一時の別れ

 初めに波の音があった。次に濡れた服が纏わりつく気持ち悪さ、寒さを自覚する。

(風邪でも引いたか……?)

 半分夢の中にいるような意識の中、バルコーは遠い記憶を思い出す。それはかつて、歩くことすらままならないほどの高熱を出した時だ。

 前世のバルコーには妹がいた。彼女は朝早くに仕事に出た両親に代わり、自分が学校を休んでまで彼の看病をしてくれたのだった。

「翡翠……」

 ゆっくりと目を開けると、曇天が広がっていた。そこでようやく彼は、自分がバルコーであることを思い出す。

(そうだ! 俺――)

「っつぅ……!」

 勢いよく上半身を起こすと、脇腹に激痛が、体の奥には疼痛が生じた。心なしか、息苦しさも感じる。ずっと握っていたらしいクサナギの柄から手が離れ、砂浜に突き刺さった。

(腹は、あの時か。肺には水でも入ったか? ……いや、外から強い衝撃でも受けたみたいだ……)

 胸に手を当てると鈍い痛みが走ったことから、バルコーは自身が受けた傷について推測する。

(自動回復がなかったら、そのまま死んでたかもな)

「『リカバー』」

 魔法での治療を終えたバルコーは、クサナギを引き抜いて鞘に納めると、ゆっくりと立ち上がる。

 そこは小さな島の砂浜だった。海抜十メートル程度の丘を中心に浅瀬が広がっている。

 歩いていける場所の探索はすぐに終わり、周りに他の島はないこと、ここにいるのが自分だけだということが分かった。

「……オニマル……」

 呟きに、返事は返ってこない。下を向くバルコーの拳から血が流れた。

(俺はまた、守れなかったのか……!)

 思い出すのは、パーズを斬ったこと。そして、この世界の妹である、サフィアを守れなかったことだ。

(今の俺に制約はないっていうのに……クソっ……!)

 打ちひしがれるバルコーの足元に、水滴が落ちる。彼は血の付いた手で目元を拭った。

(……ミヨリさんに謝らないと。そう言えば、シナリオはどうなったんだ? ローゼビスタは? ヤクモさんとミヨリさんは無事なのか?)

 自分が気を失っている間に何が起きたのか。それを知るためにも一刻も早くセブンブリッジに戻ろうとするバルコーは、不意に遠くの気配を感知した。

(なんだ? ローゼビスタ程じゃないけど、強い気配を感じる……でも……)

 バルコーが覚えた違和感は、その距離によるものだ。感じ取れる気配は、目視できる範囲の、更に向こうからやってきていた。

(タコだかイカだかの魔物と戦ったことで多少なりとも成長したとしても、この感知距離はおかしい。向こうが何か、俺に感知できる信号か何かを発しているのか?)

 暫く疑問を持て余していたバルコーだったが、考えた末、自分も近づくことにした。軽く体を動かして特に問題がないことを確認すると海に入り、顔を出したままバタ足で進んでいく。魔力にはまだ余裕があったが、何が待ち受けているか分からない彼は慎重になっていた。

 やがて、彼の視界に海に浮かぶ何かが映った。よくよく見ると、それは小舟のようだ。帆も何もない、間違っても外洋になど出られない木の船は、さながら玩具のように見えた。

 しかしその船は波に揺らされながらも、真っすぐバルコーの方へと近づいてくる。彼もまた、あの船から気配が伝わってくるのを感じていた。

(ムシクたちだったら面倒だな……)

 そんなことを考えた矢先、小舟に座っていた何者かが立ち上がる。

「師匠!」

「ミヨリさん!?」

 どうしてここに。そう考えるより先に、バルコーは足から魔力を放出し、それを推進力として小舟との距離を縮める。バルコーの接近に気づいた小舟は動きを止め、その後ろから気配の主が姿を現した。

