アイ×2,0

七戸寧子 / 栗饅頭

本編

 書店で棚が最も荒れるのは児童書や絵本のコーナーだ。これは本を手に取るのがまだ幼い子供なので仕方ない。では、二番目はご存知だろうか。これが人に話すと意外な顔をされる。多くは雑誌を想像するらしい。確かに、立ち読みをはじめ、本を手に取る人が一番多いのは雑誌のコーナーだ。しかし、書店バイト一年生に言わせれば二番目に荒れるのはそこではない。


 正解は占い本のコーナー。これが荒れる荒れる。自分の星座の本を手にとってパラパラと見ては一喜一憂したり鼻で笑ったりするのだろう。そして、なぜか雑に戻していく。他の買い物もせずに店を出る。あんなやつらが占いを信じたところで得られるご利益がこの世にあるのだろうか。棚を整理しながら、そんなはた迷惑な客は冷凍パスタを温めるときのレンジのワット数を間違えて麺がカチコチのまま袋を開けて残念な気持ちになればいいと念じる。


 まったく、人間というのはそんなにも占いとか運命とか神とか幽霊とか信じたくなる生き物なのだろうか。


 私はそんなスピリチュアルな諸々は信じていない。理由は単純、科学的な証明がなされていないからだ。というのも、私が「あるかも」と「ないかも」をミキサーにかけたような曖昧な存在や概念が苦手だからそう決めつけているだけなのだが。


 しかし、そんなロマンチックさに欠けた女子大生は少数派らしい。少なくとも、私が観測する世界ではマイノリティと化している。


 はあ。バイト中に余計なことを考えてしまった。ため息を売り場に置き去りにして、レジに戻る。


「幸せ、逃げますよ」


 そして横から茶々を入れてくる相方。私と同じ、今年の春に大学のため引っ越してきた彼女。バイトを始めたのも同時期らしい。サラサラのロングヘアからはフローラルな香りがする。セロトニンだかなんだかの幸福物質のカード分泌を促すようなその香りがなんだか哀しくて、私はまたため息をついた。


「ため息、聞こえてました?」


「いえ、暗い表情に見えたので」


 はて、私がバイト中にそんな明るい表情をした記憶はないのだが、それにしても出会って数ヶ月の人に暗い顔と言われてしまってはやるせない気持ちにもなる。普段なら「そんなことないですよ」とでも返すが、今日は客も少ないし天気も悪くないしアイロン掛けが上手にできたので話を振ってみることにする。


「……神とか信じたりします?」


「なんですかそれ、宗教勧誘みたいな」


「いや、そういうのではないですけど」


 確かにこれでは宗教に誘うヤバい女だ。書店のレジの裏よりも昼の玄関先のほうが似合うセリフだ。それでも、彼女は怪訝なニュアンスをひとつも見せずにくすりと笑ってくれた。


「うーん、信仰してるとは言いませんけど、それなりに信じてますよ。その方が楽しいですし」


「と、いうと……」


「あのときこうだったのは神様のおかげかも、とか。逆に、ここはなんとかうまく行きますようにお願いします神様、とか。そう考えられるとちょっぴり日常が豊かな気がしません?」


 その笑みに屈託なんてものはなくて、理屈っぽく「科学的根拠が〜」とか言ってニヤニヤしている自分が少しばかり恥ずかしくなった。「確かにそうかもしれませんね」と返せばいいのだがそれも少し癪で、あうあうと口の中で言葉をこねる。会話のキャッチボールがもう少し上手ければと自分を恨む。


「これはただの私の話なんですけど」


 連投。慌てて言葉を受け取る姿勢に入る。あうあう。


「私、ぜんっぜん運動できないんですよ。それなのに、よくバッティングセンターに行ってて」


 あう。口の中で何かがつっかえた気がして、唾と共に飲み下す。言葉のキャッチボールだのなんだの考えていた頭に急にバッティングセンターという単語が出てくると何かを見透かされているような気持ちになってしまう。


「当然、ホームランどころかヒットもまともに打てなくて。それが引っ越す直前に一回だけ綺麗に打てたんですよ」


 ほう。まあ、美談ではある。この時点では私も少しばかり感心していた。


「で、私が彼氏と付き合い始めたの、その日なんです」


「は?」


 思わず横を振り向く。その瞬間、手に鈍い衝撃が響く。カウンターにしたたかにぶつけた手の甲がじんじんと痛む。なんだこれ、ふざけやがって。痛いし、急に男を話に出すな。おい。


「あ、そう、彼氏いるんですよ。地元で就職しちゃったから遠距離なんですけど」

 かちーん。ちょっと頭にきた。イマジナリーうさぎがイマジナリーたぬきの背中で火打ち石を擦りながら「これはあまり関連性のない話に惚気を絡め始める女にキレるかちかち女の音だよ」と説明している図が浮かんだ。


「だから、なんか、神様とかもいるのかもなーって」


 おお、お熱い。火傷しそうだ。その傷にからしでも塗りつけてくるのだろうか。薬をくれとは言わないから、もう少しマシな、論理的な説明がほしい。裏切られた気分だ。相手が彼氏持ちだからとかではなくて、なんというか、なんだ。呆れた。


「へー、ウンメイテキっスね」


 投げやりに言葉を返す。もうキャッチボールなんかしてやらん。何だこの女ふざけやがって。いや、そんなにキレることではないのだが。


「まー、ちょっと嬉しくなりますよね」


 えへへ、みたいな顔をするな。かわいい顔しやがって……と思った瞬間、彼女の顔がしゃっきりと真面目になる。次の瞬間には整った笑顔をして、口から「いらっしゃいませ」と発声する。


