女の端正な顔を照らしていたのは、傾いた太陽が溢した茜色だけだった。彼女の繊細で真黒な髪を揺らしていたのは、夏を待つ涼しい風だけだった。彼女の情動に揺れるような歌声を響かせていたのは、夜に呑まれる前の世界が孕む静寂だけだった。僕を含む全ての人間が、彼女の世界には含まれていないようだった。むしろ、そこに立ち入るのは不可能であるように錯覚した。彼女はどうしようもなくあちら側にあり、僕はこちら側にあった。彼女と僕との間には、一枚の薄いスクリーンのような、絶対的な隔絶があった。

 彼女がふと歌うのを辞めて、こちらを振り返った時さえも、彼女の世界は崩れていないように思われた。あらかじめ決められた台本通りに彼女はこちらを向いて、僕はたまたまその視線の先にいた。

「それ、ギター?」

先の歌声とは打って変わって、落ち着いた声音で彼女は呟いた。それが僕に向けられた言葉であるのを知るのに、僕は少しだけ時間がかかった。ふたりきりの教室の中ですら、その言葉は彼女だけの世界の中で完結しているように思われたのだ。だけど、その瞳がじっと僕の瞳を捉えて動かないのに気がついて、僕はようやく我に返った。

「ああ、うん。そうだよ」

「だけど君、軽音楽部じゃないでしょう。見たことないよ」

「そうなんだ。軽音楽部じゃオリジナル曲作れないから…」

そこまで言って、僕はようやく気がついた。僕は彼女のことを知っていた。知っていたと言っても、噂の中でだけど。そしてそれは、あまり良くない噂において。

「私もだよ。伝統としてオリジナル曲は演奏しちゃだめだから、追い出された」

彼女は表情を変えることもなく、さらっとそう言った。軽音楽部で、先輩に逆らって部を追い出された人がいるらしい。その噂は、常に話題に飢えている思春期の同級生たちにすでに広まっていた。

 なんでもその人の所属しているバンドは、オリジナル曲を作ってはいけないというルールなんてないのだから、学期末にある学園祭でそれを演奏しようとしたらしい。だけど伝統を重んじる先輩に目をつけられ、学園祭での演奏中止の圧力をかけられた。ならばとオリジナル曲の是非を部会で諮ったらしいが、結局否決。それどころかそのバンドの活動停止処分まで決められてしまったらしい。でも先輩たちは寛大だから、最初にそれを言い出したボーカルだけ辞めれば許してあげる、ということになった。

 僕が知っているのはここまでだけど、結末は僕の目の前にある。あまり後味の良い話ではないけれど、部外者の僕が言うべきこともなかった。

「私、前から嫌われてたみたいだから。いつかはどうせこうなってたかもしれないけどね」

こんな自虐的な言葉でさえも、彼女は真っ直ぐな瞳のまま口に出した。それはまるで、ただ事実を述べているかのように。もしかしたら彼女にとっては本当に、事実を述べているだけなのかもしれない。彼女が「嫌われる」理由が、少しだけ垣間見えたような気がした。

「そう、なんだ。お互い大変だね。じゃあ僕はこの楽譜取りに来ただけだから…」

そう言って、僕は手早く楽譜を回収する。何となくだけど、僕はこれ以上彼女と関わるべきではない。そんな気がした。しかしそれは、彼女が苦手だから、とかそんな動機ではないように思われた。むしろ、彼女が僕と関わるべきではない、そう言った方が適切であるように感じた。

「待って。君も自分で曲を作ってるんでしょ」

しかし、そんな僕を彼女の言葉が引き留めた。僕がゆっくりと振り返ると、彼女は真剣な表情で僕を見つめていた。

「そう、だけど」

「それなら君の曲を聞いてみたい。どう?」

「どう、って言われてもな」

「弾いてもいいなら、いいって言って。嫌なら、嫌って言って」

「もし嫌って言ったら、どうするの?」

僕は少し意地悪に言った。実際、自分の曲を他人に聞かせることには抵抗があった。しかも、本当に理由は分からないけれど、会ったばかりの彼女には、尚更。

「それなら議論しよう。譲り合ったり妥協したりじゃ、根っこの所じゃお互い納得できないよ。私は聞きたいと主張するし、君は嫌だと主張すればいい。そうやってお互いの意見をぶつけ合って、擦り合わせて、ふたりが納得するまで話し合おう」

