第5話 その一球は常識を狂わせる
キャッチャーのポジションから見る景色は、バッターの有無でまるっきり変わってしまう。
視界の端にバットを持った人間が映り込んでくるのだから当たり前とも言えるが、それだけではない。
バッターの身長、スタンス、立ち位置からストライクゾーンを幻視し、頭の中で無意識の内に配球を組み立てるようになってしまったからだ。
何十試合と経験を重ね、何百回も打者との勝負を繰り返してきたからこそ生じる職業病のようなものだ。
広馬は若狭に対する初球に一切の迷いもなく外角のストレートを選んだ。一度ブルペンで見ているとはいえ、初めて打者の視点から見るクロスファイヤーを打てるわけがないからだ。
結果、広馬は経験したことがない光景を目の当たりにすることになった。
灰人が投じた1球目は、若狭の身体の前を横切るようにしてミットに飛びこんできた。
不意を突かれるが、何とかキャッチする。構えたところから少しでもずれていたら、間違いなく後逸していただろう。
「ストライク、だよな」
広馬はぼそりと呟いた。
「バッターの俺に聞くなよ。正直言って、ボールにしか見えんかったよ。届く気がしないね」
若狭はヘルメットを取り、ツーブロックの境目を掻きむしった。
何千球と受けてきた中で確固たるものとしてきたはずのストライクゾーンの基準が、たった一球で狂わされてしまった。
しかし、球の軌道も、着弾点も、ブルペンで受けたときと寸分違わなかったということは。
「ストライク! ナイスボール!」
大声でコールして、ボールを投げ返す。受け取った灰人は体育用の運動靴でマウンドを軽く踏み慣らした。
「あいつ、なんでもない顔でとんでもないボール投げやがって」
悪態をつきながら、若狭が再び打席に入る。
2球目、広馬は全く同じコースにミットを構えた。集中して目を凝らし、今度こそ完璧に捕まえた。
若狭のバットは中途半端な位置で止まった。ボール球だったとしても、ハーフスイングを取られていたことだろう。
スイングすることすら許さない威力がそのストレートにはあった。
「うわ、思った以上に手元で来てるな、もっと始動を早めないと」
ぶつぶつと呟きながら、若狭はホームベースに近づいた。バッターボックスの白線があったら、スパイクの先端が触れてしまうのではないかというほどの詰め方だ。
逃げていくストレートにバットを届かせるためには、それしかないだろう。
よし、勝てる。
広馬は内心でガッツポーズをしながら、ホームベースの右側、左打者の内角に構え直した。
多少コントロールを間違えたとしても、あのスタンスでは内角の速球は打てない。ストライクゾーンのど真ん中より少しでも内側に投げられればヒットを打たれることはないだろう。
高さはここまでの2球と同じ位置に合わせ、ミットを開く。オーダー通りの内角低めにも投げ切ることができるなら、いよいよ敵なしだ。
しかし、灰人は中々ボールをセットしない。前傾姿勢で広馬のミットを凝視したまま首を左右に傾げる。
そして、あろうことか、グローブを胸の前に出し、右側に払ってみせた。ブルペンで見せたのと同じ、外に構えろのサイン。
「馬鹿! コースバレるだろうが!」
マスクを取って立ち上がるが、灰人はどこ吹く風で動きを止めない。
まさか本当に内角は怖いのか。だったらど真ん中よりでもいい。
構えを少しずつ、少しずつ外角側に寄せるが、灰人は尚も外へ外へと繰り返す。構え慣れすらし始めている外角ギリギリのコースにミットを出したところで、灰人はようやく2つ頷き、セットポジションに入った。
「長かったな。あの様子だと、外角低めか」
発言は軽いが、若狭の口元は緩んでいない。ようやく頭が真剣勝負に切り替わったか、3球連続で同じコースを要求されているだろうことに憤ったか。
「さあ、どうだろうね」
ごまかしてはみたが、恐らくバレているだろう。
しかし、あのストレートを簡単に打てるとは思えない。三球三振でおしまいだ。
灰人の腕から3球目が放たれる。相変わらずの完璧な球筋。バックスピンの効いたストレートを受け止めるべく、ミットを待つ手に意識を持っていく。しかし、その刹那、金色のバットがクロスファイヤーの軌道に割り込んできた。
鈍い金属音とともに力のないゴロが転がり、三塁側のファールゾーンに置かれたベンチの脚に当たって動きを止めた。
「うわ、あぶねえ。なんとか逃げられた。てか衝撃やば」
若狭がバットを置き、右手をぶらぶらと振り回した。
ボールに逃げる何とか食らいつくようなへっぴり腰の力のないスイング。
それでも、広馬の思考を止めるのには十分な衝撃を与えた。
あのクロスファイヤーが、たった3球で当てられた!?
灰人はしかめっ面で天を仰ぎ、小さく息を吐き出した。
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