「おあずかりしますー」


 視線を前に戻したら、中年の男性がカウンターに来ていた。私の隣のレジ、つまりはなんか腹立つ顔をしていた彼女に文庫本を二冊手渡している。


「カバーはおかけしますか?」


「あー、お願いします」


 その声に反応して、文庫本が私の方へスライドされてきた。会計の作業をするうちにカバーをかけておけということだ。私たちが暇な時間でせっせと折った紙のカバーをストックから二枚抜き取り、表紙にあてがう。タイトルは『ムゲンのi』。上下でワンセットの小説だ。私はタイトルしか知らないが、タイトルが特徴的というか少し記憶と重なる部分があっていつか読んでみようと思っている。


 カバーをかけた商品を「失礼します」と客の手元に差し出す。レジの操作も済んだらしく、二人で頭を下げて「ありがとうございましたー」と声にする。特に気持ちは込めていない。


「……」


「……」


 会話が途切れてしまった。ただ、流れがおあつらえ向きなので少し振ってみる。


「……やっぱ、愛ってあると思います?」


「どうしたんですか今日。そんな話ばっかり」


「ただの気まぐれです」


 ムゲンのi。どうにも、「アイ」という発音は「愛」と重ねてしまうところがある。高校の頃、同じ考えで虚数単位iに絡めて私に「愛って本当にあるのかな」などと阿呆なことを言ってきた阿呆がいた。私は当時から曖昧なものの話が苦手だったのだが、それには少し気合を入れて答えてやったのを覚えている。阿呆にそれを理解するのは難しかったようだが。


 その問いを、遠距離恋愛を営んでいるらしい人に投げかけてみる。どうせ「きゃ〜っ、ありますよぉ〜!」とでも答えるのだろう。それでもいいから、そう信じている人の話を聞いてみたかった。ところが。


「……さあ、どうなんでしょう」


 返事のトーンは想像していたよりずっと低かった。これは地雷を踏んだかもしれない。私たちが交わしていたのは言葉のボールではなく、時限爆弾だったのかもしれない。


「あ、私はカレのこと好きですよ。たぶん」


「たぶん……?」


「だって、自分の本当の気持ちなんて自分でもわからないじゃないですか。そこの背中を押してもらいたいから占いの本が売れるんですよ」


 かきーん。ヒット。私の「たぶん……?」とか言った間抜けな声がスタンドの方へ飛ばされていく。ああ、本当に自分が恥ずかしい。キャッチボール用のグローブを投げ捨てて甲子園でもないのに土をスコップを掻き出してその穴に入りたい。自分にはない思慮の深さが羨ましい。占いコーナーを荒らす人間が皆それを本気で信じているんだろうと信じていた自分の浅はかさが恨めしい。


「でも、傍から見ると感じる愛ってないですか?」


「ええと、例えば」


「コロコロコミックを発売日に買っていくサラリーマンさんとか」


 想像する。平日の夜、スーツを着てちょっぴり疲れた顔でカラフルな表紙をレジに差し出す“お父さん”。そこに見えるモノ。感じるソレ。


「ね、愛ってあるんだろうなあ、って思いません?」


 何も言い返せない。降参だった。私が地雷を踏んだのではなく、彼女がホームベースを踏んだのだ。私は土を掻き集め、その穴に飛び込んだ。ちょうどシフトが交代する時間帯だった。


 その後は当たり障りのない話題に流れて、シフトの時間が終わり、二人でエプロンを脱いで店を出た。同い年というのもあってそれなりに仲良くなった私たちは駅に行くまで肩を並べるのが通例になっていた。


 その道中も適当な会話をしているのだが、今日は着信音がそこに割り込んだ。彼女のスマートフォンだった。


「はい、もしもし……なに? うん、暇だけど……は?」


 何の話をしているのか私には分からないが、彼女の言葉遣いが粗雑なことに驚いた。仕事の場だからというのもあるが、にこやかで敬語の彼女しか私は知らなかったので「あーもう」だの「はいはい」だのと口にする様子は新鮮だった。


 話が長くなりそうだったので、私もスマートフォンを出す。なんだか寂しくて、美味しいものでも食べたい気分だった。それも、誰かと。検索窓に「星座占い 今日」と打ち込んでみる。曰く、思い切った行動が吉。メッセージアプリを開いていかにも阿呆そうなアイコンをタップする。キーボードの上で指を滑らせる。今からラーメン行かね?


 しばらくして、電話が終わったようでその数世代前の端末を耳から下ろした。


「彼氏。かまってちゃんなんだから、もう……」


 そのひそめた眉と膨らんだ頬と、上がった口角が「愛」なんだなと直感で理解した。ぴろん、と今度は私の端末が鳴る。通知欄に「行こうぜ!」のメッセージ。こんなに急な誘いにこんなにすぐ返信して、暇なのかアイツ。ちょっぴり感じるじゃん、ソレ。


「あ、いい表情してるじゃないですか」


 そして茶々を横から入れてくる相方。その瞳に映っている私の口角はどんなだろうか。追加で鳴るスマートフォンのバイブがなんだか愛しくて、私はまたため息をついた。

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アイ×2,0 七戸寧子 / 栗饅頭 @kurimanzyuu

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