第4話 若草
バスの中には、誰もいなかった。.
あたしはまた一人、椅子に座って、ぼんやり窓の外の、まるで宇宙のような夜の海を見つめていた。
今までの感じで行くと、今度は小学校ということになる。
あなたは、それぞれの時代にとどまり、あたしのために何かをしている。
きっとこれが、片想いなのかもしれない。
片思いっていうのが、こんなにも悲しいものだということが、何となく分かったような気がする。
でもなぜあたしは、あなたの『想い』の世界をさまよっているのだろう。
あたしのいた世界は、もっと別の世界だった。
こんな宇宙空間のようなところじゃない。
でもあたしはその世界を思い出すことが世出来ない。
「次は、若草。若草」その声に、あたしは顔を上げた。
私の身体は、また一回り小さくなっている。
紺のカーディガンにチェックのスカートをはいている。
あたしは今、小学生になったんだ。
窓の外には、まあるい山が見える。
それは、小学校の前にあった、大塚古墳だ。
典型的な円墳で、あたし達にとっては、恰好の遊び場になっていた。
それは歴史的な遺跡のはずなのに、あたし達小学生にとっては、古墳はただの小山でしかなかった。
ただ、学校帰りに走り回るばかりの場所。
この古墳は、神社になっているのだ。
バスを降りると、バス停の看板はさらに大きくなっていて、あたしはそのまま古墳の周りの境内に入っていった。
すると一人の少年が、大きなお鍋を置いて、火を焚いている。
左手には、大きなお玉を持っていて、お鍋の中をかき回している。
右手には、1ーBと書かれた旗を持っている。
校外班?
そうだ、あたしとあなたは、校外班の一地区のA班とB班の班長同士だったんだ。
じゃあこれは、お楽しみ会。
夏休みの校外活動の。
そう、カレーを作って食べたんだ。
そういえば、あなたは来なかった。
あたしは、一人で結構大変だったのを覚えている。
もしかして、そのすっぽかしたことを悔いて、ここでカレーを作り続けているの。
「良い匂いね」あたしは、明るくあなたに声をかけながら、あなたに近付いた
あなたは、驚いたようにお玉の手を止めた。
「やあ、・・・・・」また、あなたがあたしの名前を言った。
「おいしそうね」
「うん。班長としてカレーを作らなくちゃあ」あなたは、またお玉でお鍋の中をかき回しながら、嬉しそうに言った。
あなたは、ここに十年以上も留まっていたのね。
「もうすぐ出来るから、食べてよ」
「うん」あたしは自分でも驚くくらい、無邪気にうなづいた。
そしてあたしは、膝を抱えてしゃがむと、お玉を持って、お鍋をかき回すあなたを見つめた。
カレーの湯気のせいか、あなたの汗か分らないものが、あなたのおでこににじむ。
そんな姿にあたしは何となくあなたが素敵に見える。
「ご飯、よそってくれる」あなたは、控えめにあたしに声をかける。
あたしは、ぴょんと跳ぶように立ち上がると、あなたの後ろのテーブルの上のお釜の蓋を開けた。
あたしは、その横に置いてあるお皿を手に取ってご飯をよそる。
お皿の半分を山にして、半分を残す。
「はい」あたしは、無邪気な小学生の女の子に戻って、あなたにご飯の盛られたお皿を手渡す。
「はい」と言って、あなたはあたしからお皿をもらうと、ぎこちない手つきでお玉のカレーを重そうに持ち上げると、お皿の残り半分にカレーを満たした。
それをまたあたしが受け取って、福神漬けを横にのせる。
あたしはなにか、こんなことが妙に楽しくて仕方なかった。
もっと楽しかったことを、あたしはいっぱい経験しているはずなのに。
そういったものが、一切想い出せない。
あたしとあなたは、近くのベンチに座ると、一緒にカレーを食べ始めた。
「おいしい」あたしは、オーバーに言った。
確かにおいしいんだもの。
「なんべんも作っていれば、上手になるさ」あなたは、明るく言う。
そして、あたしは何も言えなくなって、黙ってしまう。
「どうしたの?」あなたは、優しく尋ねる。
「ううん、何でもない」あたしは、何とか明るく返事をした。
そのうちに、またバスがやって来るだろう。
そしてまたあたしは、どこかのバス停に行く。
そして、最後はどこに行くのだろう。
ふとあたしは、そんなことを思った。でもあたしは、結構今の旅を楽しみだしている。
今度はどんな所に行くのか。
えっ、待って。
この感覚、あたしはよく感じていたような気がする。
そう、いつもどこかへ行く、わくわくした感じ。
あたしは、どこかの世界で暮らしていた。
その時のあたしは、どこかにあるあなたの視線を漠然とは感じながらも、決してそれに気付くことはなく暮らしていた。
「食べ終わったら、鬼ごっこしようよ」あなたのそんな声に、あたしは我に返った。
あなたは、カレーのお皿を持って、楽しそうにあたしを見つめている。
「いいわよ」あたしは、今楽しければいいと思った。
カレーを食べ終わった。
あたし達は、草に覆われた大塚古墳で、追いかけっこをした。
なんて身体が軽いの、そして草の香り、懐かしい。
随分長い間、忘れていた感覚。
いえ、もう味わうこともないと思っていた感覚。
あなたが鬼で、あたしを追いかける。
捕まらないから。
「ここまでおいで」あたしは、あっかんべーをする。
あなたは、ぐんぐんあたしに追いついてきて、あたしに手を伸ばしてくる。
その気配がわかる。
あたしが、今一歩のダッシュをかけた時、足が何かにあたりつまづいた。
あたしは、捕まることの方が、転ぶことや怪我をすることよりも怖かった。
そして転んだ。
スカートが完全にめくれた。
不思議、全然恥ずかしくない。
むしろ、あなたに捕まることが怖かった。
「さあ、捕まえたぞ」あなたは、嬉しそうにあたしにタッチする。
「今のは、転んだんだもん」
「ダメダメ、捕まえたことには、違いないんだから」あなたは、容赦ない。
「いいもん、すぐ捕まえるから」あたしは、悔し紛れにあなたに叫ぶ。
「じゃあ、捕まえてみな」そう言って、あなたはもう走り出していた。
凄く楽しかった。
でもまた、遠くの方からバスがやって来た。
あたし達は、随分長い間、鬼ごっこをしていて、そろそろ疲れてきた時だった。
「あたし、行かなくちゃ」あたしが、ぼそっと言う。
あなたの顔が曇った。
「行っちゃうの?」あなたは、ひどく沈んだ声でそう言った。
でもあたしは一つのことに気付く。
あたしがここには残れないなら、あなたを連れていけばいいのだということを。
あなたと出会ったのは、小学生の頃だった。
もしこの旅が、あたしの過去へと向かう旅だとしたら、もうあなたには逢えない。
「一緒に行かない」あなたは、困ったような顔をして、考え込んだ。
「もう、カレーは作らなくてもいいんでしょう」あたしのこの言葉は、ちょっと傲慢だったかとも思った。
だって、あくまでもあなたは、お楽しみ会をすっぽかしたことに対して、悔いているのであって、あたしのためにカレーを作っていたとは、一言も言っていないのだ。
「そうだな。一緒に行こうかな」あなたは、渋々同意したと言う感じだったけれど、行くと言ってくれた。
「やった」あたしは、小学生らしく、跳び上がって喜んだ。
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