第15話 息子の存在を消す母親

 美羽はドアの外で裕星が出て来るのを震えながらじっと待っていた。ガチャっとドアを開けて、裕星がいきどおった顔で出てきたのを見て、思わず駆け寄って声を掛けた。


「裕くん、本当に洋子さんは裕くんのことを……」

 美羽がまだ茫然ぼうぜんとしている裕星に声を掛けた。

「ああ……、ちょっと手遅れかもしれないな――。あの人がそういう人だってことをもっと気を付けるべきだった。

 さっき最後に俺に言ってきたよ。あの人、親父との結婚をやめるから、俺と付き合いたいと――」


 美羽は裕星の言葉を聞いて言葉を失ってしまった。




 すると突然裕星が左腕を抑えてうなり声を上げたのだった。


「どうしたの、裕くん?」

 驚いて声を掛けると、裕星が半透明に消えかけている左腕を見せた。


「そ、そんな……俺の腕が消えかけてる……」

 苦しそうに薄く透けて見える左腕を抑えている。


「裕くん!」

 美羽はその左腕に触れようとしたが、指先は既に実体が無く、手を握ることも出来なくなっていた。





「どうしよう、どうしよう……このままじゃ、裕くんが消えちゃう」

 美羽は泣きそうになる気持ちを抑え込むようにして唇を噛んで裕星に言った。


「裕くんはもうマンションに戻っていて! 後は私が何とかするわ! ここにいたら、洋子さんは益々裕くんのことを慕って、お父さまへの気持ちが薄れてしまうかもしれない」


「ああ……そうだな。もう腕がしびれて動かない。こんな体じゃ親父に会っても何も出来ないな……。仕方ない……俺はこのまま帰るしかないか。美羽は大丈夫か? ごめんな。俺が余計なことをしたばかりに……」


「裕くんは心配しないで! 私が二人をどうにかする! そして、裕くんを絶対に元に戻すから」


 もうすでに涙が溢れそうになっていたが、美羽は裕星に不安な顔を見せないようにして、裕星をタクシーに乗せて見送ると、また洋子の元に急いで戻った。





 裕星は帰りのタクシーの中で、既に左腕が完全に消えてしまっていた。

 タクシーの運転手には左腕のない障害のある男として哀れな目を向けられたが、何とか他の部位が消える前にマンションに辿りつくことが出来た。


 後は美羽に任せるしか手段がない。このままだと本当に自分はこの世から消え失せてしまうかもしれない。待つことしかできないのが悔しいが、今の自分にはもう何も出来ないのだ。


 しかし、美羽が一人で奔走ほんそうするのももう限界だろう。

 裕星は部屋の電話を取ると、唯月の携帯電話にかけた。







 ***国営コンサートホール***



 その頃、美羽は洋子の世話をしていた。ヘアメイクがしたセットが気に入らないというので、美羽は洋子の指示通りに手直ししてあげていた。


「まあ上手ね。最初から貴女に頼めばよかったわ。あんな下手くそなヘアメイクのせいで時間が無駄になったわ」


「いえ、私は美容師ではないので、そんなに上手くは出来ません」


「――それで? さっき見たんでしょ?」

 洋子が鏡越しに美羽を見て言った。


「何をですか?」

 美羽はとっさにはぐらかした。



「私とあの彼の事よ」


 美羽は答えずに黙って洋子の髪を整えながら聞いていた。


「彼、しょうさんは唯月の遠い親戚らしいの。でも、私のことを親身になって心配してくれた優しい男性なのよ。あんな男性に会ったのは初めて。

 何か今まで会ったことのない不思議な魅力がある人なの。


 ――そうねぇ、まるで肉親みたいにすごく近い存在とでもいうのかしら? 彼を抱きしめた時、不思議な親和感が湧いて来てね、きっと彼が私の運命の相手だったんだわ。


 唯月なんて、私には興味ないみたいだし。私と会えなくても平気な彼と違って、しょうさんは私に真剣な目で訴えて来るの。幸せになれって。それ以来彼に心を打たれてしまったのよ」