「やはりったか、あるじ殿」

「ヤクモさん!」

 何となく予想していたとはいえ、一ヶ月ぶりに見る二人の無事な姿に安堵するバルコー。それはミヨリたちも同じだったようで、緊張が解けた顔は笑みを浮かべているのだった。

「……そうか、俺とヤクモさんは契約しているから」

「そういうことじゃ。意識を集中させれば、おおまかな相手の位置が分かるようでの」

 バルコーを小舟に引き上げながら、ヤクモが笑いかける。

「しかし随分と遠くにったものじゃのう? あるじ殿」

「ごめん。色々……あってさ」

 バルコーは目を逸らして、沈んだ声を出した。

「なに、謝ることは無い。こうして生きて戻ってきてくれたのじゃからな」

「………………」

「さて、陸に戻るとするかの。ミヨリ、案内は頼むぞ」

「あ、うん」

 主人が塞ぎ込む理由に心当たりのあるヤクモは、気づかない振りをして船を降りると、泳いで小舟を押し始めた。魔力を身体強化に使っているようで、二人を乗せた小舟は波の中をすいすいと進んでいく。

 船の上は二人きりになった。バルコーはおもむろに、向かい合って座るミヨリに対して頭を下げる。

「……ごめん、ミヨリさん……!」

「……オニマルのこと、ですよね」

 オニマルの契約者であるミヨリは、その消失についても既に知っていた。彼女の問いに、バルコーは頷きで答える。

「頭を上げてください、バルコーさん。あの子も、こうなることだってあると覚悟していたはずです」

「だけどっ! オニマルは、俺を庇って……!」

「だったら尚更、謝罪なんてしないでください。オニマルは自分の命を賭して、師匠を助けたんです。その行動を師匠が認めなかったら、オニマルは……」

「…………ごめん」

 二人の間に沈黙が降りる。ヤクモも口を出そうとはしなかった。

 暫くして、ミヨリが口を開く。

「師匠、そんなに気を落とさないでください。オニマルも、まだ死んでしまったわけではないのですから」

「……だけど、もう俺たちのことも、ミヨリさんのことも忘れてしまったんだろ?」

「え?」

 バルコーの言葉に、ミヨリは首を傾げた。

「依り代が無くなれば、契約してからの記憶は消えてしまう。俺たちの知っているオニマルは、もう……」

「待ってください師匠。もしかして、契約が切れてしまったって思ってます?」

「え?」

 今度はバルコーが首を傾げる番だった。ミヨリは戸惑いがちに言葉を続ける。

「オニマルは確かに大怪我をしたみたいですけど、依り代が壊れるには至ってません。異界で休んでいるだけです」

「じゃ、じゃあまだ呼び出せるのか!?」

「それは……」

 再び口をつぐむミヨリ。バルコーは今すぐにでも追及したい気持ちだったが、ぐっと抑えて彼女を待つ。

「……呼び出そうとしても、反応がないんです。怪我がとても大きくて、意識を失っているのかもしれません。でも、いつか絶対、また召喚に応えてくれるはずです!」

 ミヨリは自分に言い聞かせるように強く断言する。どうやら最悪の事態には至らなかったらしい。しかしいつその時が訪れてもおかしくない状況のようだ。バルコーは表情を曇らせたまま、首を横に振る。

「いや、このままじゃ駄目だ。回復する可能性もあるけど、その逆も十分あり得る」

「……っ、そんなこと、分かってます! でも異界は広くて、キュウビでもどうしようもなくて……もう祈るしか、ないじゃないですかっ!」

「いいや、まだできることはある」

「え……?」

 静かな、しかし確かな根拠の存在を感じさせる言葉に、ミヨリはすがるような視線を向ける。本当にそんなものがあるのか? 声に出ない疑問に対し、バルコーは首肯した。

「俺たちが異界に行くんだ。ミヨリさんならオニマルの居場所が分かるし、今の俺たちなら異界の魔物相手でも戦える。オニマルの限界が来る前に合流して回復させれば」

「待ってください! 確かに、異界と繋がる場所はあります。そこを通れば私たちも異界に行けるはずです。でも異界はこちらの世界と同じくらい広くて、入る場所を間違えたらオニマルの居るところからとても離れた場所に出てしまいます。そもそも私、異界に行ける場所がどこかも分からなくて」

