降伏宣言

「………………」

 桟橋に下りたバルコーは、自分の目で見る島の影の大きさに息を呑んだ。

(やっぱり人が収容されている分、ゲームのものよりも大きそうだな。ダンジョンの構造が変わってなければいいんだけど)

 バルコーの生まれ故郷もそうだったが、ゲームでは必要以上に描写されなかった建造物などが、現実では生活様式に合わせて完全に再現されていた。そのため、町や村もバルコーの記憶よりも広いのである。

 下船を終えたバルコーたちを、巨大なトカゲが直立したような魔物、リザードマンが出迎える。鎧と槍を装備した彼らは、さながらこの島の衛兵のようだった。

「リザードマンか。初めて見た」

「中々優秀ですよ。単純で扱いやすいですしね」

「戦術を理解できる頭があれば、もうちっとマシになるんだがな」

「バカなんだよねぇ。いちいち指示しなくちゃ動いてくれないし」

「憂さ晴らしに斬るには丁度いいよね」

「ふざけるな。余計なことを言っていないで、さっさと来い」

 ムシクに急かされ、バルコーらは暗い島の中を歩く。やがて岩肌に面した、巨大な鉄の扉が現れた。左右のランタンに照らされた重厚な扉は、要塞の入り口といった外観だ。

 扉の傍に立つリザードマンが、ムシクに気づいて扉を開ける。ぽっかりと空いた穴の中から、生温い空気と共に、淡い光と微かな金属音が洩れてきた。

「夜なのに人間たちを働かせているのか?」

「奴隷の仕事は暗くなってからだ。土を海に捨てる時、街の人間に気づかれては困るからな」

「加えて、夜に働かせた方が奴隷たちも無駄な反抗心を抱かないですからね」

「なるほどな」

反吐へどが出る)

 心中で吐き捨てるバルコーは、洞窟の中に入ろうとする。その進行を、ムシクの腕が止めた。

「マキュロ、奴隷たちを頼む。ガルフ、シュテン、お前たちは僕について来い」

「分かりました」

「門番、全員が通ったら門を閉めろ」

 ムシクの言葉に、マキュロは頭を下げ、リザードマンはまるで人間のように敬礼する。ムシクは頷くと、九十度方向転換して暗闇へと向かった。服の色はすぐに溶けていくも、雲間から月が出てきたため、『暗視』の技能を持つバルコーだけでなく、オニマルもまたその背中を完全に見失うことは無かった。

(何となく察していたけど、ムシクがここで一番偉い立ち位置なのかな)

 ムシクの後をついていきながら、バルコーは自分の直感に確信を得る。魔族に魅入られし者は他に四人いたが、その中で一番強い気配を放っていたのはムシクだった。

(ここでマーカスが戦うボスキャラよりも当然強いし、他の奴ともども、会わせないようにしないとな)

 今の自分の実力なら、五人が同時に相手であっても負けることは無いだろうと考えるバルコーは、マーカスが乗り込んできた際の仕事を心に決めた。

「それで、どこに行くんだ?」

「お前たちの来訪は予定外だ。だから先ず、ここの責任者に会ってもらう」

「道理だな。魔物らしくはないが」

「我々は組織であって、烏合の衆ではない」

 振り返らぬまま話すムシク。その声音は静かであったが、組織の一員であることに対する誇りが滲み出ていた。

(あのジョゴとかいう奴とは大違いだな。しかし、の責任者か。ボスキャラはダンジョンの奥深くで戦うはずだけど、流石に今は別のところに――)

「ムシク」

 ――それは。

 何の前触れもなくバルコーたちの背後に現れた。

「っっっ!?」

「ギャ――!」

 ガシッ!

 それに対しバルコーが咄嗟にとった行動は、オニマルの肩を掴み大人しくさせることだった。

 その手は、震えていた。

(なっ……んだこれ)

 死ぬ。

 その言葉がバルコーの心を占めていた。抵抗するどころか、逃亡することさえできない。そう確信できるほどの強者の存在感に、バルコーは原初の恐怖を覚えた。

「ローゼビスタ様」

 バルコーたちの生殺与奪を握る相手に対し、ムシクは仮面を外してひざまずく。その名前を耳にしたバルコーに、新たな戦慄が走った。

(魔王の娘、だと……!?)

