第2話 夏
蝉がミンミンと喧しく鳴き続け、
茹だるような熱波がアスファルトを揺らす朝。
寝苦しさに目を覚ました後すぐに冷房をつけた。ネットによると電源のオンオフ時に最も電気代が掛かるそうだがそんなの関係ない。暑さで死にそうなのだから。
あれから雪さんともだいぶ仲良くなって何度か飲みにいく仲になった。クスダマの様子見も何度か一緒に行ったり。焼き鳥屋のハツも気に入りすぎたようで毎週金曜は買ってるみたい。
彼女には会う度に描いた水彩画も見せていた。大概は誉めてくれたけど、プロだけあって結構鋭い指摘も受けた。どうやら私は極端に色彩が薄いらしい。
そんな身近な先生は会社の接待で酔い潰れて今日はダウンらしく、今朝は一人で公園に行くことに決めた。今日から夏休みだし。
画家志望としては立っているだけで汗が吹き出すこの季節が最も苦手だ。紙や道具は悪くなるし何より戸外製作がしづらい。
猫にとっても辛いはずだと氷を入れたクーラーボックスを持っていくと、既に誰かが桜の木の下に座っていた。
「おはようございます増渕さん」
綺麗な着物姿の小さな背中が振り返ると、彼女は穏やか笑顔で口を開く。その腕にはクスダマが抱かれていた。足には包帯が巻かれている。
「あらおはよう楓子ちゃん。随分早いわね」
「今日は負けました。……クスダマどうかしたんですか?」
「足はいつもの切り傷だよ。見た目ほど酷くはないけど。それより暑さが酷いからお店で休ませてあげようかと思ってね。楓子ちゃんもおいで」
「はい!」
増渕さんは突き当たりの角で焼き鳥屋を運営する75歳の店主だ。3年前に旦那さんに先立たれて一人で切り盛りしているそうだが、いつも明るく元気な姿は逞しい。艶やかな白髪を後ろ一つでまとめているのも何だか上品。
扇風機が回る木造店舗の一室で増渕さんはかき氷を作って出してくれた。
隣のテーブルに座るクスダマも美味しそうにペロペロ舐めている。
「最近かき氷も売り出したのよ。この所皆暑さで辛そうだからね」
「冷たくて美味しい!ご馳走になってすみません」
「良いんだよ。いつもクスダマの面倒を見てくれてありがとうね」
「いえ、好きでやってるだけですから」
「ふふっ。……この子はね、私にとっては守護神みたいなもんさ」
「守護神?」
増渕さんは懐かしそうにクスダマの頭の後ろを撫でる。
「あれは50年ぐらい前だったかね。まだ若かった主人がサラリーマンを辞めて退職金でこの焼き鳥屋をオープンしたばかりの頃。丁度このぐらいの時期さ。酷い台風が関東に接近しててね。通り道の東海や関西では屋根が飛んだり水没したり大変な被害が出てたの。ニュースでもずっと流してた」
「そんなことが」
「東京も直撃予報が出てたから酷くなるだろうって皆店を閉めて屋根や扉を補強したよ。風が吹いてきたから私も慣れないながら主人と作業してた。でもふと思い出したの。そういえばクスダマがまだ公園かもとね。子供の頃からずっと可愛がってる野良猫だったから心配になったのよ」
猫の寿命は長くてもせいぜい20年ぐらいのはずだけど。という言葉は水を差すので飲み込む。
「案の定公園にいた。いつものように桜の木の下で身体を丸めてね。すぐに布で包んで店に避難させたわ」
「その後はお店に篭って仕込みを進めたの。台風明けに困ってる人達にあげられるようにね。クスダマは丁度いまと同じ位置に腰掛けてミルクを飲んでた」
「ここ好きなんですね」
「猫はお気に入りの場所を見つけるのが上手いのよ。不思議な事が起きたのはその後。夜に直撃すると言われてたんだけど、夕方頃ぴったりと風が止んでね。雨も降らなくなった。台風の目にでも入ったんだろうと気にせず寝たんだけど、翌朝起きたら快晴で被害も全くなかったの」
「うまく通り抜けたんですかね」
増渕さんは振り子のように頭を振る。
「そうじゃないの。テレビを点けたらね、丁度この街の手前で台風が消えちゃったっていうのよ」
「そんなことって」
「奇跡よね。とにかく驚いたんだけど、気づいたらクスダマはいなかった。その後急に商売も繁盛して、もしかして全部この子のおかげだと思ったの」
「不思議ですね。でも私も前に似たようなことありました。雪さんに出会った日が1日雨予報だったんですけど、クスダマを手当をしたら一気にこの辺だけ晴れたんです」
「……たぶん、神様が猫の姿で現れたのよきっと。全部じゃないけど見守ってくれていて時々私たちを助けてくれる。ずっと長生きしてるのもそのせいだと思うの」
「そうなんですかねぇ」
チラリとクスダマを見ると、私たちの話を聞いていたのかこちらを覗いて尻尾をフリフリとさせている。
「そういえば雪ちゃんに聞いたけど楓子ちゃんて画家志望なのよね」
「はい」
「よかったら私とクスダマを描いてみてくれないかしら?スタンドとキャンバスはあるわ。あとお礼に焼き鳥をたんとご馳走するわよ」
「いえそんな!じゃあ描いてみるのでクスダマの横に腰掛けていただけると」
「こうかしら」
「そうです。表情もそう、増渕さんの自然な笑みで」
「なんだか照れるわね」
増渕さんから借りたスタンドとキャンバスを設置すると、水彩画セットを取り出して描き始める。
優しい彼女とクスダマの表情に筆が乗り、なんだかサラサラと描けてしまう。
結局下書き、ペン入れ、水彩まで計30分ほどで完成した。
「どうでしょうか」
恐る恐る見せたが、増渕さんは目を見開くと口を手で覆った。
「あなた凄いわ。なんだか実物よりキラキラしてる……家宝にしていい?」
「そんな大袈裟な。ぜひ飾ってください」
また1人認めてくれた。上達したのは雪さんのアドバイスのお陰だけど、嬉しさが胸の内で広がる。
「ありがとう。じゃあ早速上の空いてる額に入れようかしら」
「あ、気をつけてくださいね」
「ええ。……あぁッ!!」
増渕さんは椅子を脚立代わりに額を取ろうとするも、あえなくバランスを崩してしまった。
「増渕さん!!」
後ろに倒れ込む彼女を慌てて受け止めようと飛び込んだが、なんと彼女の姿が消え奥間のクッションの上に移動していた。
「あらやだ。……私、一体何が」
「増渕さん……」
身体を起こしキョトンとする彼女と目を見合わせる。いつの間にかクスダマは入口付近に移動してこちらを見つめていた。
「……もしかして、本当に」
私は内心クスダマは本当に守護神ではないかと疑い始めていた。
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