第10話 若き恋多き母親
建物に入ると、大きなガラス越しに見える中庭で、大勢の招待客がシャンパンやワイングラスを片手に歓談している光景が目に飛び込んできた。
数台の長テーブルにはたくさんの料理が並べられ、ビュッフェ形式になっている。
どの顔も全く知る由もなかったが、ふと見覚えのある顔とすれ違って、裕星は驚いて振り向いた。
それは母の秘書の、まだ若かりし川谷だった。
「川谷さん!」
裕星は思わず声に出して呼び止めてしまった。
「え?」
名前を呼ばれて振り向いた若い男は、まだマネージャーというよりも付き人の一人として母親の元で働いているようだった。どうやら今も母に頼まれた雑用で
「あの……どちらさまでしょうか?」
川谷が恐る恐る裕星に訊いた。
「あ、すみません。前にあなたが真島さんと一緒にいるところを見かけたとき、真島さんがあなたの名前を呼んでいたので──」
裕星はなんとか
「真島さんは今どちらにいますか? 川谷さんは、今日も真島さんに何か用事を頼まれているんですか?」
「はい、実は私はこれから真島さんに頼まれたワインを
「ワインを、ですか?」
「はい、年代もので、昨日ご自分で注文されていらっしゃって。
「ああ、それなら僕が行ってきますよ。そのワインを取りに」
「え? そんなこと見ず知らずの方に任せられません」
「僕は
「そ、そうでしたか? そ、それじゃ、お願いできますか? 私はまだ他の仕事があって……」
川谷は、裕星をジロジロ見ていたが、裕星の
裕星は絶好のチャンスを掴んだ。招待券もなく、ここから先へは入れない。となると、ワインを届ける名目さえあれば、なんとかなると踏んだのだ。
裕星が
「すみませーん。真島さんの使いのものですが、あのワインを取りに来ました」
厨房のコックに声を掛けると、奥からコック長らしき小太りの中年男がやって来て、怪しげな目でジロリと裕星を見た。
「おや? 今日は川谷さんじゃないんですか?」と
「え、と、あの、代わりの者ですが……」
しかし、裕星をしばらく睨んでいたコック長の目付きが急に変わった。
「ああっ、もしかして、海原さんですか! これはこれは 大変失礼いたしました! まさか、ご婚約者の海原さんがいらっしゃっているとは知らずに……。
こちらが真島さまがご注文されたワインです。私どもが会場にお持ちいたしましょうか?」
かなり怯えたように
「いえ、自分で持っていきますよ。ありがとう」
裕星は父親を真似て、スマートに軽く右手を上げ、ワインを受け取った。
――よし、これを母に直接渡しに行ける。話しの切っ掛けができるな。
裕星は胸の鼓動が速くなってきたことに気付いた。自分の母に会うのに、どうしてこれほどドキドキしてるのかと自分でも可笑しくなって笑えた。
しかし、もし万が一しくじって、不審者扱いで追い出されでもしたら元も子もない。その緊張感のせいもあったからだ。
すると、背後から声がした。
「あら、川谷くん、ワインを持ってきてくれたのね? それをグラスに注いでくれる?」
裕星が驚いて振り向くと、「あっ!」と声を上げた洋子が片手で唇に触れたまま、裕星を見つめている。
「あっ、ご、ごめんなさい。てっきり川谷くんかと……。でも、そのワイン、私が注文したドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティの赤(※)よね?」
「ええ、そうです。ロマネ・コンティです。あの、僕は川谷さんの代わりに持ってきただけですが……、もし良かったら、僕がグラスに注ぎましょうか?」
裕星は、近くのテーブルにあったワインオープナーをサッと取り、馴れた手つきでクルクルとワインのコルクにねじ込んで、キュポンッと綺麗な音を立てて
そして、用意されていた複数のワイングラスに注いで、その一つを取り上げ、洋子にどうぞと渡した。
洋子は不思議そうな顔で裕星の動作をじっと見つめていたが、
「貴方、どこかで会ったような顔ね。――さっきは、ある人によく似ててビックリしたのよ。……ああ、でも、彼よりももっとハンサムかもね」と微笑んだ。
――良かった。俺は母に気に入られたらしいな。
裕星も洋子の笑顔を見て胸をなで下ろし、微笑みながら「それでは、僕も頂いてもよろしいですか?」と図々しさを承知で訊いた。
「あら、どうぞ、ハンサムさん。そういう貴方は一体何者なの?」
案の定、母は裕星に興味を持って話しかけてきた。
「僕は遠くから来たんですが、こちらに知り合いがいまして、今はそこで働いています。真島さんのことはよく知っていますよ。歌手でカリスマモデル、それに
裕星は一気に話し始めた。
――お母さん、覚悟はいい? 親父とのエピソードも聞き出して、親父の事を惚れ直させるからな。
「あら、よくご存知ね。貴方、私のことにとっても詳しいのね? 週刊誌でも読んだの? そんなに私に興味があるのかしら? ふふ、私も貴方に興味を持ったわ。もう少し二人で話さない?」
そういってワイングラスを寄せてきたので、裕星も自分のグラスを当てて乾杯をした。二人は近くの椅子にかけると、早速洋子が裕星の方へ体を向けて話し始めた。
「貴方、遠くから来たって言ってたけど、見たところ田舎者ではなさそうね。若いのに上品だし、作法もしっかりしている。それに、こういう社交界にも馴れた感じね? 貴方のご両親はご立派な方なんでしょう?」
「ええ、それはもう。僕の両親は立派な人たちですよ。ただ、良い親だったかと言ったら、それだけは疑問ですがね」と笑った。
「まあ、そうなの? 貴方、私とあまり変わらない年だと思ったけどいくつ?」
「24です」
「あら、じゃあ私より少し年上ね。なのに、どこかとってもスタイリッシュっていうか、近未来の都会人って感じ。すごくスマートな立ち振る舞いで驚いたわ。
それで? 貴方のご両親はどなたなの? そんな立派な方なら、もしかして私も知っているかもしれないわ。
それに、貴方って私の彼にとても良く似てるわ。でも、彼はとても
目を伏せてふふふと笑った。
初めて若かりし頃の母親を間近で見たが、若い時から相変わらず美しく魅力的な女性だったんだなと思った。しかし、派手で自己中心的なところは今と少しも変わってはいなかった。
血の繋がっている母と言えど、裕星にとっては一番苦手な女性のタイプだった。
「僕の両親は……貴女のよく知っている人です。でも、これはプライバシーなので敢えて言わないでおきましょう。
ところで、僕は海原さんのところで今雇ってもらっているんです。
彼は本当に素晴らしい方です。僕は彼の人間性と、彼の仕事に憧れています」
裕星は昨日会ったばかりの若い父親のことを誇らしげに洋子に伝えた。
「――あら、そうだったのね? 彼、海原唯月は仕事は一流だけど、少しも私の気持ちが分からない人よ。
だから、私が他の男性にうつつを抜かしても気にも掛けやしないわ」
洋子が苦い顔をして眉をひそめた。
「本当にそうでしょうか? ほんの短い期間ですが、彼を知って、僕はかなり良い影響を受けましたよ」
本当は裕星はこの時代でまだ一日しか会っていない父のことを、昔の父親の思い出と重ねながら語っていた。
(注*ブルゴーニュの北部、コート・ド・ニュイ地区にある『ヴォーヌ・ロマネ村』で生産されているワインの品種。最高級ワインの代表で1本の平均価格は約165万円だそうです)
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