第55話 初体験

「すみません。この人、わたしの彼氏です」


 目の前の警官は、痴話喧嘩だと知って、深く息を吐いた。若い警官だったから、出世を夢見ているのかも知れない。血気盛んな若者だった。


「仕事だから言いたくないけど、やめてくれよ。その格好で逃げたら誰だって、何かあったと思うだろ」


 面倒くさそうに鍵を取り出して手錠を外す。ふたりしてきつく怒られた。


「ほら、おいで」


 俺は手を差し出した。綾女は怯えた猫のように手を引く。一度言ってしまった言葉、それも相当な覚悟で言った言葉は取り消せない。取り消すためには……。


「俺について来て欲しい」 


 綾女にはこの一言で全てがわかる。覚悟を決める時だ。綾女は一度自宅に戻り、服を着替える。清楚さが漂う青のワンピースを着て出てきた。綾女は最終確認するかのように俺の目を見て呟いた。まるで自分を納得させるように。


「いいの? 雪奈さん好きだよね」


「うん、好きだよ。でも綾女も同じくらい好きだ。どちらが好きとか比べられない。今は綾女と一緒になりたい。失いたくないんだ」


 俺たちは殆ど会話もせずに列車に乗り目的地に向かった。列車から降りて数分歩くと目的の場所に着く。


 ホテルだった。一歩進めばもう引き返せない。俺はずるいと思う。綾女しか愛せないから抱くのではなく、綾女を失いたくないから抱くのだ。雪奈のことを諦めたのではなかった。


「綾女とひとつになりたい」


 俺は腕を取って部屋に誘う。もっとゆっくりと仲良くなっていこうと思っていたが、そんな時間は無かった。


「分かったよ。来て……」


 ベッドに座ると立場が入れ替わる。綾女はやはり経験人数が違うと感じた。いくら決心しても、俺は初めてだ。動揺は隠せない。


「シャワー浴びてくるね」


 ドラマのワンシーンみたいだった。現実味が全くない。しばらくするとシャワーの流れる音が聞こえて来た。綾女が出てくるまで、緊張した面持ちで待った。心臓が潰れそうなほど大きく響いていた。


「綺麗だよ」


 出てきた綾女を最初に見た瞬間、それしか言えなかった。陳腐な言葉だと思った。細くたるみのない身体、胸が自己主張するかのように隆起していた。もちろん胸の真ん中にあるそれはピンクだった。まるで誰にも触られたことのないようだった。


 俺はその日、綾女とキスをした後、横になって、まるでマッサージでも受けるように言われるがままに身体を動かした。気づいた時にはひとつになっていた。求めていたものは、あっけなく手に入った。とても気持ちよかった。


 俺はひとつになれた喜びと昨日の疲れで、倒れるように眠った。生まれたままの身体のままで綾女は、俺の隣にいた。


 朝を迎えた。あれだけ悩んでいた綾女と雪奈。決着がついたように思えた。やはり俺は綾女が好きだ。


「雄一、おはよう」


 俺の腕に頭を乗せた綾女が嬉しそうにはにかんだ。そっと近づいてキスをする。


「嬉しかった。初めて好きな人とできたんだよ」


 瞳に涙を潤ませて俺を見つめる。正直、可愛かった。夜を共にしたことは大きい。昨日の行為が二人の絆を強くした。


 ホテルから出ると綾女は嬉しそうに手を組んできた。


「わたしね、雄一が雪奈ちゃんのこと好きでもいい。そんなことどうでも良くなった。もう、わたし本当に雄一しか見れない。女って抱かれると変わるって聞いてた。仕事じゃ何も変わらなかったから、嘘だと思っていた」


 綾女は俺をじっと見てくる。


「もう好きすぎておかしくなりそう。独り占めできなくてもいい。この人が好きなんだって強く感じられたんだ」


「ありがとう。ただ、あまり大声で話すとさ」


 俺たちは電車に乗って帰っていた。周りの年配客からは、最近の若いものは、という表情で見られていた。


「ごめん、わたしテンション高すぎだよね」


 綾女は終始嬉しそうだった。きっと、なんでもしてくれるだろう。こうしてヒモ男と貢ぐ女は成立するのだろうな、とふと思った。もちろん綾女にそんなことさせるわけがない。


 電車を降りてふたりして歩く。明らかに距離が近くて、誰から見ても恋人同士にしか見えない。


 目の前から雪奈が歩いてくるのが見えた。


「おーい、雪奈さーん」


 嬉しそうに手を左右に大きく振る。綾女、こんなキャラだったっけ。あまりにも打ち解けすぎて、流石にこれはバレる。


 目の前の雪奈は、厳しそうな瞳で俺と綾女を見た。俺に近づいてくる。


「練習するの? しないの? あなた本当に時間なんてないのよ。本当はさ、24時間練習しても足りないのよ。そんなわけに行かないけどね」


 俺は一度家に帰る許しをもらって慌てて身体を洗った。雪奈は先生なのだから、断れるわけがない。服を着て取るものを取って、急いでスタジオに向かった。


「遅いなぁ、すぐ始めるわよ」


 ドラムの叩き方を教わる。本格的な叩き方になっていた。余裕なんてないのだ。身体を合わせていかなければ、当日に間に合わない。何度か同じパートを繰り返す。怒られながら、何度目かの練習で、やっとまともな音が出せた。


「じゃあ次のパート、行くよ」


 何度かミスをしながら丸4時間ぶっ続けで、練習を行う。身体が悲鳴をあげていた。何度か練習して、オッケーがもらえた頃には倒れそうになっていた。


 練習の帰り道、雪奈が怪訝そうに俺を見た。


「あのさ、嘘ついてくれても別に構わないけどさ。あの娘と何かあった?」


 鋭いと言うより気づかない方が無理だろう。綾女は身体中から幸せをアピールしていたのだから。


「昨日、抱いた」


「なんでよ! 信じられない。わたしキスしたよね。待ってくれると思ってた。そのつもりのキスだった」


「ごめん、綾女が別れ話を出してきた。失いたくなかったんだ」


「わたしへの気持ちはどうなの? わたしが別れ話をしたら抱いてくれるの?」


 俺はどうすれば良いのだ。雪奈は明らかにホテルに誘っていた。こんな積極的な雪奈を見たのは初めてだった。



――――――――


とりあえず一区切りですね。


綾女との夢見たケジメ。失いたくないと言う理由からですが、決着がつきました。


雪奈とはどうなるのでしょう。


良かったと思えたら星いただけると嬉しいです。


応援いつもありがとうございます。

今後もよろしくお願いします。


そろそろ裁判です。

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