「大丈夫。俺の知っている場所なら、オニマルの近くに出られるはずだ」

「ええっ!? あ、もしかしてそれも、シナリオの……?」

「ああ。異界への道、そこからオニマルがいる場所へのルート、全部頭に入ってる」

 シナリオの後半、ミヨリが仲間になっている場合に起きるイベントに、異界でオニマルやキュウビと出会うというものがある。その内容を知っているバルコーは、自信を持って断言した。

「勿論、ゲームと現実は違う。今までみたいに予想外のことが起きる可能性も十分ある。だけど、何もしないでいるなんて耐えられない。だからっ」

「っ、はい! 私たちでオニマルを助けに行きましょう!」

「その結論、少し待つのじゃ」

 意気込む二人に、冷静な言葉が投げ掛けられる。言葉の主であるヤクモは泳ぎを中断すると、船へと上がった。ミヨリは体を引き、二人の間を空ける。

あるじ殿、お主がオニマルの件で責任を感じておるのは良く分かった。助けに行きたいという気持ちも理解できる。しかしそのかん、マーカスたちの追跡はどうするつもりじゃ? オニマルの救出は、奴等が次のイベントとやらを進める前に終えられるのか?」

「それは……難しいだろうな」

 マーカス隊の次の目的地は、バルコーが向かおうとしている場所とはほぼ正反対だ。次のイベントまで多少の猶予はあるとは言え、『テレポート』などの転移魔法が使えないバルコーたちが移動する時間を考えると、マーカスたちを先回りするどころか、追いつくことすら不可能だった。

「ふむ、ではどうする? オニマルを救いに行くということは、これまでしてきた旅の目的を無視するということじゃ。目を離している間にマーカスがたおれるやもしれぬ。シナリオの犠牲になる者を救えぬ可能性もある。それは理解しておろう?」

「ああ。その上で、オニマルを優先する」

「……この際じゃ。あるじ殿の意見を聞きたい。この世界がシナリオ通りの道を辿ることと、我らの命。この二つから一つ選ぶとしたら、どちらじゃ?」

「ヤクモ! そんな訊き方――」

「いいんだ、ミヨリさん」

 バルコーはミヨリを宥めると、ヤクモと真っ直ぐ、目を合わせた。

「ヤクモさんの言いたいことは分かるよ。ただ人助けをしたいだけならシナリオに拘る必要はない。それでもマーカスを追うのは、マーカスが俺の知り合いだからってだけじゃなくて、シナリオ通りに進行するのが一番、多くの人にとっていいからだ」

 合ってる? 言葉を切って目で尋ねると、ヤクモは頷く。

「そうじゃの。加えて、シナリオを知るあるじ殿であればその犠牲となる者を救うことができるからじゃ。ともあれ、シナリオの崩壊は多数の者に不幸を招くことになる。そうならぬ可能性もあるが、それを知っていて尚、あるじ殿はマーカスを陰ながら助ける道を選んだのじゃ」

 そうじゃろ? 視線での問いに、バルコーは首を縦に振る。

「分かってる。その上で俺は、オニマルの元に行きたい」

「であれば、我を納得させてみよ」

「………………」

 張り詰めた空気の中、ミヨリは心配そうに両者を見る。暫しの間、波の音が大きく響いた。

「……俺は、この世界が好きだ」

 やがておもむろに、バルコーが口を動かす。

「って、これは前にもヤクモさんには言ったっけ?」

「ああ。知っておるとも」

「だよな」

 照れ笑いを浮かべたバルコーは、真面目な表情に戻って続けた。

「だけど俺は、博愛主義者じゃない」

「……ふむ?」

 疑問で先を促すヤクモ。ミヨリもまた、言葉の意味を掴みかねているようで、言葉の続きを待つ。

「つまり、全体としての世界は好きだけど、世界を構成するもの一つ一つが愛しいわけじゃないんだ。悪意のない世界なんてつまらないと思うけど、それは悪い奴が好きってことと同じじゃない。悪人には手を上げるし、襲い掛かってくる魔物はたおす。同じこの世界の存在であっても、俺の中には明確な、区別がある」

