第11話 黒い妖精の里
かつて、世界がまだ一つではなかった頃。
人間のものでも、魔族のものでも――誰のものでもなかった頃。
その世界という名の地図は、各種族がそれぞれの縄張りたる領地を勝手に定めることで、種々雑多な色で好き勝手に塗りたくられていた。
姿形も、能力も、強度も、生息地も異なる様々な種族たちが、終わることのない縄張り争いを繰り広げていた―—混迷極まる時代。
静謐な森の中を好むエルフたちは、遥か未来において人間たちの王都となる都市が生まれる不死山の麓の平地から、北に位置する――広大なる大森林を、己らの世界の中心地と定めていた。
その大森林には、天をつんざくように大きく伸びる、己らの肌と同じ純白の大樹が
エルフたちは、かの美しき白き大樹を――そして、その大樹に宿る森の精霊を、自分たちの神として崇め奉った。
森精霊——シルフは、己と大樹を崇める
彼らはシルフが宿る白き大樹を――『神樹アルヴ』と名付け、かの大樹を守護するように、その傍に己らの里を興した。
こうして、精霊と神樹と共に長き時を過ごしていった
それは、彼らが信奉する美しき神樹と、まるで双子のように瓜二つの――もう一本の大きな樹。
白く、高く、美しい――天をつんざくような、もう一本の神樹を、己ら
だが、エルフたちはその悲願を長きに渡って成し遂げることは出来なかった。
何故なら、そのもう一本の神樹は――彼らエルフでも恐れるような、強大なる怪物が無数に跋扈する『不死の樹海』の中に聳えていたからだ。
彼らは、その樹海の中に聳える神樹を『アルフ』と名付け、幾度となく、かの神樹のもとに辿り着かんと挑戦を重ねた。
だが、その度に、エルフの精鋭たちは怪物の餌食となり、無念のままに敗走することとなる。
しかし――エルフたちは諦めなかった。
いつの日からか――彼らエルフの中において神話が生まれており、その神話では以下のように語り継がれるようになっていたからだ。
自分たち
つまり、
いつしか、いつからか、そう定められ――そう
故に――戦い続けた。
夥しい犠牲を幾世にも渡って払い続けながら。
何度も、何度も、何度も挑戦し――その度に、深く恐ろしい樹海に呑み込まれ続けた。
だが、遂に――その長きに渡る流血が、報われる時がやって来る。
ある日――
否――勇者と、そう呼称するべきか。
エルフの歴史の中でも別格の力を持つ、正しく神に選ばれたかのような勇者が現れた。
かの勇者は、仲間たちと共に破竹の勢いで樹海を突き進んだ。多大なる犠牲を払いながらも、幾多の苦難を乗り越え――遂に、辿り着いた。
強大なる怪物が跋扈する、この世界で最も過酷な場所の中でも、悠然と聳える美しき白き大樹の元へ。
神樹アルフの元へと――辿り着いたのだ。
その偉大なる威容を、エルフで初めて直視した勇者は――その神聖さに心から魅了された。
だからこそ、エルフの勇者は――その後、エルフの里には、神樹アルヴの元には生涯で二度と帰還せず、神樹アルフの御前に留まり続けることとなった。
かの神樹の膝元を脅かそうとする怪物たちを駆除し続け、神樹の元へは決して近付けず。
そして、そんな勇者の力になろうと、彼の元へと、神樹アルフの元へと馳せ参じる同胞たちを迎え続けて――そして。
そして、遂に――新たなる、もう一つのエルフの里を興すという偉業を成し遂げた。
二本の神樹に、二つの里——それが、妖精の国『アルヴヘイム』となった。
アルヴの里を治めるエルフの王と、アルフの里を守るエルフの勇者は、互いの神樹の元を決して離れなかったものの、往復する使者を通じて交流を続けたが――やがて、それぞれの里で暮らすエルフたちは、それぞれ異なる進化を遂げ始めた。
森林で暮らすアルヴの里の
樹海に暮らすアルフの里の
純粋なる魔法能力に突出する進化を遂げていった
魔法と白兵技能を組み合わせた戦闘力を獲得していった
それぞれ異なる方向へと変化していった二つのエルフは――やがて王と勇者が逝去し、それぞれの里がそれぞれの新たなる『王』を選出しても。
そして、それぞれの王が、それぞれが
