湿度99%

牧場 流体

湿度99%

「おはようございます!本日大阪府の天気は曇り、湿度99%と大変蒸し暑く、皆さん熱中症に気をつけて下さいね。」


 杉本は不快だった。新卒で工場に就職して初めての梅雨に、分厚い作業着を着て過ごす今日を思うとただでさえストレスなのに、朝の天気予報が追い討ちをかけるように今日の不快感を裏付けたのだ。

 杉本はコーヒーを飲み干すと朝の占いを見てテレビを消し、耳にイヤホンを差し込んで玄関の鍵をかけた。

「咳をしても一人…」

 気分をどん底まで下げて、アパートを後にした。



 会社のロッカールームで先輩の白石と出会う。


「杉本おはよう!連休どうだった?俺こんなでかい鯖釣ったよ!」

「白石さん、おはようございます。僕釣りしないんでわかんないっすけど、そういうのって捌けるんすか?」

「捌かないよ!釣ってそのままリリースしたの!気持ち悪かったし、車に入れるの嫌じゃん?」


 5年先輩の白石は俺の出会った人間の中で一番の馬鹿だ。声がデカくて見た事をすぐに喋る。脳が無いんじゃないかって思ってる。仕事は人並みにできるし、同じ部署の直属の先輩だからよく話しかけられるが、生きてる世界が違いすぎてたまにものすごく鬱陶しくなる。が、当の白石は俺の気持ちなど全く気付かずに、どうでもいいことをひたすらしゃべり倒す。

 バカラジオだ。

バカラジオが不快な連休明けの朝からフルスロットルで話しかけてきた。


「僕連休どこも行ってないんすよね、家に引きこもってました。」

「そうなの?我慢大会なの?今日もめっちゃ暑そうだなあ、嫌だな〜」


 我慢大会ってなんだよ、突っ込むのめんどくせえ。

「そういえば今日湿度99%らしいですよ。」

「マジで!?分かるの??俺そこまでとは思わなかったよ!」


 分かるわけねえだろ。

「天気予報で言ってたんすよ。」

「すげえ!じゃああと1%で水中じゃん!!」

 白石は目を輝かせたけど始業のチャイムがなり、慌ててどこかに行ってしまった。



 連休明けの朝礼で、工場長が長々と何か話している。

 全員同じ気持ちだろうが、今からの灼熱に入る前の涼やかなこの空間で、ずっとこの話を聞くことでお金を貰いたい。できれば座りたい。とかぼーっとしてると、窓の外に白石が見えた。


 朝礼にも出ずに、あいつは何をやっているんだ?

 白石はなぜか外でタオルをブンブン振り回していた。何人かは気づいているはずなのに、誰も反応しない。

 1分ほど全力の形相でタオルを振り回して、視界から掃け、また戻ってきてはタオルを回していた。二、三回やって白石は止めたみたいだ。



 昼休憩の飯の前、俺はタバコを吸うために喫煙所に向かう。会社の敷地の隅にある、6畳ほどの広さの屋外の喫煙所は、コソっとしていて会社で唯一俺の好きな場所だ。

 早めだったが先客のツネさんがいた。ベテランのおじいちゃんで、定年間近のツネさんはいつも喫煙所にいて若い奴の話を黙って聞いている物静かな人だ。自販機でコーヒーを買いベンチに座る。

「冷たっ」

 プラスチックのベンチが濡れている。下を見ると、細かい穴が開けられたホースがベンチの背面足元を伝い、そこから霧のような水が噴射されている。

「え?何これ?」

ツネさんを見ると背中が濡れている。

「ツネさん濡れてる!」

ツネさんはしょぼくれた背中を触ると、ショボンとして、いそいそと食堂へ登る階段へとのそのそ消えていった。


「なんやねんこれ!」

 ホースの元を辿る。ホースに開けられた小さな穴から細い水が噴射されていた。元の水道を見つけ、栓を閉めるために近づくと、小さな張り紙があった。


ーーーー水道使用中、止めるな。 白石ーーーー


 容赦なく栓を閉め、張り紙を握りつぶし、ゴミ箱に捨てた。

 あのアホ…湿度99%ってそうゆうことちゃうやん…

食堂はやたら背中の濡れた人が多かった。いつものように白石はいなかった。



 午後からは視線の端で白石を見たが、ことごとく無視した。

 最初は誰かのママチャリの車輪にタオルをつけ、スタンドを下げて、思いっきり漕いでいた。濡れタオル3枚が車輪と共に勢いよく回り、白石にもペチペチと当たっており、一度自転車を降り、車輪を見ると、白石はタオルを取ってどこかに行った。

 次に見た時はなぜか七輪でさんまを焼いていた。

 シャボン玉を吹く白石、雑草に水をやる白石、屋上に物干し竿を持って行く白石。奇行を端々で捉えたが、全部無視した。


 とても暑くて湿度の高い日だった。途中にわか雨が降り、納品も出荷も多く、ヘルメットから滴る汗を拭う気も、もはやなかった。ただ苦行が早く終わってほしい。牛丼食って、家に帰って涼しい部屋で誰にも邪魔されずにビール飲みながら、YouTube見るんや。

 この長い奴隷の行軍のような苦痛も、ゴールを想像してなんとか、今日はよ終われ〜



 定時に仕事が終わり、ロッカールームで着替えをしている時、先程までの気持ちは汗拭きシートで拭き取られたかのように綺麗さっぱり消えていた。

 行軍する奴隷も、今日を終わらした小さな達成感と、平日に慣れつつある感覚を思い出し、いつもと変わらない退勤へと姿を変えた。

 白石結局何しとったんやろ?


 ロッカールームの扉の磨りガラスはオレンジ色に染まり、陽が高くなった夏の始まりを感じさせる。空調の効いた部屋を出る瞬間、生ぬるい空気がなだれ込んで体がだるさで一瞬怯むが帰路を見る。

 窓の外は水中だった。

 海パン姿の白石がダブルピースで泳ぎながら、満面の笑みを俺に向ける。


「イェーイ!」

あまりの馬鹿バカしさに、俺は腹を抱えて笑った。


終わり

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湿度99% 牧場 流体 @liftdeidou

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