第18話 消えた恋人
――裕くん、裕くん! どうか無事でいて!
携帯もお金もないこの世界では、走るしか手段がなかった。
国営ホールでは、今まさに本番が始まったところだ。
オーケストラの前で挨拶をして
満員の観客席が映されると、皆うっとりして
一曲目が終わると、直ぐに司会者が真島洋子を紹介した。
舞台に出てきた美しく華麗な洋子を見て、大きな拍手が沸き起こっている。
すると、洋子は唯月の合図でその美しい歌声を披露し始めた。
美羽はビルの上の大きなスクリーンに映しさだれている洋子の映像を走りながら見上げていた。
――洋子さん、どうか後悔のないように、唯月さんに自分の気持ちをいつも伝えていてください。
心で祈るようにまた前を向きなおり息を整え走ったのだった。
洋子のマンション前に辿りつくと、美羽は上がった息を整えることもせず、急いでエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの中ではハァハァと背中で呼吸しながら壁にもたれ、最上階までのエレベーターが長く感じられた。
ドアをキーで開けるのももどかしく、急いで中に入るなり叫んだ。
「裕くん! 裕くん!」
走り込んできたリビングに裕星はいなかった。
――どこなの?
ベッドルームにもトイレにも、そしてキッチンにも裕星の姿は見当たらない。
――そんな……遅かったの? でも、洋子さんとお父様は無事に婚約したというのに、間に合わなかったの?
リビングのテレビは付けっぱなしになっており、そこに映しだされていたのは、コンサートホールで歌い終わった洋子と唯月が手と取り合って観客に挨拶をしている姿だった。
『今日は皆さまのお蔭で、クラシックとポップスが華麗に融合し新しいハーモニーを奏でることが出来ました。ありがとうございました!
そして、私事ではありますが、僕、
未熟な僕たちですが、どうぞ末永く見守って下さいますよう、皆さまよろしくお願いいたします。
今日はコンサートをお聞きくださり、ありがとうございました!』
二人は顔を見合わせ、笑顔で一緒に深く頭を下げた。
――洋子さんもお父様も良かった……。なのに、裕くんは……タイミングが悪くて消えてしまったというの? もう私の大切な人はいなくなってしまったの?
美羽はリビングのテレビの前で、膝から崩れ落ち
テレビでは婚約をした二人が幸せそうに観客の声援に応えて手を振っている姿が映し出されている。二人の映像の下には、スタッフや製作者名などのエンディングのテロップが流れ始めた。
――裕くん。
美羽は涙が止めどなく溢れて、テレビの画面が
すると、突然、後ろから美羽の両肩に重いものが、ずしりとのし掛かってきたのだった。
「キャッ!」
その重さは裕星の両手だった。
「美羽……やったな! お母さんと親父のキューピッドになってくれたんだな」
振り向くと、スラリと伸びた長い手足、引き締まって割れた腹筋、腰にタオルを巻いただけの、無邪気な笑顔を見せる裕星の裸体がハッキリと見えた。
「裕くん!」
美羽は思わず裕星に抱きつきて泣き出した。
「裕くんがどこにもいないから消えちゃったかと思ったじゃない! どこに行ってたのよ!」
「ゴメンゴメン。美羽がこんなに早く帰ってくると思わなかったから、風呂に入ってた。さっきまで見てた親父の番組の途中で、二人が婚約したことがテロップで流れてきたから驚いたよ。その途端、俺の身体が一気に元に戻ったんだ。
親父はやっとプロポーズしてくれたんだな。ひと安心したらそれまでの疲れがどっと出て、ゆっくり風呂に入りたくなったんだ。そうしたらリビングで美羽の声がしたんで急いで上って来たんだよ」
落ち着いてよく見てみると、裕星はまた腰にタオルを巻いただけの裸の状態だ。
美羽は改めて見た裕星の格好に驚いて、思わずパッと裕星から離れた。
「えっ? 今まで平気で抱き付いてたくせに、そんなに驚くか? ……さっきは右手と左足が完全に消えていたんだけど、ほら、もうどこもなんともない。全部元通りだ! なんなら、タオルを取って確かめてみる?」
裕星はわざと悪戯っぽくウィンクした。
「もうっ、分かったから取らないでね! ……でも、裕くん、本当に良かった。裕くんがいなくなったら、私どうしたら……」
裕星は、また泣き出しそうにしている美羽を胸にギュッと抱きしめた。
「美羽、本当に俺もよかった! このまま消えてしまったら、俺が美羽を愛してたことも美羽の記憶から消えてしまうからな。腕の一本くらいなら消えても、この気持ちが残っていればそれだけでいいと思っていたくらいだ。
でも、俺は決めた。これからはいつも美羽に気持ちを伝えることにするよ。今までよりももっと自然に毎日伝えようと思ったんだ。母親みたいに、大事な人を失ってから後悔したくないからな……」
裕星は更にギュッと美羽を抱き寄せ、美羽の涙で濡れた頬を右手の親指で拭ってそっと包むと、美羽の柔らかな唇に口付けたのだった。
美羽はやっと心からの安堵感を覚えた。そっと目を閉じ、自ら裕星の温かくてすべすべしている裸の背中に手を回していた。
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