「奴隷はどうしたの?」

 可憐にして清澄。耳朶じだをくすぐる声音は、恐怖と混ざって体を震わせる。

「はっ。マキュロに収容を任せております。数は十六です」

「そ。で、この二匹は何?」

「ローブの男はガルフといい、僕らと同様、力を与えられた者です。小さい男はシュテンといい、ガルフに付き従っています」

「あら、冒険者じゃないのね。良かったわ、ムシクが脅されていたとかじゃなくて」

 ポン、とバルコーの頭の上に華奢な手が乗った。相手がその気になれば脳髄が引きずり出される。甘い香りを感じながら、バルコーは本気でそう思った。

「僕はどう脅されても、ローゼビスタ様の不利益になるようなことはしません」

「ふふ、いい子ね。それで、どうして連れてきたの?」

「ここでの活動に興味を持ったようでして。実力があり、あるじとも離れていたようなので、何かの役に立つかと考えました」

「ふぅん。確かにそこそこ強いみたいね」

 台詞とは裏腹に、愛玩動物相手にするような優しい手つきで頭を撫でるローゼビスタ。バルコーは黙ってそれを受け入れるしかない。

「こちらを向きなさい」

 手が離され、甘い匂いが薄まる。バルコーは静かに息を吐くと、ゆっくりと振り返った。

 ふわり、と。

 儚げな月の光に照らされ、揺れる薄桃色のドレススカート、そこから伸びた真っ白な生足に目が奪われる。

(やばい)

 何が危険なのかはバルコー自身にも分からなかったが、相手が宙に浮いていると気づいたときにはもう、視線は上を向いていた。

 細すぎないウエスト、控えめな装飾があしらわれた長袖の黒い衣服から谷間が覗く豊満な乳房、露出する鎖骨と肩、滑らかな曲線を描く首筋、そして――

(……なるほど、傾国の魔女、か)

 バルコーは頬の内側を噛みながら、魔王の娘と目を合わせる。そしてゲーム内での異名が決して誇張されたものではなかったと悟った。

(紅く輝く瞳、アーモンド型の大きな目、長い睫毛と二重瞼、青みがかった白銀の髪、新雪のような肌、小振りな鼻、色の薄い潤った唇、魔族特有の長い耳……)

 バルコーは相手の容姿を言葉の型に嵌めようと試みる。しかしどうあがいても客観に逃げることができなかった。画面越しではなく直接相対した者にしか理解できない、妖艶さと幽美さが高い次元で共存した筆舌に尽くしがたい魅力は、心の目すらも捕らえて離さなかった。

「ギャウッ!」

 ふらふらと足を進めたオニマルの肩をバルコーは再度押さえ、彼を引き戻す。夢から醒めたオニマルは声を上げると、自分が何をしようとしていたのかを思い出し、バルコーの体に抱きついて全身から冷や汗を流した。

「へぇ、この距離で私を見ても正気を保てるなんて。予想以上ね」

「………………」

「顔も悪くないし、うん、気に入ったわ。ガルフと言ったわね? あなたを私の下僕にしてあげる」

「……もし、断ったらどうなります?」

 ようやく口を開いたバルコーの言葉に、ローゼビスタは僅かに目を見開いた。ムシクは怒りの声を上げる。

「貴様、ローゼビスタ様からのお誘いを断るだと!?」

「いいのよ、ムシク」

 ムシクをなだめたローゼビスタが、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。

「いいわぁ、本当にいい。私を前にしてここまで自分を貫ける奴なんて、あんまりいなかったから」

 バルコーに近づいたローゼビスタは、ゆっくりと肘を曲げる。黒の袖から伸びた華奢な指が、バルコーの顔の輪郭をなぞった。バルコーは相手の顔から目を離さず、口の中で血を転がす。

「そんな奴らが、自分から下僕にしてくださいと懇願する姿は、ふふっ、とっても無様なのよねぇ」

「っ……く……」

 美貌が、芳香が、声色が、感触が、バルコーの精神をかき乱す。そこに絶対的強者に対する畏れが加わり、心の中に芽生えた被征服欲がどんどん大きくなる。

(従えば、楽に……いや駄目だ!)