 洋子の話は、裕星が自分の息子であることを十分物語っていた。それに全く気付くこともなく。


「……あの人は、私の知っている人なんです!」

 美羽は思い余って言葉が出てしまった。


 洋子は裕星が出て行く前に言った言葉を思い出した。


「あなたの知り合いが彼だったというわけ? それなら話は早いわ! 彼のこと詳しく教えてちょうだい。私、彼を本気で好きになったみたい。だから、いずれは唯月と別れて、彼とお付き合いするつもりよ。たとえあなたたちが恋人同士だったとしても、まだ結婚してるわけじゃないんだから、私だって彼を好きになる権利あるわよね?」


 洋子さんが恋をしたと言っている相手は、貴女の息子なのよ! 美羽は言葉が喉まで出かかって抑えた。



「――真島さん、今日はハッキリ申し上げます。何があっても貴女は彼と付き合ってはいけないんです!」

 美羽は核心を言えず曖昧あいまいな事しか言えなかった。


「付き合ってはいけない? なぜそんなことまで言われなくちゃいけないの? あなたが彼の事を好きなのは分かるわ。でも、考えてごらんなさいよ。私は有名人で、あなたはただの付き人よ。彼が最終的にはどっちを選ぶと思うの?」

 ふふと不敵な笑みを浮かべて洋子は鏡の中の美羽の顔をにらみつけた。


 美羽は黙ってうつむいていたが、顔を上げて洋子を真っ直ぐ見つめると、思いきったようにこう言った。


「はい、私は彼の事が好きです。だから彼を絶対に諦めません! 私達はこれからもどんなことにも負けないで一緒にいようって決めたんです。

 そして、彼は今大切な彼のお母さまを守ろうとして、私と一緒にここまでやって来たんです!

 だからお願いです! どうか彼を諦めてください! 私は彼を本当に愛してるんです!」

 美羽は鏡の中でこちらを睨んでいる麗子に向かって、心の底から湧き出すような声で訴えた。



「あなた……彼の事をそこまで愛しているというの?」


「はい、そうです。彼と私はこれからも一緒にいるつもりです。だから……」


「いやよ!」


 洋子は美羽の言葉をさえぎって叫んだ。

「私だって、やっと見つけた運命の人なのよ! 彼は他人の私の事をあんなに親切にしてくれてる。それは私を愛してるからでしょ?」


「……はい。大切に思っていると思います。でもそれは意味が違います。

 私も今まで彼にいつも助けられてきました。彼はどんな時も私のことを守ってくれました。自分の命の危機の時でも……。私にとっても彼は自分以上に大切な人なんです!


 彼はお母様のことを本当に心配しています。お母様ならきっと自分の事を分かってくれると思っています。大切な子供を見捨ててしまうようなことはしないと、ずっと信じていたんです。


 でも、貴女はそうやって自分の事ばかり大事にして、誰の気持ちにも気付こうとしない! そればかりか、自分の手で自分の大切な人を消そうとしている!

 私は彼のためなら命を懸けられます。真島さん、貴女にはそれが出来ますか?」


 美羽は涙をポロポロとこぼしながら叫んだ。涙でくぐもった声が喉の奥からしぼり出されるようにして、声がれそうになるのも構わず叫んでいた。


「……貴女、自分が何を言ってるのか分かってるの? なぜ私のことをそこまで言えるの?  それに何よ、彼の母親のことまで出して、私に何の関係もないでしょ?」



「真島さん、お願いです! 今は何も言うことができませんが、どうか、お願いします、彼をあきらめてください! もし、貴女が諦めなかったら、私も彼の後を追って消えるつもりです……。だから……お願い……」

 美羽はもう何を言っているのか自分でも分からなくなっていた。


「どういうつもりで言ってるの? 死ぬほど彼を愛してるとでも言いたいの?」


「――はい、そうです」

 美羽は涙で濡れた頬も拭う《ぬぐ》こともせず、真っ直ぐに洋子を見つめた。

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