第11話 秘密のドアの向こう

 洋子はホホホと笑って、裕星の顔を覗きこんで言った。


「ねえ、ハンサムさん、名前は何て言うの? 私の彼のことをそんなに褒めてくれてありがたいけど、私はちっとも嬉しくないの。だって、私には全く関係の無い事でしょ?

 それよりも、貴方の事がもっと知りたくなったわ。一体、貴方は何者で、どこに住んでいて、どんなご家系なのか」


 裕星は思わず吹き出しそうになった。――母は僕が息子だとも知らずに、僕を口説いているのだろうか? いや、たぶん、いつも男にする冷やかしなのだろう。昔から男を見ると恋愛の対象として見定めしてしまうような恋愛体質の女性だった。しかも俺はあなたの息子だ。

 貴女の質問の答えはこうですよ。


 裕星は心の中で答えた。


 ――俺は貴女の息子の裕星で、今は貴女の部屋に無断で住んでいて、そして俺の両親はいつも喧嘩ばかりだった貴女と海原唯月のことですよ。


 裕星はつい本当のことを言いたくなって思わずニヤリとした。


「僕は海原唯月の遠い親戚で海原星也かいばらせいやといいます。今は都内に住んでいます。ごく普通の家系ですよ」と答えた。


 洋子は裕星のはっきりしない答えを聞いてじれったくなったのか構わず続けた。

「貴方が唯月のところで働いているのなら話は早いわ。いつでも私と会えるもの。それに、私、まだ唯月と婚約するかどうか分からないのよ。まだ答えを出してないから、もしかすると、プロポーズも断るかもしれないでしょ?」


 今の洋子の裕星を見る目は、明らかに新しい恋が始まりそうなうるんだ目だ。



 ――断る?

 裕星はヒヤリとした。それは困る。俺がこの世から消えてしまうじゃないか。


 裕星が今気をかせて洋子に近づいたことで、自分で自分の首を絞めることになったかもしれない。



「どうして彼のプロポーズを断るんですか? 今までずっと彼の事を愛していたんでしょ?」

 裕星は思わず大声で叫んでしまい、周りの招待客らが驚いて振り向いている。


「あ、いや、俺の言いたいのは、どうして、そんなに貴女の事を愛している彼のプロポーズを断るのか、ということです。貴女だって今まで納得して彼と付き合っていたはずでは?」




 洋子は不思議そうに裕星を見て言った。

「どうしたの? 貴方の方が変よ。どうしてそんなに私たちの事にかかわるの? むしろ、貴方の方が私より彼のことを知ってるみたいな言い方ね」



「いえ、言い過ぎました。今日は失礼します。もう帰ります。貴女ももう一度考え直してください。彼は本当に素晴らしい人だし貴女を愛しているのは確かです」

 裕星はそう言って洋子に一礼すると、きびすを返しツカツカと足早にこの場から出ていこうとした。



「ちょっと待って! 貴女は私に何がしたいの? なぜ私達のことを知ってるの?」

 洋子が走ってくるなり裕星の右腕を掴んで引き留めた。



「真島さん、自分の本当の気持ちに気が付かないままで死んだら後悔することになると思いませんか? 人って死ぬ間際まぎわになって本当の自分を知るらしいです。


 もし、貴女が彼を本当に愛していることに気が付いたときに、彼がもうこの世からいなくなっていたらどうしますか? それでも、彼を大切に思えませんか?