 バルコーはそう意気込むも、心はほとんど限界だった。顎に力が入らないばかりか、真っ直ぐ立つ気力さえ尽きかけている。

(駄目だ……足が……)

 ここで膝をついたら、もう立てない。頭では理解していても、心はどうしようもなかった。

 グリッ

「っ!」

 膝が崩れかけたその時、オニマルがポンチョに隠れた角をバルコーの背中に押し当てた。痛みで覚醒した精神が、体を持ち直す。

 しかし削られた心が回復したわけではない。生存本能が眠っていた気力を呼び起こしただけだ。数秒と経てばそれも尽き、たとえ痛みがあっても限界が訪れることは明白だった。

 それを悟ったバルコーは、残った気力のほとんどを使って、行動を起こす。

「……申し訳ありませんが、今はまだ、貴女の下僕になるつもりはありません」

 オニマルと共に一歩引いた彼は、深く頭を下げ、視覚と嗅覚と触覚へのから逃れる。そして自ら降伏を申し出た。

「ですが、私より強い貴女に惹かれているのは確かです。なので、下僕にはなれませんが、この島に留まり貴女のお役に立ちたいとは思っております。どうかそれを許していただけませんか?」

 そこまで言ったところで、バルコーの気力はほぼ全て尽きた。もし相手が有無を言わさず攻撃を加えようものなら、その瞬間にバルコーは陥落するだろう。

(頼む、これで納得してくれ……!)

「くっ、ふふ、あははははは!」

 声を上げて笑うローゼビスタ。それは殊勝な心掛けへの嬉笑きしょうか、滑稽な強がりへの毀笑きしょうか。バルコーは祈るような気持ちで、次に発せられる言葉を待つ。

「下僕ではない部下、そういうのも悪くないわね。いいわ、私の下で働くのを許してあげる」

 ただし、とローゼビスタは笑みを浮かべて付け加える。

「気が変わったらいつでも下僕にしてあげるから、その時は犬の鳴き声を真似て知らせなさい」

「……ありがとう、ございます」

「うふふふ、こんな拾い物をするなんて、来て良かったわ。ムシク」

「はっ」

「屋敷にある使用人の部屋、まだ一つ空いていたわよね? そこをガルフに割り当てて」

「はい」

「それと、ここでの過ごし方も教えてあげて。それじゃ」

 返事を待たずに、ローゼビスタはその場から飛び立つ。強い気配が離れていくのを感じ、バルコーは息を吐く。

「おい、いつまで頭を下げている」

「ローゼビスタ様は?」

「もう戻られた」

「そうか」

 バルコーはゆっくりと顔を上げる。そこにはもう、魔王の娘はいなかった。ようやく緊張の糸が解けたバルコーは、オニマルの頭を撫でる。

(離れたと思わせて、気配を隠して近づいていた、とかじゃなくて助かった……)

 勿論、今後また同じように不意を突いてこないとも限らないわけだが、今回は救われたことに安堵するバルコーだった。

「行くぞ」

「ああ……」

 ぶっきらぼうに言うムシクの背を追うバルコーとオニマル。やがて現れた石段を上り始めて暫くしてから、ある程度精神力を取り戻したバルコーが口を開く。

「なあムシク」

「……なんだ?」

「ローゼビスタ様はどうしてここに?」

「貴様には関係ない」

「ローゼビスタ様の下僕は何人いるんだ?」

「貴様には関係ない」

「……ローゼビスタ様の好きな食べ物は?」

「貴様には関係ない」

「いや関係あるだろ。ローゼビスタ様の下で働くなら、そのくらい知っていてもいいはずだ」

 切り捨てるような回答をするムシクの背中を半眼で睨むバルコー。ムシクは声の調子を変えないまま続ける。

「下僕でない貴様に伝えるべきことは無い。身を弁えろ」

「下僕と部下は違うのか?」

「当然だ。ローゼビスタ様から少々気に入られたからといって、調子に乗るな」

 どうやらムシクは下僕という地位に並々ならぬこだわりがあるようだ。

(嫉妬も混ざってそうだな……。何にしろ、ローゼビスタに興味がある振りをしての状況把握は無理か)

 どうしてここに居るはずのない強敵がいるのか。その答えを得られるのはまだ先になりそうだった。星空を見上げたバルコーは、月が雲に隠れていく様子を眺めながら、夜の空気に吐息を混ぜた。

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