第1章 この学校にはティラノサウルスがいる(4)

「早く立って。行くよ!」


僕は彼女に肩を貸して助け起こす。足元がふらついている。体温はさらに上がっている。長く触れているのがつらいくらいだ。


「こっち!」


僕は彼女を引きずるようにしながら、廊下を急ぐ。

今はもう朝のホームルームがはじまっている。あまり人目がないのは幸運だった。見咎められたとしても、いくらでも言い訳は効く。

なぜなら、だから。

苦しそうに歪めた唇が、震えながら動く。


「どう、して……」


理由なんて自分でもわからなかった。

どうしようもなく大きな力に、動かされているみたいな感覚だった。

たとえるなら、そう。

重力に引かれて落ちる、隕石のように。

僕はいつものホームルームが行われている教室の隣を抜けて。

彼女の肩を抱いて、走った。



僕たちは人のいない廊下をしばらく走って、たどり着いた先のドアを開ける。白い引き戸はガラガラという音を立てて、ストッパーでバンと跳ね返った。


佐伊さいさん!」

「うわっ!?」


開けたドアの向こうに座っていたその人物は、それに同期するように椅子から飛び上がる。

椅子を回して僕の顔を見ると、胸に手を当てて大きく息を吐いた。


「なんだ、有葉あるはくんか。保健室に入るときはノックをしたまえよ。私がサボっていることがバレたらどうするんだい」


そう言いながら、机の引き出しにゲーム機を放り込むと、ずれたメガネを直した。

無造作に頭の上でまとめた髪は明るく染められていて、まるで湯上がりのようにリラックスした雰囲気だ。その緩急ある身体つきとつり上がったレンズの眼鏡は、どことなくハチを思わせる。それも特大のスズメバチだ。

彼女はやれやれと立ち上がると、羽織った白衣のポケットに、手を突っ込む。


そう、白衣。

当然だ。ここは保健室なのだから。

本来は、このどうしようもない不良養護教諭であるところの斉藤さいとう佐伊さいが、勤務時間中にもかかわらずお菓子を食べながらゲームをしていたことを問題にすべきなのだろうが、今はそれどころではなかった。

僕は抱きかかえた衣緒花いおかを、保健室の奥へと運ぶ。


「この子、例の子!」


あの日、屋上で衣緒花いおかが燃えているのを見た帰り、僕はすぐに、佐伊さいさんにメッセージを送っていた。なぜなら佐伊さいさんは、にまつわるだから。


「例の、ってまさか」

「うん。憑かれてる!」

「それを先に言いたまえ!」


佐伊さいさんは慌ててカーテンを引いた。光と一緒に、外からの視線は遮られる。室内は急に薄暗くなり、衣緒花いおかの苦しそうなうめき声が、反響せずに吸収されていく。

急ぎ衣緒花いおかの頬に手を当てた佐伊さいさんは、顔をしかめた。


「う、熱いな。症状は?」

「言ったでしょ、火だよ!」

「火⁉ なんでここに連れてきたんだ、保健室を全焼させる気かい⁉」

「ごめん、他のところは間に合いそうになかったんだ!」


佐伊さいさんは慣れた手付きで衣緒花いおかの両目を確認し、頬を押して口の中を覗いた。


「これは……なにか動物を見なかった?」

「見た!」

「なんの動物?」

「トカゲ、だと思う」

「大きさは?」

「えっと、これくらい!」


僕はシルエットを思い出しながら、人差し指と親指でサイズを示す。


衣緒花いおかくんは気づいていた?」

「わかんない、多分見えてなかった」

「なにか吐き出したり、うわごとを言ったりは?」

「僕の見てるときにはしてない」


佐伊さいさんは腕を組んで、ぶつぶつとなにかを言いはじめた。


「トカゲに火か……サラマンダー……ならフェネクスの線はないね……視線という解釈なら序列51番か52番? いや素直に考えて……でも有葉あるはくんにだけ……だとしたら……」

「どんどん熱くなってる! どうにかしてよ!」


僕は焦っていた。

ここに来れば、すぐに佐伊さいさんが解決してくれると思っていた。そう、思い込んでいた。

でも佐伊さいさんは考え込んでいて、衣緒花いおかの体温は、まるでストーブみたいだ。こんなはずじゃなかった。もしここで衣緒花いおかの体から火が出てしまったら、大変なことになる。


「……大丈夫です。じ、自分で、対処できます……」


しかし僕の声に応えたのは、佐伊さいさんではなかった。


「自分でって……」


なにをするのかと思ってたじろいでいると、彼女は震える手でスカートのポケットに手を入れる。取り出したのは、ミントタブレットのケースだった。


「あ、それ……」


衣緒花いおかは返事をすることなく、無言でザラザラと口の中にタブレットを流し込んだ。ガリガリ、という大きな咀嚼音の後、喉が動く。蓋をしようとしてケースを取り落し、白い錠剤が床に散らばった。


「これで、収まる、はず……!」


肩で息をする彼女を、しばし見守る。

しかし彼女の背負った空気は、ゆらめいたままだ。


「ど、どうして……どうして効かないの!?」

「答えは簡単さ。症状が進行しているからだ。いやはや、自分で対処しようとするなんてね。生兵法というやつだよ」


佐伊さいさんは僕を押しのけ、衣緒花いおかの様子を伺う。


「……まずいな。時間がない。有葉あるはくん! ちょっと手伝ってくれたまえ」

「え、な、なに言ってるの⁉」

「いいから指示通りに! まずは彼女を押さえて!」


いきなり響いた空気が擦れる音に、僕は目を向ける。

それが衣緒花いおかから発せられている唸り声だということに気づくまで、やや時間がかかった。

彼女の目が、金色に輝いている。きれいな鼻筋には皺が寄り、噛み締めた犬歯が、薄い唇の間から覗いている。

それを見れば、僕でもわかった。


「ごめん、衣緒花いおか! 我慢して!」


暴れ出す寸前、僕は後ろから彼女を羽交い締めにした。バタバタと動かされる足の重さに振り回されそうになりながらも、なんとか彼女の体をその場に留める。密着する体に、服越しに伝わってくる、熱。


「さ、佐伊さいさん! これどうすればいいの!?」

「もうちょっと持ちこたえて!」


振り向かずそう答える。なにをしているかと思えば、机の引き出しをガサガサと探っている。引っ掻き回すたびにあふれているのは、お菓子、だった。


「飴、じゃないほうがいいんだ。もっとすぐ食べられるものじゃないと……クッキー、は粉っぽいし……ああもう、誰だいこんなに散らかしているのは!」


焦りが苛立ちになって伝わってくる。どう考えても本人の責任だが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。

僕はなにも知らない。

なにもできない。

暴れる衣緒花いおかの熱い体を抑える腕に、ぎゅっと力を込める。

早く。

早くなんとかしてくれ――


「あった、これだ!」

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