やがて、一つだった筈が、二つに割れた妖精の国に――世界を一つにするという大層な野望を掲げた、脆弱なる人間という種であるひとりの男が訪れ。
二つの国を仲介し、それぞれをひとりの王だと、どっちも俺の国のひとつの都市だと認め、争いを治めた時も。
この時まではまだ――同じ色の、妖精のままだった。
同じ白き肌を、翠の瞳を持った――同じ、エルフだった。
それが決定的に別離したのは――不死の山の頂上に、魔の王が生まれた
森の騒めきを敏感に感じ取った
だが、正しく魔王の膝元たる樹海に暮らす
信奉する神樹を、白く美しかったアルフを――無残にも漆黒に
膝を着き、頭を垂れ、誇りを捨てて――邪悪な魔族に、恭順を誓った。
その証として、かつて同じ色であった、白き妖精たちの里へと攻め入り。
穢れた褐色の肌と、変わり果てた紫紺の瞳を、同胞であった者たちに晒しながら。
彼らが信仰している――かつて己らの神でもあった筈の、未だ白く美しい神樹アルヴへと潜入し。
妖精の神である――
そして魔王は、ダークエルフから献上された
当然――
自分たち同胞を裏切り、あまつさえ、己らが神の如く信奉する神樹の中に穢れたその身で潜入された挙句、
全霊を掛けて全面戦争を挑んだ――が。
元々、長きに渡って怪物たちとの戦闘経験に加え、魔王から圧倒的な黒魔力をその身に賜っていたこと、そして何より、黒く冒されたことで魔族とその配下に従順となっていた、黒化した怪物——『魔物』を従えることが出来るようになっていた、
未だ穢れなき身である
その結果、残る全ての力を、万物を拒絶する結界の維持と強化へと費やすべく、森林の中に閉じこもるようになった
己らの信ずる神を捧げてまで、のうのうと生き恥を晒す、穢れの中に、堕ちた妖精――『黒い妖精』、と。
◆ ◆ ◆
ライから、この世界における
黒い妖精――廃墟の中で初めてレベッカと対面した時、ユウキはそう言って彼女を挑発した。
それは、この世界におけるダークエルフが、そう言われるのを嫌悪するという情報をいつだったか小耳に挟んだ記憶があったが故の、思いつきの行動だった。
だが、まさか、『黒い妖精』という言葉の裏に、こんな
無論、あの時はレベッカたちがどういう存在だったか不明だったし、自分の、そして何よりアリサの敵だったかもしれなかったのだから、あの対応自体に後悔はない―—が、それはそれとして、気まずい思いは拭いきれなかった。
神を売った妖精——
この世界で最も早く魔族へと恭順した――裏切りの妖精。
「——別にいい。そう言ったでしょ、自称勇者」
そんな感情が伝わったのか、前を歩く褐色の妖精が、その背中を見せたまま、振り向くことなく言った。
「確かに、あの時は反射的にイラっとしたけれど。よく考えたら、私が怒る理由も、傷つく謂れも、何もないもの」
褐色の妖精は、震えることのない、淡々とした声で持って言う。
それに――と、更にこう付け加えて。
「『
その言葉の意味を計りかねて首を傾げたユウキが、更に問いを重ねる前に――先頭を歩いていたレベッカが言った。
「——着いたわ」
気が付くと、既に黒い大樹は見えなくなっていた。
それはつまり、それほどまでに自分たちは、黒い大樹へ、かつてアルフと呼ばれた神樹へ――【樹海の迷宮】へ、近付いていたということ。
黒い妖精の里へ――辿り着いていたということ。
レベッカは、蔓が巻き付く樹々だけが広がる前方へと手を伸ばす。
そして、紫紺の瞳を輝かせて、伸ばした右手に黒い光を纏わせながら言った。
「——開け」
パリンと、何かが破砕するような音が響く。
すると、先程まで目の前にあった樹海の樹々が消え去り――目の前に開けた空間が広がった。
「ただの獣避けの結界よ。昔、この辺りの怪物と縄張り争いを繰り広げていた頃の遺産ね。今じゃあ、牧場の柵よりも役に立たないけれど」
行くわよと、淡々と吐き捨てるように語りながら、レベッカは足を止めることなく進み――己が故郷たる、『
そんな彼女に続くように、ユウヤが、ライが、そしてユウキたちが、その集落へと足を踏み入れる。
まず真っ先に視界に飛び込んでくるのは、やはり、間近にまで迫った――その黒い大樹。
