条件

 長い沈黙を破り突如として動き出した妙。

 人の形をした靄は道行くサラリーマンたちを手当たり次第に襲う。

「やめろ! だ、だれか助けて!」

「なんだ!? 何も見えねぇ!」

 ビジネス街が一瞬にして混乱の渦に巻き込まれても鴨原だけは冷静だった。

「なにボーっとしてるんですか! 助けに行きましょう!」

「まず我々がすべきは情報を整理することだ」

「そんな悠長な──」

「動き出さなかった三週間と今、何が違うかを冷静に見極める。感情に身を任せて救助に走れば、掴むことが出来た証拠が掌からこぼれ落ちてしまう。ナツキ君、ここは耐えるんだ」


 日付、時間、気温、天気、襲われた人物の特徴、妙の動き、攻撃方法、周囲の会話、細かい点まで片っ端からメモしていく。

 情報のインプットに励んでいると、喫茶店の扉をすり抜けて妙が店内に侵入してきた。


 ナツキは紙ナプキン立ての裏に隠れ、鴨原も一旦メモの手を止める。

 しかしテーブルの前で停滞していた妙は何もせずスルーしていった。

「ヤバい雰囲気でも感じたんですかね」

「いや、我々が対象者の条件に当てはまらなかった──こう推測するのが自然だろう」


 店内を徘徊する妙は逃げていく客たちを襲おうとはしない。

「もしや、あの妙の正体は『サラリーマン狙い』では!?」

「確かに狙われているのはサラリーマンが多い。だがビジネス街という点を考慮すれば被害者が偏るのもあり得る。第一そんな言葉聞いたことがない」


 妙はレジカウンターの裏に身を潜めていたウェイトレスを発見して襲い掛かった。

「女性を狙うとは卑怯な……正義のドーナツが成敗してやる!」

「ナツキ君!」

「先生もいつまで休憩してるんですか! 3時のおやつは終わりですよ!」

 テーブルを跳ねたナツキは妙に向かって渾身の体当たりを披露するも、靄を突き抜けて壁に激突してしまう。


 ナツキのことは一先ずおいて、悲鳴を頼りに妙に取り込まれたウェイトレスを救出する。

「あ、ありがとうございます……!」

「怪我はありませんか?」

「はい。今のところは……」

 外傷がなくても黒い靄を吸い込んだ事実がある限り安心はできない。

 只の靄や遅効性の毒、他にも様々な可能性が考えられたが、この場で説明している暇はないと迫りくる妙からウェイトレスを離す。

 幸い妙は鈍足で、攻撃を回避することは難しくない。

「すぐに病院を受診することをお勧めします」

「わ、わかりました」

 ウェイトレスは店長に付き添われて喫茶店を後にした。


 対象を失った妙は、恨みをぶつけるように鴨原に襲い掛かる。

「うしろー!!」

 その存在に気付きながら、鴨原は危険を承知で妙を受け入れた。

 全身を包まれても特別な息苦しさは感じない。体感温度も変わらず、唯一の変化は視界を奪われている点。

「鴨原さん!? 鴨原さん!?!? 鴨原さーーーん!!!」

 呪文を唱えるように名前を呼び続けるナツキを安心させようと脱出した。

「大丈夫だ。恐らくこの妙の中にいても人体に影響はないと思う。いや、思いたいが正しいな」

「そんな細かいことはどっちでもいいんですよ! とにかくここから逃げましょう!」

 ドーナツとは思えない力でグイグイと鴨原の踵を押す。


 喫茶店を脱出した二人だったが、通りはもっと悲惨なことになっていた。

 どんどん増える妙に取り込まれていくサラリーマンたち。ビジネスバッグを振り回して対抗するが、本体が靄なので少し形を変えただけですぐに元通り。

 阿鼻叫喚が伝染して妙に襲われていない人もパニックに陥っている。

「落ち着いてー! みなさん落ち着いて下さーーーい!!」

「キャァァッ!! ドーナツが喋ったぁぁ!!」

