第12話 素直でない若き母

 窓際の本棚にたくさん並べられた本やCD、そして、世界中のオーケストラのコンサートのポスターだった。

 ただ、それには『ソリスト:海原唯月』と記されており、そのポスターの一つはオーケストラをバックに裕星の父親がソロのバイオリンを華麗に弾いている写真だった。


「やっぱり洋子さんは……」


 美羽はぐるりと部屋を見回して言葉もなく心が震えていた。


「洋子さんは、本当はこんなにも裕くんのお父様のことを大切に想っていた。パンフレットやポスターも、それにこのCDも。まるで裕くんが洋子さんのポスターをずっと大切に持っていたみたいに……。あ、これは何かしら?」

 美羽がベッドサイドのテーブルの上にあった白いカバーの日記を取り上げた。




 ――日記みたいね……わっ、ダメよ! これを読んでしまったら、本当に私は罪を犯してしまう。他人のプライベートを勝手に覗いてはいけないわ。


 美羽は諦めて、日記をそっとテーブルの上に戻した。

 教会で育った美羽にとって、このマンションに侵入しただけでも大罪だと思っているのに、鍵の掛かった部屋まで開けてしまった上、洋子の大切にしている日記まで盗み見ることは出来なかった。



「仕方ないわ、とにかくこのポスターやCDだけでも大発見だったもの」

 そう言うと、そっとドアを閉めて鍵を掛けまた元の場所に戻しておいたのだった。




「裕くん、今日は何をしてるかな? お父さまとは話せたかしら? でも、私の方は全然進展ないし、このままだと悪戯いたずらに時間だけが過ぎてしまう。

 いつまでもこのマンションに身を隠していられるわけじゃないのに……どうしたら」


 リビングのソファーでため息をつきながらぼんやりしていたが、テーブルにあったテレビのリモコンを手に取って、何気なく電源を点けてみた。


 テレビのチャンネルをポチポチと回していると、




 <明日の午後2時より、国営ホールでナショナル交響楽団によるクラシックのコンサート中継を放送いたします。バイオリンのソリストは世界的に著名な海原唯月さん。歌のゲストはモデルで歌手の真島洋子さんです。

 二人は公私共に未来のパートナーとして交際されており、今回のコンサートはクラシックファンはもちろん、真島さんのファンも楽しみにしていることと思います。

 それでは、明日の国営総合テレビ、【素晴らしいクラッシックの世界】をお楽しみに!>


 アナウンサーが番組紹介をしていた。


「わあ、これって正に裕くんが今お父さまのお仕事場に行ってお手伝いしてるコンサートのことよね? そういえば、今日はリハーサルがあると言ってたわ。


 それに、洋子さんがゲストなんて知らなかったわ! 直前で決まったのかしら?

 これは願ったり叶ったりだわ! 二人が仕事場で顔を合わせることが私の願いだったから、神様の計らいかもしれないわね。


 裕くん、今日は上手くお父様に洋子さんのことを話せているといいんだけど……」



 するとちょうどそこに、玄関がガチャリと鍵の開く音がして裕星が帰って来た。

「ただいま……美羽、帰ってたのか?」


 美羽はサッと玄関まで小走りに駆けて行って裕星を出迎えた。


「裕くん、お帰りなさい! お疲れ様でした! ねえ、何か収穫あった? さっきテレビでコンサートの……」


「ごめん、今日はもう風呂に入って寝るわ」

 美羽の言葉を遮って沈んだ顔でバスルームに入って行ってしまったのだった。



「どうしたのかしら、裕くん。何か悪いことでもあったのかしら? お仕事でお父さまに怒られちゃったとか……?」


 美羽はバスタオルを持っていきながら、バスルームの前で静かに裕星に声を掛けた。

「あのぉ~、裕くん、大丈夫? 何かあったのなら、話してよ」


 しかし、裕星は黙ったままだ。

「裕くん、バスタオルここに置いておくね……」


 そう言って立ち去ろうとしたとき、ガチャッとバスルームの扉が開いて、裕星が裸のまま姿を現した。


「キャッ、裕くん、裸、裸!」

 立ち込めた白い湯気のお蔭でしっかりと全身が見えた訳ではなかったが、裕星がこちらに向かって来たので、美羽は慌ててくるりと背中を向けた。


「美羽、ちょっと話があるんだ」

 背中から裕星が美羽を抱きしめて言った。


「――で、でも、その前にちょっと服を着てよ」


「もしかすると、俺、大変な間違いを犯したかもしれない」

 裕星が独り言のように呟いた。


「裕くん?」


「俺は自分で自分を消滅させてしまうかもしれない」


 余りにもショッキングな言葉に、美羽は思わず振り返って裕星の顔を見上げた。


「それどういうこと?」


「いや、まだ分からないけど、今日、実は俺、母親と接触したんだ──。

 その時にどうやら親父より俺が気に入られたみたいでさ。まだそうかどうかは分からないが……だから、これ以上、俺が親父と一緒にいたら、必ずあの人はやって来て、親父を通り過ぎて俺にアプローチしようとするんじゃないかと……」


「どういうこと? 裕くん、もっと分かるように言って! どうして洋子さんが裕くんの方を好きになっちゃうの? だって、たった一日会っただけなのに?」


 裸のままの裕星の体が冷えてきて、裕星は両腕を擦りながら話し始めようとしたが、美羽はすぐそれに気が付いて裕星の身体にバスタオルを掛けた。


「裕くん、冷えちゃうから、お風呂から上がってからにしましょう。ちゃんと聞きたいから、まずはゆっくりお湯に浸かってきてね」

 裕星の広い胸を両手で優しく押してバスルームのドアを開けた。


 分かった──、と裕星は素直に美羽の言うことを聞いてバスルームに入ったのを確認して美羽はホッとため息を吐いたが、次の瞬間また不安に襲われていた。


 ――裕くんがあんなに取り乱すことなんて今までなかったわ。あんなに青ざめて動転していた。

 でも、どうして裕くんが洋子さんに気に入られることになったのかしら?



 バスルームから裕星が出てくるまで、美羽はリビングのソファで待っている時間が限りなく長く感じていたのだった。ソワソワしながらテレビのチャンネルを回してみても気もそぞろで何も観えてはいなかった。


 トレーナーの上下に着替えた裕星が頭をタオルで拭きながらリビングにやって来たので、すぐさま美羽はミネラルウォーターを冷蔵庫から出してグラスに注いで裕星に、ハイ、と渡した。


「裕くん、さっきのことだけど……洋子さんが裕くんの方を好きになったかもしれないって話、なぜそんなことになったのか教えて」

 美羽に先に切り出されて、裕星は口に含んだ水を音を立ててゴクリと飲みこんだ。



「実は……」

 裕星は今日あった出来事を美羽に話し始めた。


 美羽は初めはまさかそんなことが、と洋子がそんな単純なことで他の人を好きになるはずはないだろうと考えていたのだが、裕星の話が進むたびに、もしかすると、洋子は今、結婚前の不安定な精神状態、いわゆるマリッジブルーというもので、婚約者以外の他の男性につい心が動いてしまう女性もいると聞いたことがあったことを思い出し、それなのかもしれないと思った。


 ただ、マリッジブルーは一時的なものなので、本当に信頼し合っている婚約者が支えてくれさえすれば誰かに深入りせずに過ぎてしまうものだと、この時まではまだ軽く考えていただけだった。

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