第2話  星稜

星稜、それはあたしの高校の中庭にある像の名前だ。

あたしは急いで、バスの外を見る。

するとそこには、夜の闇の中に、大きな丘がぷっかり浮いている。

そこだけが昼のように明るくて。

夜の闇とのコントラストで、さらに明るく見える。

そしてそこからちょっと離れたところに、やはりぷっかりバス停だけが浮いている。

バスは音もなくそのバス停に止まると、バスはドアを開けた。

あたしは降りてみる。

するとバスは、また音もなく走り出して行った。

バスの後ろ姿も、まるで夜の海に浮かんで見える。

星稜の丘は、ちょうどバス通り一本分の夜の海を隔てたところに浮かんでいた。

まるで、宇宙空間に浮かんでいるようだ。

丘とバス停の間なので、足を踏み入れたらそのままどことも知れない、夜の底に落ちてゆくんじゃないかと思えて仕方がない。

それでも、気がつくとあたしはその夜の川に足を踏み入れた。

足がくるぶしくらいまで沈んで止まる。

その度に、水しぶきの代わりに星粒が舞う。

丘には、遅刻坂と言うコンクリートの坂道があり、あたしはそこを登ってゆく。

短い草が丘全体に生えている。

裸足になったら、とても気持ちがいいだろうなと思った。

丘の周りは夜の空間で、丘の上は昼間のように明るいけれど、空には星が見える。


あたしはこの星稜の丘を歩いて回った。

こんな風景は見たことがない。

でも不思議、ここがとても懐かしく感じられる。

まるで家に帰って来たみたい。

そう、ここはあたしの高校のはずだから。

 

しばらくすると、誰かが座っていることに気付く。

男の子?

