芸術的クロスファイヤー

浅葱ガラス

芸術家ピッチャー、マウンドに君臨?

第1話 問題だらけの野球部

 野球にはクロスファイヤーという言葉がある。

 利き手側のプレートの端に立ったピッチャーが対角に投げ込むストレート。

 ピッチャーが左投手だった場合、そのストレートは左打者の視界から逃げるように外角に突き刺さり、右打者の身体に一直線に向かい内角を抉る。


 初めてそれを見たとき、中野灰人なかのはいとはそんな用語があることを一切知らなかった。

 それどころか、野球というスポーツのことを殆ど知らなかった。

 人が投げたボールをバットで打つ。打ったら走る。その程度。


 だから、家電量販店の大型テレビの前で多くの人が足を止め、食い入るように試合を観ている場面にたまたま出くわしたとき、大層驚いた。

 横のゲームコーナーでソフトを陳列している店員も、時折手を休め、画面を盗み見ている。

 そんな異様な空間に引き込まれるように、灰人はテレビに近づいた。


 照明が降り注ぐグラウンド。画面の中心では細身の投手がマウンドに立ち、ベルトの前でグローブを構えていた。対するのは左打席に入った大柄の外国人。投手とは対照的に筋骨隆々。野球素人の灰人でも、彼が飛ばす打球は恐ろしいだろうと察することができた。


 足が上がると同時に観客と化した周りの人々が息を飲む。

 薙ぐように振り抜かれた投手の左腕。サイドスローで投じられたボールは糸を引くかのように外角に構えたキャッチャーめがけて一直線に滑っていく。大きく上げた脚を勢いよく下ろしたバッターが見送る目の前で、ボールは僅かにホームベースの角を掠め、ミットに突き刺さった。


 ピッチャー、キャッチャー、バッター、審判。テレビに映った登場人物全員の動きが止まる。

 刹那の静寂の後、審判の右手が上がった。

 それが打者の見逃し三振を意味することも、その一球が試合を終わらせる一球であったことも、その投手が地元球団の抑え投手であったことも、灰人は知らなかった。

 ただただ、こう思った。


 美しい、と。




 バックスクリーン一直線かな。

 ストライクゾーンの真ん中高めからど真ん中に落ちてきたカーブを捕まえながら、黒瀬広馬くろせこうまは思った。


「お、今のは流石にストライクだろ」


 三塁側のファールゾーンに作られた練習用マウンドの上で若狭わかさが得意そうに右手でガッツポーズを作る。


「あれじゃ審判の腕は上がらんけどね」


「えー、そんなわけないだろ。だってど真ん中だぜ?」


 若狭にため息を返し、広馬は太陽が西に沈みかけている5月の空を見上げた。ゴールデンウィークも終わり、本格的に日が長くなり始めているのを感じる。高校球児というのは、日照時間の変化に敏感な生き物だ。


「実際にバッターが立ってたら、今頃ボールは遥か空の上、文句なしのホームランだろうよ。あんなコースに投げられたカーブを見逃すわけないからな」


「あ? 喧嘩売ってんのか?」


 若狭が憤慨し、広馬の方に大股で歩み寄ってきた。


「ピッチャー始めて2ヶ月も経ってないんだからしょうがないだろ。俺の本職はあっちなんだよ」


 若狭がグローブで差した先では、無地白色の練習用ユニフォームを着た部員たちがノックを行っていた。

 広いグラウンドに野球部員以外の生徒はいない。いわゆる貸し切り状態なのだが、選手たちにはイマイチ覇気を感じない。

 声を出していないわけではないのだが、とにかく人数が少ない。


 内野はファーストとセカンドとショートに1人ずつ、外野はライトとレフトの2人だけ。本来はセンターを守る予定になっている木戸はホームベースの横でノックバットを振っている。


「あ、ごめん」


 木戸の放ったゴロが無人のセカンドの定位置を突く。


「あれ、板橋いたばし先輩は?」


 ボールが外野を転々とする様を見ながら、若狭が首を傾げる。


「風邪で学校ごと休みだってさ」


「はー、マジかよ。体調とか崩すんだあの人」


「昔から風邪が長引くタイプだから、今週は全部休みかもってさ」


「え、今日まだ月曜だぞ。なんか先行き不安になるな」


「まだこの時期でよかったよ。これが大会直前とかだったら目も当てられない」


 そうなったら棄権だな、と広馬は大きくため息を吐いた。

 ノックをしている6人と、ブルペンに入っている広馬と若狭、それに欠席中の板橋を合わせた9人しか、私立明興めいきょう芸術大学附属高校の野球部には部員がいない。マネージャーもいないので、ここに顧問の葉山はやま先生を合わせた10人が、5月で創部2ヵ月目を迎えたこの野球部の全てだ。


「流石に内野一枚落ちじゃ練習にならねえよなぁ。今何球?」


「さっきの激甘カーブで丁度50」


「劇甘は余計。俺、このままノック混ざってくるわ」


 若狭はやれやれとばかりに首を横に振ると、ダイヤモンドの方に駆け出した。


「おい、クールダウンは?」


「最後にやるよ。実際の試合でも、降板してそのまま守備に入る想定だろ? だったらその方がいい」


 なるほど、一理あるだろう。

 プレーが終わったことを確認し、若狭がショートの国本くにもとの方に走っていく。若狭と一言二言会話した後、国本がセカンドの定位置に着く。センターはいないが、これで内野は成立する。



