第183話 「さようなら、お母様」
(三人称視点)
「その眼があれば、聖女の力は発揮できるんだろ? なら足は要らないな。まずは一本取っておくか」
父親を手に掛けたヴェントスは、妹であるシアを傷つける事を今更躊躇いもしなかった。
彼の【風魔法】のスキルが、鋭利な空気の刃を生み出す。
不可視の斬撃はそのままシアの足を切断しようとしたが、
「――は?」
その隙を見逃さず、脱兎の如くシアはその場から逃げ出す。
「チッ、なんだ今の……面倒な事しやがって!!」
すぐにヴェントスも後を追う。強大な力を持つ聖女を、わざわざ逃す理由などない。
【風魔法】のスキルで追い風を起こし、一気に加速して追いつかんとする。
――だが、シアはそれをも
(実験室への扉を開く、スイッチ……!)
それは先ほど、シアが地下の実験室に入るために使ったスイッチだ。
ある床の石を押し込みながら、特定の順番で壁の石を押す。
シアは逃げながら、その石を
――結果。侵入者迎撃用の、トラップが作動する。
「なッ――ぐぁ!?」
床が突然せり上がって、侵入者を閉じ込める即席の牢獄と化した。
それに対応できなかったヴェントスは、加速した勢いのまま石壁に激突する。
(う、うまくいきました……今の内に逃げないと!)
「くっ……待てレクシア!! 俺がこのままお前を逃すと思うか!?」
壁の向こうから、怒りに満ちたヴェントスの叫びが聞こえてくる。
明らかにそれは、家族に対して向けるものではなかった。
「お前は俺の家族、つまりお前の
「ッ」
「絶対に逃さない、地の果てまで追いかけてやる! 兄に対してこの仕打ち、後悔させてやるぞ……!!」
……シアは振り返らなかった。
時間が経てば、彼は魔法で牢獄を突破してしまうかもしれないからだ。
(お兄様は、知っていたのですね……私の力の由来を、あの実験を)
あんな悍ましい所業が行われていた事を知っていて、それでもヴェントスは何もしなかった。
父ウレスと同じように、その事実を世間にもシアにも伝えようともしなかったのだ。
……彼女の中にあった“家族”という繋がりが、ボロボロと崩れていくのを感じていた。
◆
シアはその後何事もなく、地下通路から抜け出した。
幸い兵士には出くわさなかった。ヴェントスが始末したのか、或いは王宮の騒ぎでそれどころではなかったのか。
しかし悠長にしてはいられない。ヴェントスがじきに追ってくるだろうし、捕まればシアの人生は終わりだ。逃げ道を封鎖される前にここを離れなければならない。
だが、彼女は“このまま逃げる”という選択肢をとることができない。
(お母様の命が危ない……!)
シアが逃げ出せば、ヴィジリアを生かしておく理由はない。用済みとして処分されるだろう。
そうでなくともあの容体では、恐らく長くは保たない。一筋の希望であるエリクサーも見つけることができなかった。
(離宮に向かって、お母様を連れ出して、それから……)
肉体も精神も限界が近づき、ぐちゃぐちゃになった思考を必死にまとめようとする。
しかし意味のない事だと、シアも内心では理解していた。
碌に立つこともできないヴィジリアを、どうやって連れ出すというのか。
連れ出せたとして、追手から逃げ切れるのか。そもそもヴィジリアの命は保つのか。
そもそも、家族と故郷を失った彼女に行き先などあるのか。
何も解決策が思い浮かばない。父親に続き、母親まで失おうとしている。
レクシアという存在が、支えを失い崩壊していく。
(聖女の力があっても、何もできない……! どうすれば、どうすれば――)
目の端に涙を浮かべながら、必死にシアは離宮へと向かう。
そして何も解決策が思い浮かばないまま、只がむしゃらに走り続けた先に。
「……レクシア」
「お母様……?」
自分の足で地面に立って、シアを出迎えるヴィジリアの姿があった。
◆
「やはり、こうなってしまいましたか……いつかこうなる日が来ると、覚悟はしていました」
「お母様、どうして――」
碌に立ち上がれない筈のヴィジリアが、自分の足で離宮の外に出ている。
しかしシアの眼はすぐに真実を見抜く。ヴィジリアは命を削って、シアと話すためにここまでやってきたのだ。
既にヴィジリアの命は風前の灯。ここまで移動できた事自体が奇跡と言えた。