誰あなたは、と言おうとして言葉を飲み込んだ。

知っている、あたしはこの人を知っている。

膝を抱えて草原に座っている。

ピクッと動くと、あたしに気付いたようにゆっくり立ち上がり、あたしの方を振り向いた。

知っている、あなたのことを、あたしは知っている。

でも、名前が出てこない。

あなたは驚いたように、あたしを見つめる。

「・・・・・・さん」良く聞き取れなかった。

でも、あなたはあたしの名前を言った。

そう、なぜだかそれだけは分かる。

あたしはゆっくりとうなづく。

あなたは、嬉しそうに微笑んだ。

まってこの感覚、どこかで感じたことがある。

いつも無意識のうちに感じていた。

それでいて、決して不快なものではないこの感覚。

「あなたはさっき、住宅街のT字路であたしを見つめていたでしょう」

あなたは歯にかんだように、首をすくめると優しくうなづいた。

「どうして、どうして声を掛けてくれなかったの」

「君が、どこにいるか分からなかったから。

きっとそこで、君が僕の視線を感じたなら、それは僕が君に逢いたいって気持ちが伝わったことだよ」

「たしかに、路地には誰もいなかったわ」

「僕は、いつもここにいた」あなたは寂しそうに言う。

「どうして、あなたがこの星稜の丘にいるの」そんなことは分かっていた。

でも、敢えてあたしはその質問をあなたにしてみた。

「君のことが好きだったから」

「・・・・・」あたしは何も言えなかった。

「僕がこの星稜の丘にやってきたのは、まだ君が高校生の頃だった。

そのころは、まだこの丘は大きな木や草がいっぱい繁っていて、いつでも君を僕から隠していた。

僕は木の陰から、君を見つめてきた。

でも、やがて君は手をまっすぐ頭の上に向けて、星を掴もうとして、どこかの星を掴んでこの丘を出て行ってしまった。

僕は、君の掴んだ星がどれなのか分からなくて。

だから君が最後にいたこの丘で、君を感じるしかなかったんだ」

「それじゃあ、あなたはずっとここにいたの」

「そうだよ、少なくとも僕の君への『想い』は、ここから動いていない」

「あたしが帰ってくるのを、待っていたの」

「いや、もう君はここには帰ってこないと思っていた。でもなぜか君はここにいる。不思議だね」と言って、またあなたは微笑んだ。

そしてあなたは、あたしの手を取って、草の上に座ろうとする。

あたしは、あなたに従う。

「あなたは、全然変わらないのね」あたしが言うと、あなたは面白そうにあたしの顔を覗き込んで笑った。

「君だって変わっていないよ。高校の制服を着ているくらいだもの」そう言われて思い出した。

あたしは高校生になっているんだ。

「君がいなくなってからね、この丘は僕にとても優しくなった。

昔は大きな木だけじゃなく、ゴツゴツした岩まであって、君を探すのも一苦労で、見つけても、あとが追えないんだ。

ところが、君がいなくなったことが分かった途端、こんなに綺麗で気持ち良い草原になっちゃった」

そんなあなたの言葉を考えてみる。

あたしはこの丘を見たことはない。

ただ、ここがあたしの高校であることが分かるだけ。

あの時も居心地が悪い場所ではなかった。

「でも、あたしにとってここは、気持ちが良い所だったわよ」

「それじゃあ、僕にだけに意地悪していたのかな」

「そうかもね」と言って、あたしは笑った。

あなたも少し微笑んだ。

「いつも僕は、君のフルートを聴きにここに来ていた。でも、君のフルートはなかなか聴けなかった。フルートが聴きたいな。僕のためにだけ吹いてほしい」そうあなたは言う。

だから、あたしはすぐにそれに応じた。

あたしは、持っていたケースを開けると、フルートをつなげた。

そして立ち上がる。

「それじゃあ、吹くわね」そう言って、吹き始めた。

でも、上手に吹けない。

確かに、大学ではクラブには入らなかったけれど、少しは吹いていたし、社会人になってからだって少しは。そして、あたしは一つのことに気付いた。

今のあたしは高校生なのだ。

でも、あなたは嬉しそうに聴いてくれる。

あたしのフルートが、人に喜んでもらえることが嬉しかった。

 随分長い間そんな時間が続き、あたしがフルートから口を離すと、あなたは力いっぱい拍手してくれた。

「あたし、フルートを吹いて、こんなに拍手してもらったのは初めてよ」

「そんなことはないよ、僕はいつでも君のためにだけに力いっぱい拍手をしていたよ」

「本当に」あたしはなんだか嬉しくなって、あなたに聞き返した。

「もちろん」あなたは、力いっぱいうなづいてくれる。


夜の海の遠くの方に、何かが浮かんでいる。

バスだ、途端、あたしはあれに乗らなければならないと、思い出す。

「あたし行かなくちゃあ」あなたの顔が少し曇った。

「もう行っちゃうの」

「また来るわ」あたしは明るく言った。

「いや、君はもうこの星稜の丘にやって来ることはないよ」あなたは寂しそうに言う。

あたしはそれがどうしてなのか分からない。

「どうして、あたしはまた、ここに来たいわ」

「君は、本当はここに来れない人なんだ。なのに君はここにいる、きっと君はもうここには来れない。だからいつまでも僕とここにいよう」

「それはだめ」あたしは首を振る。

「どうして」

「どうしてだかは分からないけれど、あたしはここにばかりは居られないの」あたしはゆっくり遅刻坂のほうに向かって行く。

あなたはあたしの横を歩いている。

あなたがあたしを見つめる目は、あたしの心に突き刺さる。

どうして、あたしはこの視線に気付かなかったのだろうと考える。

「それじゃあ」あたしはあなたに向かって、手を上げて軽く首をすくめる。

そう、これがいつものあなたに逢ったときの挨拶のしかた。

「じゃあね」あなたも手を上げる。

そしてあたしは振り向くと、遅刻坂を小走りで下っていった。

夜の川では、来たとき以上の星があたしの足元で舞った。

バス停で初めて丘の方を見うると、あなたは遅刻坂の上から手を振っている。

あたしも手を振った。

そして、あたし達の間に音もなくバスが入って来る。

あたしはバスに乗ると、すぐに窓に張り付いて、あなたを見つめる。

あなたは、まだ手を振っている。

あなたが、こんなにあたしのことを好きでいてくれたことが、嬉しくもあり、申し訳ないような感じもした。

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