第2話 風薙ぎの速球

 芸術科絵画コース。

 頭の中で反芻しながら、広馬は美形の青年、中野灰人をネット越しに凝視した。

 

 広馬達が勧誘を行ったのは普通科の男子のみ。芸術科とはそもそも教室があるフロアも違うので、見たことがなくてもおかしくはない。

 

 しかし、すぐさま別の疑問が沸き上がる。


「芸術科の奴が、なんでこんなところにいるんだよ。放課後は絵の練習じゃないのか?」


「まあ、本当はそうなんだけどさ。うちの先生適当だから。それより、そこ、空いてるんでしょ? 投げさせてよ」


 灰人はネットの網目に指を突っ込み、マウンドの方を指差した。

 高校1年生にして180cmを越えている身長、鍛えなければつかないような筋肉、長い手足。

 確かに、野球をやっていてもおかしくない身体をしている。いや、むしろ恵まれていると言えるだろう。


「お前、ピッチャーなのか?」


「んー、そうだなぁ。どっちなのかな」


 灰人は思案顔で首を傾げた。


「ピッチング練習はしてるんだけど、ピッチャーではないかも。チームに入ったことも、試合で投げたこともないし。」


「え、じゃあ他のスポーツをやってたのか?」


「いや、全く」


「じゃあ、その身体は? 結構な期間トレーニングしているだろ?」


「うん、確か中学入ってすぐのことから鍛えているから、3年くらいかな」


「何のために?」


「もちろん、ピッチングのためだよ」


「はあ」


 気のない返事が口から飛び出した。

 身体は鍛えているが、スポーツはやったことがない。ピッチング練習をしているのに、野球の試合には出たことがない。そして美術科。

 ダメだ、理解の範疇を超えている。


「なんでそんなことしてんの?」


「うーん、分かりやすくまとめるなら」


 灰人は目を細め、無邪気に笑った。


「創作活動の一環、かな」


 ピッチングの練習が、創作活動?

 本人は分かりやすくまとめたつもりらしいが、広馬の頭はさらに混乱するばかりだ。


 しかし、はっきりとしたことが一つだけある。

 こいつは、勝つために野球をやっているわけではないということだ。

 恐らく、本業である絵の片手間に、気分転換のためにやっているのだろう。


「ねー、投げていい? いいでしょ?」


「ああ、いいよ。そのかわり、ちょっと投げたら帰れよ。こっちも一応、真面目に練習してるんだからさ」


「やった! ちょっと待ってね」


 灰人は両手でガッツポーズを作ると、ネットの切れ目の方に駆け出し、あっという間にブルペンにやってきた。


「じゃあ、よろしくね」


 タッパがある分、目の前に立たれるとやはり圧迫感がある。


「まあ、長くても15分くらいで終わらせてくれや。この後ノックを打たなきゃいけないんだからな」


「ノックって何?」


 こいつ、3年間も野球のためにトレーニングしておいて、ノックも知らないのか。

 内心も呆れながら、灰人の、汚れのない綺麗なグローブにボールを入れようとして、グローブを右手につけていることに気がついた。


「あれ、サウスポーか」


「サウスポー?」


「……左利きか?」


「うん、筆も箸も野球もずっと左」


 一般的に投手は左投げの方が有利とされている。ランナーを置きやすい一塁への牽制のしやすさであったりだとか、稀少性から来る対応の難しさであったりとか、いろいろな要因があるのだが、こいつは当然そんなことは知らないだろう。


「それじゃあ、行くよ!」


 灰人はマウンドとホームベースの中間ほどの位置まで駆けていき、広馬の方に振り向く。そして、足元と広馬を交互に見比べると、じりじりと左に横歩きをした。


 なんだ、足場でも悪かったのか?

 灰人に正対するように、広馬も合わせて横にずれようとすると、


「あー、その位置でいいから!」


 即座に灰人からストップがかかった。何やらこだわりがあるらしい。


「そんじゃ、改めて」


 灰人は軽く脚を上げると、ゆったりとした動きで左腕を横から振り抜いた。


 サイドスロー?


 ボールは綺麗な回転で広馬のミットに収まった。


「お前、珍しいフォームで投げるんだな」


「ああ、これ珍しいんだ」


 チームに所属していれば、初心者でいきなりサイドスローを教わることはない。

 独自で練習してきたが故に辿り着いた変則フォームということだろうか。


 それから、灰人は肩の調子を確かめながらボールを投げ込み、少しずつマウンドに近づいていった。

 灰人のスニーカーがあと数歩でマウンドに到達するというところで、広馬はあることに気がついた。

 さっきから、一度もミットを身体の右側に動かしていない。

 偶然か? それとも……


「やば、後七分しかない。もう座っていいよ」


 灰人は校舎の時計に目をやり、素っ頓狂な声を上げた。


 なんとも言い難い違和感を抱えながら、広馬はマスクを被って膝を折る。


 灰人はプレートの左側、通常のグラウンドで見たときの一塁側ギリギリに足をセットした。


 広馬が真ん中にミットを構えると、灰人は不満そうにグローブを横に振った。


「もっと右!」


 初球からコースに拘るのか。広馬はゆっくりと移動し、ホームベースの左辺に合わせてミットを出す。


「もうちょっと右!」


「はあ? これ以上いったらボールだぞ」


「いいからいいから!」


 まあ、こいつの野球知識だったら、ストライクゾーンを誤解している可能性もある。とりあえず満足してもらえばいいか、と広馬はミットを少しだけベースの外に出す。


「オッケー、後はもうちょっと低めに……うん! その位置!」


 灰人は満面の笑みで何度も頷くと、ベルトの前でボールをセットした。


 そのとき、爽やかな風がグラウンドの周りの木々を揺らした。暖かさを帯びた、何かの始まりを感じさせるような、そんな風。


 振り上げられた灰人の右足が地面に着くと、勢いよく左腕で空気を薙ぐ。

 そして、広馬は目撃する。

 放たれた速球が寸分違わずミットめがけて飛びこんでくる光景を。ミットに収まる直前、ホームベースの上辺の左角を確かに通過する完璧な軌道を。


 白球を掴む小気味の良い音が広馬の耳の中で反響した。 

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