第3話 銀杏
相変わらずバスの中には人がいなくって、あたしはぽつんと席に座っている。
いつの間にかあたしはフルートを持っていなくて、一冊の革の表紙の本を持っている。
あたしは、その本を何の気なしに眺めた。
『駅』と書かれた表紙を開いてみる。
中は真っ白だった。
でもあたしは、その白いページを見つめる。
すると、まるで心の中にスクリーンがあって、そこに映し出されるようにはっきり、そして切なく、あたしに対する想いが伝わってくる。
あたしは、涙が止まらない、そして、ページに涙の雫が数滴落ちる。
「次は、銀杏、銀杏」運転手さんが、事務的に言った。
あたしは、顔を上げて窓の外を見る。
そして、そこにはさっきと同じようなバス停が夜の海に浮かんでいる。
音もなく、バスはそこに滑り込むと、ドアを開けた。
あたしは、またバスを降りる。
すると、妙なことに気付いた。
バスの階段の段差が、大きくなったように感じた。
あたしは、一段一段飛び降りるようにバスの外に出た。
そして、ここのバス停の名前を示すブリキの看板が、星稜より高いことに気付く。
へーと思いながら、少し歩いて気付く。
違う、高いんじゃない、あたしの背が低くなったんだ。
そして、自分の姿を見直す。
これは中学の時の制服、あたしは納得した。
バス停の前にあるのは、作り直す前のうちの中学の校門、たしか二年の時に直したはず。
門をくぐると校舎へと続く遊歩道。
左はプール、右は校庭のはずだけれど、そこにはどこまでも深い夜の海、あたしは遊歩道を進んだ。
水飲み場やベンチが置いてある広場、中央に銀杏池、その端に男の子が立っている。
男の子はあたしのことに気づかないで、じっと池の中央にある岩の塊を見つめている。
それは、あたかも池の中の島のように見える。
彼はそこの足をかけて、池を飛び越えようとしているんだわ。
その頃、池を飛び越えることが、流行っていた。
池の淵は五十センチ程高くなっているので、助走をつけることは出来ない。
池の幅は、三メートル程あるので、島に足をかけても飛び越すのは難しい。
あたしは、失敗して水浸しで家に帰る人を、何人も見たことがある。
だからうちの中学では、水浸しで帰っても、不思議がられない。
最もそれがあんまりに多かったので、次の年、銀杏池の島は取り除かれてしまった。
あたしが、彼とは反対側の縁のところまできて、初めて彼はあたしに気付いた。
「そこにいたら危ないよ」彼はじっと島を見つめる目をゆっくり上げて、あたしを見て言った。
そして彼はまた島を見つめる。
それは、あなただった。
「そっちこそ危ないわよ、やめたほうがいいわ」あたしは本気で心配して言った。
あたしは、あなたがこの池に落っこちるのを見てる。
「・・・・・」あなたは、あたしの名前を呼んだ。
また聞き取れない。
その部分だけかすんでんでいる。
この頃あなたは、あたしのことを呼び捨てにしていた。
「随分前に、誰かが成功するのを見て、大喜びしていたじゃないか」確かに、あたしはこの池で誰かが挑戦しているのを見ると、固唾を飲んで野次馬に変身していた。
でも今は違う。
「だって、前に失敗したじゃない。危ないわよ」あなたは、その言葉にショックを受けたようにあたしを見つめた。
そして、一つのことが思い浮かぶ。
もしかしてあなたは、ずっとここで挑戦し続けていたの?
あなたは跳んだ。
島に足が付き、そしてさらに飛ぶ。
あたしがいる方の縁に足が届く。
成功?