彼女は、さも当たり前であるかのように、そう言った。いや。実際彼女が言っていることは当たり前で、正しいのだ。本当に、世界の倫理として、道徳として、正しかった。だけど、実際の人間関係の中で出てくる正しさとしては、それはあまりにも正しすぎる正しさだった。沼に咲く蓮の花の色があまりに鮮やかで、灰色の背景ではむしろ毒々しく映るような、そんなあり方だった。きっと彼女は、軽音楽部でもこんな風に振る舞っていたのだろう。本人には対立しているなんて自覚もなく、ただ当たり前に議論をしようとしていたのだろう。その正しさが、実際の社会では正しくないことなんて知らずに。それはあまりにも痛々しく、それでいてとても高潔なあり方だった。誰もが「最初は」必ず持っていた正義を、まだ無くさずにいる彼女のあり方は、端的に美しかった。僕はそのあり方の完全さに、思わず軽く吹き出してしまった。

「いや、いいよ。むしろ聞かせたいと思ってたんだ」

すると彼女は目を細めて、口の端を軽く持ち上げた。はじめて、彼女が笑顔を見せた。


 僕は歌詞の入ったコード譜を広げて、アコースティックギターを膝に抱えながら歌った。彼女は僕の真向かいの椅子に座ってそれを聞いていた。なるべく彼女の存在を意識しないように気をつけたけれど、それでも僕は、ありふれた感情として緊張していた。そもそも僕が曲を作るのは、有り体に言ってしまえばストレス発散だ。将来にうるさい親とか、人間関係とか、あとは漠然とした社会みたいなものに対する不満や不平を、歌詞に書き殴ってメロディーに乗せる。胸に蟠る鬱憤を音楽にして身体の外に放出することで、僕は自身が相対している世界と折り合いをつけられるような気がしていた。だからこの行為は本当に自己完結的であり、構造的に他人を巻き込む余地はなかった。だから、こんな風に誰かに自分の曲を聞かせるのは初めてで、何だか自身の内面をおおっぴろげに他人に見せびらかしているような、そんな気恥ずかしさもあった。

 一曲歌いきるまでは永遠のようであり、でも終わってしまえば一瞬だった。彼女は曲が終わったのを知ると、ぱちぱち、と軽く拍手をしてみせた。

「ねえ、もう一回弾いてくれる?」

そして、僕がそれに恥ずかしがるよりも前に、彼女はそう言った。その意図がよく分からなくて、僕は動揺する。

「いいけど、どうして?」

「その曲を、完成させたいんだよ」

彼女は僕の顔を覗き込むように見つめる。その言葉の意味が全く分からなかったけど、とりあえず僕はまたはじめからギターを弾き始めた。

 そしてイントロからAメロに入ったとき、彼女は歌い始めた。歌詞すら見ずに、メロディーもばっちり。しかもその歌声は、端的に言って劇的だった。歌詞世界に入り込んだかのように、力強くかつ繊細に。感情を歌に乗せているのではなく、感情が歌に溶け合っていた。そこに不自然さはなく、まるで僕が書いた歌詞の激情が、彼女の中から溢れ出たものであるかのようだった。つまり、彼女は僕よりも上手く、僕の感情を歌っていた。

 最後のコードを弾き終わる。僕たちは同時に顔を上げた。彼女の顔がもうすぐそこまで迫っている。僕たちはお互いに目を逸らせなかった。彼女の息づかい、鼓動までもがはっきりと聞こえているかのように錯覚した。そして僕のそれらもまた、彼女に丸聞こえなのだろうと、そう思った。その初めての感覚に、僕は何も考えられなかった。

 すると彼女は、花が崩れるかのように、にわかに微笑んだ。そして椅子から立ち上がると、くるっと九十度机の周りを移動してこちらに向き直した。夕陽があふれだしそうな大きな窓を背景にして、椅子に座っている僕を見下ろす形だ。彼女は手を差し出した。

「私、ひなたっていうの。君は?」

「ゆう。優しいの、優」

僕は押し出されるかのように、あるいは台本で決まっていたかのように、そう答えて手を伸ばす。指の先が彼女の手のひらに触れる。女の子の手のひらは思ったよりも冷たくて、一瞬ぞっとした悪寒が電流みたいに腕を走った。でも本当にそれは一瞬で、気づいたときには僕たちの手は離れていた。

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