第1話 新しい生活

「ありがとうございましたー。」


引っ越し業者が家を去ると俺は新しいアパートの部屋の一室を見回す。


今日は新居への入居日だ。


窓から見える澄み渡る青空に、見慣れない景色。


俺は新たなる生活に胸を高鳴らせていた。


しかしその理由は大学生が人生初の一人暮らしを始めるからなどという類のものとは少し違う。


ついに都会の喧騒、人々の視線から離れることができるのだ!


念願が叶った。


マネージャーや事務所に話をつけるのに少し苦労したが、楽曲を制作するだけならどこに住んでいても変わらないということで隠居の許可を得ることに成功した。


俺が引っ越してきたのは田舎にある小さな町。


多くの人は俺のことを知らないだろう。


もちろん、現代はインターネットが普及しているので、若い人は俺のことを知っているかもしれないが、東京に比べればだいぶ視線を浴びる機会は少ないと思われる。


仮に彼らが俺のことを知っていてもこんな田舎町にいるとは思わないだろうしな。


家を買うのではなく、アパートの一室を借りたのにも理由がある。


察しのいい人はもうわかっていると思うが、理由は至って単純、目立たないようにするためだ。


金はそれなりに貯めているので、家を買おうと思えばそれなりのものを買えるとは思うが、いきなり田舎町に巨大な家が建ったら目立って仕方ないだろう。


以前住んでいた東京の高級マンションの部屋に比べれば、部屋の中は汚いが、全く住めないというほどではない。


以前に貴族のような生活をしていたのなら別かもしれないが、実家は金持ちというわけでもなかったのでこれくらいは許容範囲だ。


慣れれば快適になるだろう。


しかし一つ気がかりなのは引っ越し業者に俺の存在がバレていなかったかどうかということだ。


マスクとサングラスで顔のほとんどを覆い隠していたのでおそらく大丈夫だったと思うが。。。


格好的に明らかに不審者だったのは認めよう。


だがもし住所がバレたらせっかく引っ越した意味がなくなってしまうのだ。住所を隠し通すためなら不審者になるのも致し方ない。


俺は部屋を整理を終えると、フローリングの床に力なく横たわった。


ああ、疲れたな。


引っ越しってこんなに疲れるものなのか。


いや、俺の場合は精神的に安堵したことによって疲れがどっときただけかもしれない。


そこからそれは数分寝転がっていたが、ただ寝転ぶのも退屈になってきた。


暇だな。


何かしたいな。


何をしよう。


持っていきた漫画でも読もうか。いや、ダンボールから出すのが面倒だ。棚をまず買う必要があるな。


書きかけの曲の続きを作ろうか。いや、そんなモチベーションはない。


....


ギターでも弾くか。


私は頭の斜め上に置いてあったアコースティックギターを寝転びながら掴み、ポロポロと弾き始めた。


特に特定の曲を弾くわけでもなく、手に染み付いている感覚だけで適当なフレーズを弾く。


これが意外にも楽しい。


少しそれを続けていると一緒に歌を歌いたくなってきた。


しかし、ここは平凡なアパートの一室だ。普通に歌っては苦情が来てしまうだろう。


仕方なく俺はギターを弾きながら小声で歌を歌う。


だがしばらくして気づく。


これではほとんどヒソヒソ声だ。消化不良感が否めない。


どこか普通に歌を歌える場所はないだろうか。


だが多くは思いつかない。カラオケに行けばもちろん歌えるだろうが、なんとなく行きにくい。


外で歌うことを諦めかけた時、広い河川敷がアパートから少し離れたところにあるのを思い出した。あそこなら大丈夫かもしれない。


俺はマスクつけ、帽子をかぶり、サングラスをかけ、地味な色のカジュアルなシャツとハーフパンツで家を出た。


すでに夕方になっていたのであたりは薄暗くなっていたが、夜ほど暗いというわけではなかった。


歩いて10分ほどかけて河川敷に着いた。


その河川敷はよく漫画などで見る普通の河川敷といった感じだが、道路から下に伸びる短い緑の雑草で覆われた斜面が何かを口ずさむのにちょうど良さそうだった。


俺は斜面に腰を下ろし、一息つく。


そのままぼーっとしていたが、やがて俺は歌を口ずさみ始めた。


心のしこりが溶けていくようだ。


やはり歌を歌うのは気持ちがいい。


しかもここはアパートではないのでそこまで声の大きさを気にする必要もない。


周りにもほとんども人はいないし、これからここに来るひともほとんどいないだろう。


俺はそれから20分ほど気持ちよく歌っていた。


個人的に好きなアーティストや俺が昔聴いていた洋楽などを数曲歌った。


自分の曲は下手したら自分が本人だとバレてしまうので歌わなかった。


そもそもあまり歌いたくなかったが。


あたりも少しづつ暗くなってきていたのでそろそろ帰ろうかという時、


なぜか後方から拍手が聞こえた。


パチパチパチパチ。


え?


俺はわけがわからず咄嗟に後ろを振り向く。


子供かなんかだと思ったが、そこにいたのはだらりと座っている若い女性だった。


彼女がニヤリと笑って口を開く。


「お兄さん、歌うまいね。」


俺は固まってしまった。














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