これほどまで接近すると、もはや、あの不死山すら見えないほどに、その異様なる威容に圧倒される。
幹も枝も葉も、全てが光を呑み込むような漆黒なのに、その姿には未だ完全には消し去れぬ神聖さと、そして何より、圧倒的な、美しさがあった。
(きっと面影すらも残っていないのだろうけれど……それでも、ダークエルフたちが神と崇めたのも分かるような気がする)
かつて、エルフの勇者と呼ばれた英雄すらも魅了した大樹の美しさに目を奪われながらも、ユウキはゆっくりとその視線を下ろして――その大樹を
その国の――その亡国の有様を、目撃する。
ユウキは、いや、この場を初見するレベッカ以外の誰もが、同じ光景を思い起こしただろう。
(……ああ――これは)
同じだと、ユウキは目を細める。
破壊され尽くされているわけではない。
蹂躙され尽くされているわけでもない。
どの建物も未だ健在で、倒壊など一つもしていない――が、それでも。
この場に充満している空気は――同じだった。
終わった都市。終わり果てた場所。
亡くなった――国。
ゴーストタウン。
「……ここが、黒い妖精の里。……私の
妖精郷――アルフ。
かつて同じ名前の神樹を
(……誰もいない。……いや、
生きては――いない。
死んでいないだけで、生きてはいない。
痩せ細り、目は死んでいて――活気がない。生気がない。
生きる気が、ない。
昏い瞳で、窪んだ眼で、蹲り、顔を覆い、隠れ潜みながら――互いを睨みつけている。
こっち――と。
里の大通り――樹海の迷宮の入口に築かれた祭壇まで一直線に繋がる、この里で最も大きな道の真ん中を堂々と歩きながら、レベッカは何の感情も込めずに語る。
「これが、神を売った妖精共の末路よ。この世で最も信じていたモノを裏切った妖精たちは、自分を含めた全てが信じられなくなった。神を裏切ってまで生き延びたのに、もはやまともに生きてすらいない――哀れ極まる、無様な妖精」
十年前と何も変わっていないと、怒りすら滲ませながら、そんな同胞たちを視界にすら入れたくないとばかりに、真っ直ぐに祭壇だけを見据えながら進むレベッカ。
ライはそんなレベッカを気遣わしげに見詰めながら続き、ユウヤも眼中にないとばかりに前だけを向いてレベッカに続く。
「…………」
それでも――自称勇者と元姫は、見てしまう。
ユウキとアリサは、大通りを颯爽と歩く、見るからに魔族ではない人間たちに当然気付いていながらも、家の中や路地からこちらを暗い瞳で――濁った紫の眼で覗き込んで来るだけのダークエルフを、思わず見てしまいながら、それでもゆっくりと、歩き続ける。
神を自ら売ったことで、何もかも信じられなくなった妖精。
十年前から変わらないというそれは―—九十年前もまた、同じだったのだろうか。
神を売ってから間もない頃の、黒い妖精たちは。
エルフの勇者によって興された
(……あの
今も樹海を煌びやかな炎で照らしている初代勇者も――九十年前、この大通りを歩いていた筈だ。
あの勇者の目には、この澱んだ紫の瞳は、果たしてどのように映ったのだろうか。
そんなことを漫然と考えている内に、一行は祭壇へと辿り着いた。
黒き大樹の根本に建てられた、迷宮の入口へと続く荘厳なる祭壇。
そこには、入口の前に立ち塞がるように――否。
立ち塞がってはいない。立ち上がってすらいない。
祭壇の階段に腰を下ろし、片手に酒瓶を、もう片方の手で杯を持って、その褐色の肌を赤く火照らせている、ひとりの
レベッカは、そんなダークエルフの女に向かって、真っ直ぐに冷たく言う。
「退いて、姉さん。そこを通れない」
「そこを通って、どうするっていうのよ、レベッカ」
姉さん――と、レベッカがそう呼んだダークエルフの女は、杯を傾けて体内に酒精を流し込んで、言う。
「十年ぶりに帰って来たと思ったら、人間をずらずらと引き連れて――何? 戦争でもする気?」
「そうよ」
レベッカの姉——リュミルは、妹の即答に杯を置き、真っ直ぐに妹を見据える。
そんな姉の視線にまるで臆せずに、レベッカは堂々と言葉を続けた。
「言ったでしょ。十年前に――私は、