 野球部が設立したのは2022年の4月のことだ。元々芸術大学の附属高校として芸術家の卵を早い段階から育成することを目的としていた明興高校には芸術科しかなかった。しかし、少子化の煽りから定員割れを起こすようになり、2021年から実験的に普通科を新設。初年度は1クラスしかなかったが、2年目となる2022年には2クラスに倍増した。


 明興高校には元々部活がなかった。芸術科の生徒達にはそれぞれの分野やコースに合わせて指導教官がついており、通常の授業を終えた後の時間を教官の元で作品の制作や技術の向上に当てていたのだ。いわば、全員が美術部の状態だ。

 普通科設立にあたって部活を作ること自体はできるようになったが、人数の関係上、初年度にできたのは男女のバスケ部のみ。運動がしたい生徒はバスケ部に入るか、外部にその機会を求めるしかなかった。


 そんな状況の中、普通科2期生の入学に合わせて、2年生の板橋あゆむが野球部の設立を提案。新入生に対して勧誘を行った結果、なんとか8人の部員を集めることに成功。


 こうして、3年生0人、2年生1人、1年生8人、というちょっと歪な野球部が出来上がったのだ。



 当然ながら、この急造チームには課題が多い。ノックを受ける部員達を見ながら、広馬は一人、思案する。


 1年生の男子は合計39人。その中から経験の長さに差はあれど、野球経験者が8人を集めることができたのは相当な幸運だったと言えるだろう。

 だが、ポジションまで綺麗に埋まるほどの豪運には恵まれない。


 早い話、ピッチャーがいなかった。

 板橋もこの事態を想定していたらしく、野球を作ると決めた直後からピッチャーの練習をある程度していたらしい。

 しかし、ピッチャーはそんな簡単にできるようになるポジションではない。速い球を投げることができるのは才能を持った一部の人間に限られる。元々体格も肩も良くない板橋1人で1試合を投げ切るのは限界があるだろう。


 部員の中でその才能に一番恵まれていたのは、中学時代に県ベスト8の軟式野球部でショートのレギュラーを張っていた若狭だった。球速だけに着目すれば板橋よりもかなり投手向けと言えるだろう。だが、その代わりコントロールが悪い。中学生になってからは不動のショートだったらしく、変化球を本格的に練習し始めたのは1ヵ月前だ。


 2人とも、高校野球で通用する水準には達していないだろう。


 さらに、この2人を投手に起用することは更なる問題を生み出す。

 投手を抜きにして考えると、若狭は当然ショート、肩はないが足と反射神経に優れる板橋をセカンドに入れるのが適切だろう。

 裏を返すと、どちらかが投げているときはそれぞれのポジションが空くということだ。

 代役には元リトルリーガーの内野手、国本を考えているが、守備範囲も送球の正確性も二人には遥かに劣る。


 投手問題と、連鎖して発生する内野の守備力の低下。つまるところは大量失点。押し返すほどの打撃力など当然ない。


 笑い声が広馬を思考の海から引き戻した。内野フライを狙った木戸の打球が真上に打ち上がり、無人のマウンドに丁度ポトリと落ちるところだった。


「ごめんごめん、今のなーし」


「へいへいノッカー、俺と代わるかー?」


「お前が抜けたら結局内野が空くじゃねえか」


 というか、フライなんだから誰か声出して捕れよ。再び上がる笑い声に広馬は深くため息をついた。

 このチームには上級生が1人しかいない。唯一の2年生である板橋も下級生を抑圧するタイプではないから、部員も伸び伸びとしたものだ。


 だが、緊張感のなさの原因はそれだけではない。恐らく、勝ちへの執着心のなさが大きい。

 元々野球部がない明興高校に来ている以上、一度は野球を選択肢から外したことがある人間だ。絶望的とも言える戦力状況も相まって、少しでも上手くなって勝ちたい、という思いが欠けているように感じられる。

 精神論は好きではないが、この状況は少し不満だ。

 やるからには勝ちたい、勝たなければいけないんだ。


 鋭い打球が二遊間を破る。そこにいるはずのセンターはいないから、レフトとライトが必死に打球を追いかけていく。

 考えこんでいる場合ではない。早く木戸とノッカーを代わってやらなければ。

 レガースの留め具に手をかけた、その時だった。


「ねえ、もしかして空いてる?」


 声のした方に目をやると、防球ネットの向こう側に青いジャージを履いた少年が立っていた。

 

「空いてるなら、僕にも投げさせてくれないかな」


 広馬は少年をまじまじと見つめた。

 身長はかなりある。175cmの広馬よりも10cm以上高く、腕も長い。ゴツイわけはないが、全体的にバランス良く筋肉がついた身体は、いわゆる細マッチョと言われるやつだろうか。

 少し垂れ気味の目尻にぱっちりとした黒目。癖のないサラサラの黒髪。童顔気味ではあるが、同じクラスにいれば女子が放っておかないくらいのイケメンと言えるだろう。同性の広馬にしても、一度見れば忘れないないだろう。


 なのに、知らない。

 ジャージの色が同じだから、1年生なのは間違いない。

 元々2クラスしかない上に、勧誘のために何度も通い詰めたから、男子の顔は全て把握しているはずだった。 


「お前、誰だ?」


 戸惑う広馬に、少年は人好きのする笑みを返してきた。


「芸術科絵画コースの1年生、中野灰人だよ」

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