第3話 ケチ臭いこと言うなよ

 なんだ、今のは。


 広馬はゆっくりとミットを開いた。確かにボールはそこにある。左手には予期せぬ速球を受け止めた感触がはっきりと残っている。


 ほぼ全くミットを動かしていないのに、ボールが勝手に飛びこんできた。注文通りのコース。

 広馬がボールを捕まえた位置はベースの左辺の外側。しかし、プレートの端からサイドスローで放たれたボールは18.44メートルを斜めに走り抜け、ストライクゾーンの端を掠めていった。

 広馬が打席に入ったと想定した場合、高さにはボール2個分ほどのゆとりがあるが、コースは本当にギリギリだ。後少しでも外にずれたらボールだ。


 さらに驚くべきはその球速。

 中学生の頃、広馬は軟式野球部に所属していた。県大会に出場するくらいの実力はあるチームで、そこそこの投手たちとバッテリーを組んできた。

 しかし、こんなに速いボールは受けたことがない。

 軟式よりも硬式の方が球速がつきやすいという違いはあるが、それだけでは説明がつかない隔たりがある。レベルが一段も二段も違う。

 スピードガンがないからはっきりとしたことは言えないが、130キロ台前半、いや、後半か。


 近年、プロ野球でも球速の平均値が上がっているせいで基準が上がりがちだが、並みの野球部では滅多にお目に掛かれないレベルの速さ。

 さらに左のサイドハンドで、あのコースを狙って突けるとしたら?

 普通の高校生なら何もできずに見逃し三振だ。


 心臓が早鐘を打っているのを感じる。握りこんだ右手に熱い汗が滲む。

 中野灰人。彼の実力が本物なら、投手問題は一気に解決する。


「ねえ、ねえってば! 聞いてる?」


 マウンドからの灰人の呼びかけで、広馬は現実に引き戻された。


「早くボール返してよ。急ぐんでしょ?」


「ああ、悪い」


 そうだ、落ち着け。球速は間違いないが、コントロールに関してはまだ懐疑的だ。さっきの一球がたまたま良いコースを突いただけかもしれない。


 広馬がボールを投げ返すと、灰人はグローブの中でボールを握り直す。その表情には、最高の一球を投げた後の充足感のようなものは見受けられない。


 再びボールをセットし、投球モーションに入る。1球目と同じサイドスローで放たれたボールは、脳裏に焼き付いた完璧な軌道をそのままなぞり、全く同じコースに吸い込まれた。


「もう一球!」


 広馬はすぐに返球し、捕球体勢に戻る。

 灰人の脚が上がる。腕が振り抜かれる。まるでキャッチャーミットに磁石でもついているかのように、3球目も構えたままのところに突き刺さる。


「本物、だ」


 限られたストライクゾーンの中で、最も角度がつくコース。一番威力のあるクロスファイヤーを、灰人は自分の意思通りに完璧に投げ込んでいる。


「うわ、すごいな」


 突然、背後から声がした。振り向くと、ホームベースの後ろに置いた防球ネットの向こうで、部員たちが揃って立っていた。灰人の投球にのめり込む余り、打球音や声が聞こえないことにも、後ろに人が立っていることにも全く気がつかなかった。


「お前ら、ノックはどうしたんだよ」


「あのなぁ」


 若狭がやれやれと首を左右に振った。


「突然部外者がブルペンに入って、サイドスローで投球練習を始めて、いきなり剛速球を投げ込むっていう状況で、いつも通りの練習なんてできると思うか?」


 なるほど、ぐうの音も出ないほどに正論だ。


「ねえ、もしよかったら」


 振り向くと、今度は灰人が背後に立っていた。


「誰か、打席に立ってくれない?」


 そうだ。バッターだ。

 打者が入っている状態でも制球力を維持できるかどうかを見ておかなければいけない。


「俺からも頼む。バッターからどう見えるかも聞きたい。打つ必要はないが、ヘルメットとバットだけは準備してもらって……」


「おいおい、そんなケチ臭いこと言うなよ」


 若狭の隣に立っている切れ長の目をした男が口を挟んだ。先程までセカンドの守備位置でノックを受けていた国本だ。


「グラウンドはこれだけ空いてるんだぜ? どうせもうノックを続ける感じでもないし、ここは勝負と行こうぜ!」


 国本はダイヤモンドの方に向き直り、両腕を大袈裟に広げた。


「それはいくらなんでも急過ぎるだろ」


 直接対決は、正式に入部していない選手にやらせることの範疇を流石に超えている。灰人の話が本当ならば、まともな守備練習もしたことがないはずだ。


「いや、やりたい!」


 灰人が一歩前に踏み出した。


「話が分かる奴じゃねえか! よっしゃ、準備すんぞ! 木戸! 職員室にひとっ走りして葉山の許可取ってきてくれ!」


「なんで俺!?」


 背の低い部員、センター兼ノッカーの木戸が素っ頓狂な声を上げる。


「お前が一番足速いだろ? そんじゃ、よろしく」


 国本に続いて、部員たちはぞろぞろとバックネットの方に歩いていってしまった。結局、地味な練習よりもバッティングが好きなのだろう。


「それあんまり関係ないだろ? はあ、全く」


 置いて行かれた木戸は大きくため息を吐くと、灰人の顔を見上げた。


「君、本当に背が高いな。名前は? 一応顧問にも話通しておかなきゃいけなくて」


「芸術科絵画コースの1年、中野灰人。担当教員の許可が云々って言われたら、何してもいいって言われてるって伝えて」


「中野灰人くん、ね。じゃあ、ちょっと待っててね」


 木戸は綺麗でフォームで駆け出し、すぐに加速して校舎の方に走り去っていった。流石は中学時代に陸上部で短距離選手だっただけはある。


 騒がしかったブルペンに、広馬と灰人の2人が残る。


「よかったのか?」


「うん、願ったり叶ったりだよ」


 灰人はダイヤモンドの真ん中にあるマウンドを見て、目を輝かせていた。


「本気で打ちにくるバッター相手じゃないと、僕の求める作品は完成しない」


 作品? 完成?

 言っていることはよく分からなかったが、止めても無駄なようだ。


「まあ、打球が飛んできたら避けろ、俺が言えるのはそれだけだ」


 広馬はそれだけ伝えると、マスクを片手にバックネットの方に歩き出した。

 

 広馬自身にも、灰人の球で明興野手陣をどこまで抑え込めるか見てみたいという思いはあった。

 ……まあ、圧勝すると思うが。

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