「化け物だぁぁ!!!!」

 脱兎の如く逃げ出していく人々を「大丈夫だから、焦らないでー!」と追いかけまわすナツキ。

「君が混乱させてどうする」

 胸ポケットの定位置にナツキを戻した鴨原は、「大丈夫です、焦らないでください」と冷静な声かけでサラリーマンたちを避難させる。

「うぅ……ナツキちゃんの時は逃げたのに。ここでもドーナツ差別が横行しているなんて悔しいです」

 ナツキを無視してサラリーマンたちに症状を聞いて回るも、体調不良を訴えた者は一人としていなかった。


 ゾンビのような歩みの遅さ、人体に害がないと分かると時間の経過に連れて混乱は徐々に収まっていく。

 取引先に謝罪の電話を入れるサラリーマン、笑いながら動画撮影する若者。

 妙は恐怖から蔑視の対象へと変わっていた。

「なんだか可哀そうですね」

 石を投げられる姿を不憫に思ったナツキが、ポケットから半分体を出した状態でポツリと呟く。


「人間と妙が共存することは難しい。妙の主張を読み取り昇華させることが私の役目だが、傍から見ればそんなことせずにさっさと退治して欲しいというのが本音だろう」

「鴨原さん……」

「冬将軍だって話し合う余地があったかもしれない。私が未熟だっただけに強硬手段を選ばざるを得なかった」

「鴨原さーーん!」

「……なんだい」

「さっきから呼んでるじゃないですか」

「今のは名前を呼んでるというより、寄り添いの──止めよう。ナツキ君に説明するだけ無駄だ」

「なんだか不本意ですが、これを見てください」

 胸ポケットの中で器用にスマホを扱い、呟きアプリの画面を表示させる。

「なるほど。ここだけの話ではなく全国で一斉に動き出したようだね。目くらまし以外に被害報告はなし……ナツキ君の意見は?」

「まったくわかりません!」

「ありがとう」

「これからどうしましょう。深刻な被害がないなら仕事を切り上げても──」

「我々は動き出した瞬間のことを知らない。ナツキ君はネットで、私は直接足を使って聞き込みを行う」

「……はい」


 それから数時間、鴨原とナツキは妙の情報を集め続けた。

「7月29日の15時。気温30℃、湿度58%、降水量0。被害にあったサラリーマンの話によると普通に歩いていただけ。これは目撃情報とも一致している」

「ネットではおもしろいことが分かりました。被害者は20代以上の男女で、小中学生に至ってはだーれも襲われてないみたいです」

「やはり何かしらの条件が存在するのか……」

 鴨原は腕組みをして考え込む。


 妙の声に耳を澄まして彼等の訴えをくみ取ろうとする。

 この状態の鴨原に何を言っても無駄だと知っているナツキは、街路樹の木陰を借りて天啓が降りるのを待ち続けた。

「アリさん、こないで!」

 どんなにドーナツを噛まれようが、有事の際に助けに行けるよう鴨原を視界に捉えておく。

「ナツキちゃんの苦労を理解してくれるかな~」

 助手の思いなど知る由もない鴨原の背後に、妙が忍び寄る。

「うしろー!!」

 鴨原は軽く手を上げて反応すると、そのまま妙に飲まれていった。

「もぉー無害かもわからないのに……」

 動かなくなった鴨原を心配して様子を見に行く。

「生きてますかぁ?」

「ああ、平気だ」

 鴨原は妙の中で応える。

「正体がおおよそ判明した」

「ガチですか!?」

「ガチだが確証を得るには少し時間が必要になる。今日はこれで終わりにしよう」

 と言って靄の外に出ると、妙は鴨原を追ってこなかった。

「あまりにも無反応だから冷めてるじゃないですか」

「それでいいさ」

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