「区別……」

 ミヨリは何かを考え込むように俯く。ヤクモは神妙な顔で頷いた。

「そしてその区別は、俺が助けたいと思う相手に対しても行ってる。抵抗はあったけど、いざという時に迷って、誰も助けられないなんてことはごめんだから」

「つまりオニマルは、いや我らは、あるじ殿にとってこの世界よりも優先されると?」

「流石にそこまでじゃないよ。でも、うん、シナリオよりかは優先するかな」

「何故じゃ? 我らが救われたところで、逆にたおれたところで、世界に大きな影響はないじゃろう?」

「ある」

 バルコーの断言に、二人が目を丸くする。

「……どういうことじゃ? 我らはシナリオから解放されたのじゃろう?」

「ああ。だけどその上で、二人は俺に、シナリオの進行に付き合ってくれている。これはとても大きなことだ。今もマーカスを手助けしてくれているし、最悪マーカスが志半ばでたおれたとしても、シナリオの流れを知っている二人なら上手く引き継ぎができるかもしれない」

 続く説明に、ヤクモは眉をひそめた。

「もしシナリオが破綻した時点で、この世界が終わってしまうとしたらどうするのじゃ?」

「その時は……その時だ」

「うーむ、いまいち釈然とせんの。他にこれといった理由はないのか?」

「いや、あるにはあるんだが……その……」

 バルコーは少し迷ってから、視線を逸らして答える。

「……俺が寂しくなる」

「………………」

 ポカンと口を開けていたヤクモは、やがてさらに口を広げて大笑いする。

「ガッハハハハハハ! さびしいか! それは一大事じゃのう」

「……俺は真剣だぞ?」

「分かっておるとも。理解者の存在は得難いものよな。うむうむ、好ましい理由じゃのう」

「ヤクモ……」

 意味ありげな視線を向けられたミヨリは、嬉しいような寂しいような、不思議な気持ちを抱く。

「理解者……そうだな。俺はミヨリさんたちと会うまでずっと、シナリオのことは誰にも話せなかった。強制力が働いてたからな。だからシナリオが終わるまで、ずっと一人なんじゃないかって覚悟してたんだ」

 そこで一度言葉を切ると、バルコーは泣き笑いのような表情を浮かべる。

「でもそうじゃなかった。俺は生きてシナリオから解放されて、更には荒唐無稽な話を信じて、協力までしてくれる仲間にも出会えた。……すごく、すごく嬉しかった」

「………………」

「師匠……」

 感情の発露は少しの間だけだった。彼は目元を拭うと、元の顔に戻る。

「目を離している間にマーカスがたおれる危険性はある。シナリオの犠牲になるキャラクターを救えなくなる可能性もある。それでも俺は、ようやく見つけられた仲間を見捨てるなんてことはできない。だから、ヤクモさん」

「なんじゃ?」

「どうか俺の代わりに、マーカスを追ってくれないか?」

 その言葉を聞いたヤクモは、一瞬驚いた顔をしてから、にやりと笑みを浮かべた。

「成程のう。最初からそのつもりじゃったか」

「ああ。勿論、嫌なら断ってくれて構わない。これは、ただの俺のわがままだから」

「ガッハッハ! 何を今更。断るわけがなかろう。そもそも我は、お主が言い出さなければこちらから提案するつもりじゃったしのう」

「そ、そうだったのか?」

「うむ。故にあるじ殿の意思を確かめたのじゃよ。お主が我らよりマーカスの命を優先するようであれば、我は命に代えても奴を守るつもりじゃった」

「ヤクモ!?」

「バッ……! そんなこと!」

 捨て石になる覚悟の表明に、二人が色めきだつ。ヤクモは落ち着かせるように笑った。

「安心せよ、もうそんなつもりはありはせん。契約者殿がああまで我のことを大切に思ってくれておったのじゃ。どんな手段を使ってでも、あるじ殿の元に戻るとも。じゃから、お主らも、のう?」

「……ああ。必ず、オニマルを連れて戻ってくる!」

「約束、じゃぞ」

 こうして、バルコー一行は一時、二手に分かれて行動することとなった。

 ヤクモは単独、マーカスたちの次の目的地、魔法城塞ヘキサグラウンドに。

 そしてマーカスとミヨリは、オニマルがいる異界への入り口がある、サンヅノ川に。

 現実に翻弄される彼らは、しかし確かな目標を持って、自分の行き先を思い描くのだった。

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