初恋。

雪の香り。

第1話 ハンカチごしのキス。

 私はお父さんの働いている会社の人が多く住むマンションに住んでいる。近所にいる女の子で年が近いのは二歳年上の姫香ちゃん。来年には中学生になるらしい。


 そのことに私はちょっとホッとしている。

 何故なら、学校が違うなら遊ぶ機会も少なくなるだろうからだ。


 私はもう姫香ちゃんに振り回されたくない。

 なのに。


「明日奈ちゃんはキスしたことある?」


 今日も小学校が終わった後、遊ぼうと外に引っ張り出されたと思ったら、マンションの裏にある駐車場のすみっこでそんなことを耳打ちされた。


「な、ないよ!」


 男の子にモテモテのかわいい姫香ちゃんと違って、私は休み時間は一人で本を読んでいるような地味な人間だ。そんな経験あるわけない。

 姫香ちゃんは端っこが吊り上がり気味な猫のような目をニッと細めた。


「じゃあ、練習しない?」

「練習?」


 なんか嫌な予感がする。


「あたしとキスしてよ」

「嫌だよ!」


 姫香ちゃんの言葉を遮るように断った。姫香ちゃんはとたん不機嫌そうに片眉を上げる。


「なんで嫌なの?」

「だって汚いじゃん。私、友達同士の回し飲みも苦手なのに」


 姫香ちゃんは顎に手を当て少し俯き気味に「うーん」と考え始めた。何を考える余地があるんだろう。私は何言われても嫌だよ。

 姫香ちゃんが、ひらめいたとばかりに手を打った。


「じゃあ間にハンカチはさむから。それならいいでしょ?」


 あきらめが悪いな。


「もう! なんでそんなにキスしたいの!」


 姫香ちゃんは両手を腰にやって胸を反らした。


「だから練習よ! あたし、輝治くんとつきあうことになったから」

「え!」


 輝治くんといえば、姫香ちゃんと同じ学年のイケメンだ。私たちの通う小学校だけでなく、中学にまで名をとどろかせ、お姉さまたちがファンクラブを作っているあの輝治くんと姫香ちゃんが……。


 なぜか胸がズキリと痛んだ。

 なんだろう。

 なんかモヤモヤする。

 私が自分の身体の変化に戸惑っている間にも、姫香ちゃんは言葉を続ける。


「輝治くんは私立の中学に行くからね。今告白しないと会えなくなるって焦ったらしいわ。それに、フラれても卒業したら縁が切れるから気まずくないからって。計算高いよね」


 頭がいいといわないのが姫香ちゃんの微妙に性格の悪いところが出てると思う。


「というわけで、明日奈。キス、しなさい」


 ついに命令だ。

 断れない。

 私のお父さんは姫香ちゃんのお父さんの部下なのだ。


 駐車場の車の影に座り込んで、姫香ちゃんと対面する。大人しくなった私に「良い子ね、明日奈ちゃん」と微笑む姫香ちゃん。憎らしいのに、顔が可愛いから心底嫌いにはなれない。顔がいいって得だよね。


 姫香ちゃんがポシェットから黒地に椿のプリントがしてある大人っぽいハンカチを出して、私の唇の上にかぶせる。


「じゃあ、いくわよ」


 私の両頬をハンカチがずり落ちないように押さえて、姫香ちゃんが顔を近づけてくる。

 心臓が痛い。

 なんだろう。

 逃げ出したい。

 でもそんなことできない。


『姫香ちゃんと仲良くするんだよ』


 お父さんの言葉が脳裏にリフレインして、ぎゅっと目を閉じる。

 瞬間。

 唇にやわらかい感触が降りた。

 そしてふわりと甘い香り。

 バニラエッセンスのような。

 数秒して姫香ちゃんは離れていった。


「んー、やわらかかったけど、特に感動はないわね。こんなののどこがいいのかしら」


 姫香ちゃんが首を傾げる。強引に練習しておいてその言い草。お礼の一言くらいないのだろうか。


 私は絶望した。

 何故って?

 キスをきっかけに気づいたからだ。


 なぜ輝治くんとつきあうと聞いて胸が痛んだか。

 近づく姫香ちゃんに心臓が痛いくらい鳴ったか。

 それは……。


「明日奈ちゃん、公園に行って遊ぼう!」


 立ち上がった姫香ちゃんが私に手を伸ばす。

 その手を取りながら、この人はけっして私のものにはならないだろうと、初めて覚えた感情を押し殺した。




おわり

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初恋。 雪の香り。 @yukinokaori

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