いえ、身体が池の方に傾いている。
あたしは驚いて手を伸ばす。
そして、足を踏ん張る。
重い、足が引きずられ、池の縁にさわって引っかかった。
あたしは腰をおとして、あなたを引っ張る。
ある一瞬力が抜ける。
そしてあたしは後ろに倒れる。
あたしは固く目をつぶった。
不思議と身構えた程痛くなかった。
あたしはゆっくり目を開ける。
「大丈夫」あなたの顔があたしのすぐ上で微笑んでいる。
「あっ、ありがとう」それだけ言って、あたしは頭を起こした。
すると、あなたの手があたしの頭の後ろから引き抜かれる。
あなたは、あたしが顔を打たないように、頭の後ろに手を入れてくれてたんだ。
手の甲から血が出ている。
あたしは心配そうに、あなたの手を見つめる。
「大丈夫だよ。全然平気、今度はうまくやるよ」あなたは、あたしの視線に気付いて言った。
「どうしてこんなことをしているの」
「失敗したのを君に見られたから」あなたは、真面目に答える。
「それであたしに見せようとしたの」
「いや、君は随分前に、ここから居なくなったから、自分自身のためだね。
僕は池超えが出来るって、自信にしたいんだ」
「でもあたしは、あなたがこんなことしても喜ばないわよ。むしろ、止めて欲しい」あなたは、こんなことのために、ここに留まっている。
あなたがかわいそうで、必死で何とかここから解放させたいと思った。
「どうして、君は池を越える奴を見て、喜んでいたじゃないか」
「あたしのためにやっているの」
「・・・・・」あなたは答えない。
でも、顔がそうだと言っている。
「それなら止めて、お願い」
「君がそう言うなら止めるよ」あなたは、仕方なさそうに言った。
あなたは、ここで何年も池超えをやり続けてきた。
その努力を、あたしは水の泡にした。
それについては多少かわいそうな気もするけれど、でもそれで良かったんだと、あたしは自分に言い聞かせる。
とりあえず、あなたを救ったという気持ちを持とうとした。
あなたは、吹っ切ったように伸びをすると、池の横にあるベンチに座った。
あたしもその横に座る。
「それで、何回くらい成功したの」あたしは、何となく聞いてみた。
「一度も。君に逢って初めて服を濡らさずに済んだ。もっとも、君の助けが無かったら、失敗していたけれどね」あたしは目をむいた。
そして、つくづく止めさせて良かったと思った。
「でも、君がここにやってくるなんて、思ってもみなかった。神様も、全くの無慈悲でもないんだね」あなたは、嬉しそうに笑った。
「あたしはここに来る途中、高校生のあなたに出会ったわ」
「そう、どうせ変わり映えしないことをやっているんだろう」
「本当に、その通りだった」あたしは肩をすくめて、軽く笑った。
そしてあなたを見る。
あなたは笑っていない。
あたしの視線に気付くと、ゆっくり視線をずらして、悲しそうに遠くの空の海を見つめた。
「ごめんなさい」あたしは、思わず謝ってしまった。
「どうして、君が謝るの」
「あっ、いえ、どうしてかあたしにも分からないんだけれど」
「でも僕は、君にお礼をしなければならないね」
「どうして」
「僕に逢いに来てくれて、ありがとうって」あなたの目が優しい。
星稜の丘で出会ったあなたと同じ目。
あたしは、この目に見つめられていたのね。
それに気付かなかった自分が、あたしには悔しかった。
その時、遠くの夜の海をバスが走って来た。
あたしは、ここを出ていかなければならないと思う。
「あたし、行かなくちゃ」あたしは、あなたに言う。
「どうして?」あなたは、驚いたようにあたしを見つめる。
「あのバスに、乗らなくちゃいけないの」
「どうしても?」あなたの訴えかけるような顔が、あたしには辛い。
「うん、どうしても」あたしは、ベンチから立ち上がる。
「僕は、君のことが好きだ」あなたは立ち上がって言う。
そんなことは、分かっていた。
分かり過ぎるほどに。
そして、あたしの発した言葉は、
「ありがとう」という言葉だけだった。
その言葉だけで、あなたは全てを察してくれた。
「バス停まで送っていくよ」あたしは、小さくうなづいた。
バス停まで来ると、ちょうどバスが音もなくバス停に入ってくるところだった。
「それじゃあ」あたしは、あなたにむかって手を上げて、軽く首をすくめる。
「それじゃあ」あなたも軽く手を上げる。
あたしはバスに乗る。
そして、音もなくバスが発車する。
あたしは、あなたの見える窓側で、あなたに手を振る。
あなたも、いつまでも手を振ってくれている。
星稜の丘で言われた通りなら、銀杏池にはもう行かれない。
あたしは、いつまでも手を振った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます