飛散水板

梅木仁蜂

冒頭はエ◯ァネタです

 引っ越し一日目で、某第三の少年が言ったように、風呂というのは考え事をせざるを得ない場所である。私も、風呂でくどいくらい考え事をしてしまった。まあ、湯船ではなく、単に浴室で、なのだけれど。

 惣流だったら状況ぴったしだったな。引用間違ってら。


 ともかく、これは文章に書き出さねばならないという、考え事をしたのだ。

 悔しいことに、シャワーを浴びていた瞬間が一番思考に没頭していて、書くときにはそれらが霧散しかけているのだが。


 ぬるま湯に打たれつつ、私は私の性格を断定しなければと考えていた。結果、私は、壁のシミを大太郎法師だいだらぼっちに変身させる性格の持ち主だと推測できた。

 殺虫剤をかけるどころではない。シミを見て、頭を守るのである。

 私は、小さな情報に推測という名の妄想を付加し、必要以上に怯えることが多いのだ。既に私の小説をお読みの方には、納得できる話だろう。

 『じんしん』も、『They couldn't move on』も、作中で提示される具体的情報が少なく、妄想で間を埋めているところがある。作者の性格がそのまま表れた作品だ。

 無論、作者自身の知識や経験の不足という、普遍的な欠陥も含まれる作品だが、幾ら経験値を積んでも、本文に活かせないのでは、と不安を覚えているのが現状だ。

 だって、まだ積んでないんだから。積んだあとどうなるかなんて、推測しかできない。

 その推測を「積んでも活かせない」と決めつけるのが、性格の断定作業である。


 正直、虚しい。自分の性格であれ好みであれ、何かを断定することは、その判断から外れないよう、自然と自分の行動や思考の制限を招いてしまうものだ。

 しかし、断定作業をする前から、私は、新作のネタ出しで情報量を軽くすることが多かった。シミ→大太郎に関しては、信用していい決定事項である。


 追記すべきことは、このシミ→大太郎という思考の癖は、大太郎がシミに戻ることもあるという可逆性を持つことだ。

 これに関しては、他人や事物を対象にするより、私自身の表面上の変化が参考になる。いや、顔も知らない書き手ユーザーのパブリックイメージの変化など知らんという話ではあるが、他人の人生を覗き見せざるを得ないエッセイというコンテンツにおいて、覗き見したくないと言われても困るわけで。

 私は小学生の頃は息継ぎを知らないほどのお喋りだったのだが、中高一貫校に属して以降、沈黙したまま一日を終えることが多くなった。見る人が見れば、鼻で笑いつつ驚いてしまう変化である。

 いや、ぜってー笑うよ。頭残念なのなって。

 息継ぎを知らないほど、という表現は殆ど事実に近いし、無口時代は本当に、授業で名指しでもされなければ口を閉ざし、友達との会話も頷きはするが、「うん」と音声による相槌はしなかった。

 要するに、状況に合わせてバランスを取ることができず、一度そう決断したら、極限まで到達しようとするのである。

 しようとする、ということは、到達はしていないけれども、大きく移動しがちではあるのだ。

 友達というのは話せば話すだけ良い関係に転じると思っていたし――そんな単純な話はない――、それで失敗したから、何も喋らないほうがいい、絶対に喋りたくないとさえ思った。

 無口時代はまだ続いている。家族やネットの人と話すときはお喋りな私だが、大学ではフランス語の授業を除き、相槌以外口にしない徹底ぶりだ。

 黙りすぎて、黙っていることが私のアイデンティティになりそうである。

 自分の意見が誰かに対する当てつけになっていやしないか、他人が知りたくもない自分の情報を吐露してはいないか。色々考えた結果、言おうとした言葉を断捨離しているので、どこかで考えすぎたのだろう。苦手な言葉は「ちょうどいい」。おめーの判断は全然ちょうど良くねーよ、梅木。


 ところで、ここまで自分語りをしておいて恐縮だが、私はこの文面から感じられるほど落ち込んでいない。言語化した瞬間、自分の性格に思い悩む状態から離脱しつつある。

 ひょっとすると、何かの拍子にまた、断定された自分の性格に対し、唾を吐いてしまうのだろうが、少なくとも今、暗闇を脱しているのは確かだ。


 独りよがりな書き手だと承知の上で書くと、私は、こうして自分を説明することで、性格の軌道修正を図っている。


 というのも、ここ最近、あるルールが私の脳味噌を支配しているのだ。

 言葉は口にすればするほど、発言者の本心から遠ざかっていく。それならば、現実において存続させたい状態や事物ほど、口にしないほうがいいのではないか、というルールだ。


 またまた、無口に磨きをかける普遍的な理屈に飛びついたのである。世の中は複数のルールによって稼働してるっつーのに、このガキは!

 しかし、書き手ユーザーでもそうでない人でも、この現象には頷けるだろう。

 私は悲しいんです、と説明した瞬間、自分自身に感じる嘘臭さ。呆れ。恥ずかしさ。表現の幼さへの劣等感。あるいは、迂遠さへの嫌みったらしさ。

 平易で分かりやすい文章ほど読まれるらしいとかそうでもないとか、そんなWEB小説界隈において、私の脳味噌を揺さぶったこのルールは大変身勝手だ。


 このルールは自創作にもじわじわ適用されており、当然、ルールの弱点も理解しているつもりだ。それは、発言者は心地良くても、受け手は不快になりかねないというものだ。

 思い出してもみてほしい。『じんしん』では主にアキヒコが、『They couldn't move on』では「私」が、殆ど無意味なほどに、他人や周囲の事物に対し、批判的かつ排他的な思考を吐露して、読者様にお届けしている。

 あれは、登場人物の自覚していない本心に、他人を通して見た自分への批判、自分こそを社会からポイ捨てするべきという思考が存在していることの表れだ。


 しかし、そんなモーニングスター精神を暗喩されたところで、ジレンマを楽しめない方には痛々しく感じられるし、文字通りに嚥下えんげしてしまうと、凄まじい不快感と疲労を与えかねない。やってることが幼いと笑う方もいるだろう。


 本心を吐露しないほうが発言者には心地良いのだが、かといって、不快な嘘を聞かされる聞き手は、たまったものではない。これが俗に言う、言霊だ。

 発言者も、言葉を口にした直後は苦痛を回避できるかも分からないが、いざ自分の発言をmp3なり小説なりで振り返ったとき、パンチを食らいかねない。誠に自業自得だけれど、そんな形で自分を傷つけることもある。

 一方で、前向きな言葉を使っていると、脳味噌から楽観論が逃げ出してしまうこともあった。脳から現実へ、コピペではなく、Shift+ドロップだ。


 結論は出ない。人語を話す限り、このジレンマから逃れることはできないのだろう。

 それが、シャワーを浴びてから現時刻まで、出力によって思考をずらしつつ、考えていたことだ。

 最後の一文は、ルールに則り、本心とのすれ違いを期待しよう。


 人は胎内から出て、世界っていう鉄の処女から脱出すんだよなー、死んだ状態で!

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飛散水板 梅木仁蜂 @Umeki2hachi

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