第14話 母親とのラブシーン

 ピチュピチュピチュ……元気のいい小鳥のさえずりで先に目を覚ましたのは裕星だった。

 すっかり寝込んでしまって昨夜のことは覚えていなかったが、なぜか隣で天使のような寝顔の美羽がスヤスヤと寝ている。


「なんで、美羽がここに? しまった……全く覚えてない。俺としたことが、いつもこうだな。今までも眠さに勝てたためしがない!」

 自分に腹を立てて頭を掻きむしっている。


「ん、裕くん? おはよう」

 美羽が目を擦りながら体を起こした。


「い、いやあ、良い朝だなあ! 今日も頑張ろうぜ!」

 美羽と目を合わせず、やたらと張り切っている挙動不審きょどうふしんの裕星を見て、美羽が微笑んだ。


「裕くん、元気になったのね! 良かったわ!」

 能天気に答えるのが、純粋ないつも通りの美羽らしかった。



 今日は二人が合流することになる国営ホールで裕星の父と母が共演するコンサートがある。

 洋子が、オーケストラと唯月いつきのバイオリン演奏でクラッシックからポップスまで歌うのだが、それは視聴者から見たら、なんともうらやましい美しい恋人同士の共演のはずなのに、ここで二人の気持ちがしっかり結び合わされなければ、この大切なチャンスも台無しになってしまう。


 裕星と美羽は朝から緊張していた。それぞれに、美羽は洋子の付き人として、裕星は唯月の見習いとして正に同じ場所に来ていたのだ。


 洋子の身の回りの世話をしながら忙しく動き回っていた美羽のところに、唯月がやって来た。

「君は今日も洋子に仕事を?」


「はい、先日はご馳走様でした! 今日はお世話になります。よろしくお願いします!」と頭を下げた。


「洋子は中にいる?」

 楽屋のドア見ながら訊いた。


「はい、いらっしゃいます。今ヘアメイクをされていると思います」

 美羽はドキドキしながら答えた。



 唯月がノックをして中に入ると、廊下の向こうから裕星がやって来て、美羽を見るなり駆け寄ってきた。


「今、親父は中に入ったのか?」


「うん、ちょうど今入って行ったわ。でも何を話しているのか分からないけど……」


「そうか、傍から見ていたら仲が良く見えるんだけどな。それなのに結婚してすぐに別居、5年後には別れるんだか。意味が分からんよ」


「そうよね。一体何が原因だったのか……」


「まあいいや、親父が出てきたら俺は一緒にオーケストラの人達との打ち合わせに付いて行く。

 美羽は引き続き母親をよろしく頼む」



 すると、ドアが開いて唯月が出てきた。そのドアの隙間すきまから洋子が美羽を呼んだ。


「ねえ、美羽さん、ちょっと買い物に行ってきてくれない? これが欲しいの」

 洋子は雑誌の化粧品の画像を指さして言った。


「はい、今すぐに」

 美羽が裕星に目配せをして中に入ろうとすると、洋子は、美羽と一緒にいた裕星を目ざとく見つけて、ソファから立ち上がり急いで駆け寄ってきた。


「貴方、今日は唯月さんの手伝いで来たのね?」


「はい、今日はよろしくお願いします」

 裕星が頭を下げた。


 美羽はその様子を横目で見ていたが、洋子に「ねえ早く買ってきてくれる?」と急かされ、後ろ髪を引かれる思いで、何度も振り返りながら出て行った。



 ――裕くんが言ってたように、洋子さんは、昨日会ったばかりの裕くんを見て馴れ馴れしそうに、あんなに嬉しい顔をしていた。一体どういうことなのかしら? 美羽はザワザワと胸が騒いだ。

 



 一方、裕星は洋子に言われるがまま控室の中にまで引っ張り入れられてしまっていた。


「あ、あの、僕はこれからまだ仕事がたくさんあるので……」

 一礼して立ち去ろうとすると、洋子は鏡の前の椅子に無理やり裕星を座らせた。


「ねえ、今日のコンサート、もちろん見ててくれるんでしょ? 唯月じゃなくて私の事」

 裕星の肩に両手を置いて甘えるように聞いた。


「――え、まあ、お二人のことを見てます。それが俺の仕事ですから」

 裕星は冷たく言い放ったつもりだったが、洋子はそれを全く気にするそぶりも無く、更に裕星に顔を近づけ耳元で言った。


「私、このコンサートが唯月と一緒にいる最後かもね……」


 え? 驚いてガタンと椅子から立ち上がった裕星の胸の中に、洋子が突然抱きついたのだった。


 裕星は慌てて振り払おうとしたが、突然のことでどうすることも出来なかった。洋子は裕星の胸に顔を押し付け背中に腕を回してがっしりと裕星を捕らえてしまっていた。


「うわぁっ!」


 思わず裕星は声を上げた。母親に抱きつかれることなど子供の頃でさえ記憶にもない。ましてや、大人になってからなど当然なかったことだ。


 母親のか細い腕がこれ程強い力で裕星に巻きついているとは、子供の頃あんなに恋焦がれていた母の温もりが、今では吐き気がするほどの嫌悪感に変わっていた。


 裕星の悲鳴にも似た叫び声を聞いて、ちょうど買い物から戻って来た美羽が急いでドアを開けた。


「洋子さん、どうかしましたか?」


 するとそこで見た光景があまりにもおぞましかった。

 母親である洋子が、息子である裕星としっかり抱き合っているではないか。



「裕くん……?」

 美羽が後ずさりしてドアから出ていこうとすると、洋子が美羽に気が付いた。


「美羽さん、それをここに置いておいてってちょうだい。後はもういいから出て行ってね」

 洋子が裕星を抱きしめながら言った。



 美羽が立ちすくんでいる姿を見て、裕星は洋子の腕を乱暴に振り払い睨みつけたのだった。


 美羽はこの状況が呑み込めず両手で口を抑え震えていた。それは嫉妬とかヤキモチのような恋人に自然に湧く単純な感情ではなかった。


 ――裕くんが、洋子さんに恋をされて洋子さんと唯月さんが婚約前に別れるようなことにでもなったら……裕くんがこの世から消えてしまう。


 一瞬にして見えたこの恐ろしい未来図が美羽の想像を超えて訳の分からないほど大きな恐怖となって襲い掛かってきたのだ。


 美羽は蒼白そうはくになってふらつきながら出て行くと、裕星は洋子を振り向きもせず、この奈落ならくのような控室から一刻も早く外に出ようとしてツカツカとドアに向かって行った。


 すると洋子が裕星に声を掛けた。

「彼女、貴方の事知ってるの? 真っ青な顔をしていたわ。まさか、彼女の知り合いって貴方じゃないわよね? それとも、二人は付き合ってるとでもいうの?」と笑った。



 裕星はドアノブに手を掛けて少しだけ首を回して横目で洋子を見ると、「ええ、彼女は俺の大切な人ですよ」

 そう言ってドアをガチャっと開けた。


 しかし、そのとき最後に洋子が裕星の背中に走り寄って言い放った言葉が、裕星をこおりつかせてしまった。

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