「レクシア。王宮で何が起きたのか、私も察しはついています。――ヴェントスが反旗を翻したのでしょう」
「――!」
「あの子はウレスと同じ、野心と欲望に染まり切った眼をしていました。いずれこの国に争乱を招き、あなたを手中に収めようと企んでいる事は、以前から薄々気づいていたのです」
青白い顔に、乱れた息。
枯れ木のように痩せ細った身体は、嵐の前に儚く散ろうとしていた。
「だったら、お母様もここから逃げないと! すぐにお兄様の追手がきます!」
「気づいているでしょう? 私はもう長くありません。逃げる意味などないのです。
――だからレクシア。私を置いて行きなさい」
その決別の言葉に、シアは目を見開いて絶句する。
命を振り絞って娘に語りかけるその言葉は、紛れもない家族への愛情に満ちていた。
「あなたはとても優しい子。何かがあれば、私を助けようとすることもわかっていました。
けれど私に構えば、あなたは捕まってしまう。ここから先はあなた一人で逃げなさい」
「い、嫌ですっ! お母様は私の大切な家族です!! それを見捨てるなんて――」
「私からの最期のお願いよ。どうかわかって、レクシア」
シアと同じアイスブルーの瞳が、真っ直ぐにシアを見つめる。
彼女にとって唯一の家族。その最期の願いを告げるために、ヴィジリアはここまできたのだ。
「あなたは私の、大切な娘……紛れもない家族。だからこそ生き延びてほしいの。私と違って、あなたには未来がある」
「……っ」
「どうか死なないで。私の分まで、幸せに生きてほしい。
今まで何もできなかった私の、母親としてのせめてもの願いなのです」
……シアも、頭ではとっくに理解していたのだ。
ヴィジリアを置いて、一人で逃げ出すという事が最適解であることに。
けれどシアは理性や欲望に素直に従って、家族を切り捨てるような真似はできない。
彼女の感情が……母親から引き継いだその優しさが、それを許さない。
そして、シアがそう考える事を母親であるヴィジリアは、とっくに理解している。
「これまで、私の家族でいてくれてありがとう。私はあの悍ましい実験のせいで、人生を失ったけれど……それでもあなたが生まれてからは、私の人生はとても色鮮やかに見えていたわ。
だから忘れないで。あなたが生まれてくれた事で、救われた存在があることを」
「お、かあさま……」
「子はいずれ親元を離れるもの……今がその時なのです。
急な事で理解が追いつかないでしょうけれど、あなたならきっとわかってくれるって信じてるわ」
よろよろと、最後の力を振り絞ってヴィジリアはシアに近寄る。
そして静かに、力強く抱きしめた。
「お別れです、レクシア。どうか幸せになって」
「ごめんなさい……お母様、ごめんなさい……」
「謝る必要はありません。あなたは何も悪くないわ。
……最期にこうして、会えて良かった」
シアも優しく、そして力強く抱きしめた。
眼で見るだけではなく、直に触れて初めて理解できるものもあるのだと、この時シアは悟った。
手の平から伝わってくる温もりや優しさは、【鑑定】スキルだけではきっと理解できなかっただろう。
それが、シアが決心を固める最後の後押しになった。
「……迷宮都市に向かいなさい。レクシア」
「迷宮都市に……?」
「この国にもう逃げ場はありません。そして迷宮都市ネクリアは来る者を拒まない。
あなたの体力でもなんとか辿り着ける距離でしょう。きっとあなたの新しい居場所も見つけられる筈です」
この世界で最も栄え、最強の戦力を保有する都市。ネクリア。
そこに辿り着く事ができれば、いくらヴェントスが新国王になった所で下手な手出しはできなくなるだろう。
「もう時間がありません。追手はじきにここに来ます。それにヴェントスの暴挙に納得しない者達が内乱を起こし、この国は荒れ果てるでしょう」
「……はい」
「行きなさいレクシア。私のたった一人の娘。あなたの旅先に幸あらん事を。
――愛しているわ」
シアも震える声で、言葉を返す。
それはありふれた、しかし家族だからこそ伝わる愛の言葉だった。
◆◆◆
第183話 「さようなら、お母様」
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