その結果がこれ? ——と、言わんばかりに、リュミルは口元を歪ませながら、レベッカの後ろに続く人間たちを見遣る。
総勢五十二名の、人間——それも子供。
たったこれだけの勢力で、九十年間誰も成し遂げていない、かつて勇者しか成し遂げていない――『
リュミルは腰を上げて――そして。
「——好きに、すれば?」
ひょい、と。
少しだけ横にずれて、あっさりと、その道を開けた。
そんなリュミルの行動に、ライやユウキたちは目を見開いて――ユウヤと、そしてレベッカは、目を細めた。
「……どういう意味ですか? この場所を守っていたのだから、あなたはダークエルフの代表というか――王のような、立場なのでは?」
ライの言葉に、ふはっと、酒を噴き出すようにしてリュミルは言う。
「王? まさか。ダークエルフにはもう王なんていないわよ。かつて王族だった個体の血はどっかでまだ流れているかもしれないけれど――神を売った妖精の末裔なんざ、殺されても文句なんて言えないから、誰も名乗るわけないしね」
私たち全員が、同じ色の血を継いでいることを棚に上げてさ――と、リュミルは再び酒を呷りながら、赤く染まった褐色のエルフは、黒い獣人を見上げて言う。
「そもそも、
そして奴等の気が向いた時に股を開く、それくらいのものよ―—と、リュミルは寝衣のように薄い衣服のままに、豊満な胸部が零れそうになるのも構わず、その妖艶な両脚を扇情的に開く。
ごくりと、ALUの五十人の内の誰かが唾を呑む声が聞こえ、それをライが咎めようとする前に、リュミルは微笑み――レベッカは吐き捨てる。
「——変わらないわね、リュミル」
「あなたもね、レベッカ。あの時も、本気だとは思っていたけれど――まさか、変わらないとは思わなかった」
いつかはあなたも、
自身もまた、輝きを失っていると自覚している紫の眼で、未だギラギラと紫紺のまま輝くレベッカの瞳と目を合わせる。
「あなただけだった。死んでいないダークエルフは。いつか変えてやるって。いつか甦ってやるって。諦めていない妖精は――もう、この世界で、あなただけ」
リュミルは再び腰を上げて、今度は座り込まずに、黒き大樹から背中を向けながら――反対の方向を見詰める妹に向かって語り掛ける。
「どっちにせよ、同じことよ。あなたたちが奇跡を起こして勝利しても、あなたたちが当たり前に敗北しても――魔族が勝っても、魔族が滅んでも、神と世界を裏切った妖精たるダークエルフの未来なんて、ただただただただ、同じように真っ暗で」
真っ黒だわ―—と、リュミルは手に持っていた酒を放り投げて、祭壇の階段を、ゆっくりと降りる。
「好きにすればいい。好きなように生きればいいわ、可愛い妹。だけど、これだけは――お姉ちゃんと約束よ」
リュミルは、一つ下の段に降りて、ふと振り返り―—愛する妹の背中を見詰めて、優しく微笑んで言う。
「お願いだから――死なないでね」
その姉の言葉に――妹はぶるりと、肩を揺らす。
拳を震わせ、唇を戦慄かせた。
反射的に飛び出そうとしてくる言葉を、噛み締めることで飲み込んで――振り返ることなく。
ただ、前に進む。
「——言われなくても」
私は、黒いままでは死にたくないと、言葉にせず、ただ踏み出す足で持って答え。
あなたのようにはならないと、口に出さず、ただその伸ばした背中で持って語り。
「私は――レベッカだ」
そう、吐き捨てて行く、妹の背中を見詰めながら。
リュミルは、そんな彼女の背中を守るように、続いていく爛れた背中に向けて、ふと、何気なく、投げ掛ける。
「——あの子のこと、お願いね」
リュミルの言葉に「——ハッ」と、火傷まみれの少年は返した。
「言われるまでもねぇよ」
行くぞ――と、少年の号令に、子供たちの軍勢は雄叫びを上げる。
「——遂に、ね」
「……ああ」
行こう――と、少年の呟きに、少女はその手を強く握ることで応えた。
そして、たった五十二名の少年少女たちは――かつて勇者だけが踏破することが出来た、他のどんな英雄も生きて出ることが出来なかった。
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