 俺はそれを貴女に気付いて欲しくて来たんです。愛って、素直にならないと見えないものですよ。それは、以前貴女が言っていたことでもあるんです。『本当に好きな人に世界で1番好きだと伝えること』だと――。すみません、今日はこれで帰ります。失礼しました」


 裕星は自分の右腕をキツく掴んでいる洋子の手を振りほどいて、急いで外へと向かった。





 洋子はさっき出会ったばかりの男に、唯月は自分を本当に愛してるのだ、と聞かされ呆然として立ち尽くしていた。あの男と唯月が親戚関係だという真意は分からないが、なぜ熱心に彼を称賛し、そして自分への気持ちまで代弁していったのか……。




 ――あの人は誰? 唯月に似ていながら彼よりも真っ直ぐで純粋な目をしていたわ。



 洋子はなぜかさっき会ったばかり男が気になって仕方なかった。なぜか、どこかで会ったことがあるような懐かしい気持ち、まるで自分の肉親への感情に似た親しみや愛おしい感情まで襲ってきた。

 洋子は、こんな気持ちになったのは初めてだった。



 洋子の元からコンサート会場に戻ってきた裕星は、もう11月の肌寒い季節だというのに汗びっしょりになっていた。もしかして自分が失態しったいを犯したのではないか、と何か嫌な予感がしたのだ。

 母は自分の訴えを分かってくれただろうか。裕星が人と話すことが苦手なのは父親譲りだった。自分の言葉足らずで、高慢な母親に父親の良さが通じたのだろうか?


 いや、まだまだだろう。母は、父親のことを見直してくれたわけじゃなく、息子である自分の方を口説き始めたくらいだ。

 ――このまま行ったら、恋多き母が好きになるのは父ではなく……俺になってしまう。


 裕星はそんな最悪な事態を考えて、ブルルと頭を振った。


 ――いや、それは考え過ぎだろう。そんな気持ちの悪いことは考えないようにしないと……。それよりも美羽は今頃上手くやってるだろうか。あの場所にいなかったということは、今頃はもうマンションに戻っているのかもしれないな。



 裕星は舞台の袖で、まだオーケストラとの調整をしている父の横顔を見ていた。

 父も、今ここに、子供のころに置いてきた息子がいることなど全く分かっていないだろう。

 でも、いくら本当のことを言っても当然のことだが、信じてもらえることはない。ああ、これからどうすれば親父と母親がお互いを理解し合えるのだろうか?

 舞台のカーテンの片隅で、裕星は頭を抱えて唇を噛んでいた。






 *** 洋子のマンション ***



 美羽は、今朝、洋子の事務所に出勤したものの、今日は洋子が恒例の食事会をしていると聞かされ、わざわざ行った甲斐なくすぐに戻ったのだった。


「裕くんはどうしてるかしら? ケータイがないって、本当に不便ね。もうこうなったら、こっちでケータイを買おうかしら? ああダメだ。そんなお金ないもの」

 美羽は一人でブツブツ言いながら部屋のあちこちをウロウロしていると、一番奥の部屋のドアをまだ開けていなかったことに気付いた。



「ここは洋子さんの部屋かしら?」

 美羽は誰もいない部屋のドアノブに恐る恐る手を掛けた。しかし、この部屋だけはなぜか鍵がされていてピクリとも動かない。

 美羽は諦めるどころか、この開かずの扉の中をもっと知りたくなってしまった。

 玄関の収納棚を探っても鍵は無かった。


「どこにあるのかしら? でも、こんなことして、私、まるで泥棒みたい……。でも、もしかすると、洋子さんと海原さんをもっと深く繋げられる何かヒントがあるかもしれないわ。

 躍起やっきになって、キッチンやリビングの戸棚という戸棚を全部開けて手さぐりで鍵を探していた。



「あ、あった!」


 美子が探し当てた場所は何とトイレの小さな収納ケースの中だった。


「まさかね、こんなところに置くなんて……これじゃきっと家政婦さんも見つけられなかったはずね」


 なぜか罪悪感よりも、見つけた喜びの方が大きくて、美羽は我を忘れて洋子の秘密の部屋のドアをはやる気持ちを抑えて鍵を差し込んだ。



 カチャッという音で開いたドアの向こうは、真っ暗だった。部屋の壁を探ってスイッチを付けると、目の前に見えたのは意外なものだった。

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