第2話 死というもの

 看護師長は、洋子から伝えられた言葉を一字一句逃さず正確に伝えようと、まるで洋子が今ここで話しているかのように語り始めた。それはこういう話だった。





『私ね、息子が一人いるの。でも、私、全然子育てなんてしてなくて、ほったらかしっぱなしだったから、彼には本当に可哀そうなことをしたわ。


 今ね、とっても後悔してるのよ。ああ、息子の事じゃないの。彼は今ではもう十分立派になって、私より大人だし、もう愛する人がいるらしくてね。親が無くても子は育つって本当よね。


 後悔してるのは私の主人の事。こんなこと貴女に言うのも変だけど。でも、もしかすると話ができるのは今が最後かもしれないから……どうしても誰かに聞いておいてもらいたいの。


 主人と出逢ったのも訳ありなのよ。若い頃、私には主人とは別に片想いの人がいて……実らない恋をしていたの。何をしても彼には振り向いてもらえなくて、辛くて……そんな時、私の目の前に現れたのが主人だった。


 主人はきっと運命の人だったのね。なのに、あの時の私は若すぎて分からなかったわ。片想いの彼に告白して、彼には大切な女性がいると分かって失恋した日、あれは雨の日だった――。


 あの頃の私は、筋金入りのワガママ娘だったから、失恋の痛手に耐えきれずに、テレビ局の番組をボイコットして出て来ちゃったことがあったの。走って局を飛び出した私と出会いがしらにぶつかった人……それが主人だったわ。


 彼は有名なヴァイオリニストで、まだ若いのに当時から世界でも活躍していたのよ。世間では冷血で自他共に厳しい人で有名だった。でも、私にとっては本当に優しい温かい人だったわ。私といる時にだけ見せる無邪気な笑顔をきっと誰も知らないわね。

 いつしか失恋の痛手を忘れかけていた頃、彼からプロポーズを受けたの。


 その時もね、実はいざこざがあったのよ。私は恋多き女だったから、私のことをいつも気にかけてくれていた、彼によく似たステキな男性に出会ってしまって、また恋をしそうになった――ふふ、ダメな私ね。酷い寂しがり屋なのよね。

 でも、結局、私は主人と結婚したわ。それから間もなく息子を授かったの。



 でも、あの頃の私には変なプライドがあった。そのせいで、結局は二人の気持ちが離れてしまって、また喧嘩が始まって……息子が生まれて数年で別れてしまった。

 でも、あれから彼は、私が知らない間に息子に会って何度か遊んでくれていたことを息子から知らされたわ。


 あれから10年くらい経った頃だったかしら、私と別れて海外に移り住んでいた彼が、突然の事故で亡くなったと知らせがあったの。なのに私は息子を可愛がることもせず、いつも息子に彼の愚痴ばかり聞かせていたわ。


「そういう無口なところが、父親の遺伝よね」って……。本当に酷い母親だったわ。彼が亡くなってからは、彼のことを考えないようにしていたのよ。


 彼と結婚する前、何度か私に聞いてきたことがあったわ。

「君は本当に僕を好きなのか?」って。でも、そのたびにはぐらかしてた。あの時、彼は私の心が自分にないと思って絶望していたに違いないわ。


 でも、これだけは言えるの。どんなときも、他の誰かに恋をしていた時も、やっぱり最後は彼のところに戻って行きたくなるの。たとえ彼が私のことを好きではなく、同情で結婚してくれたとしてもね。

 だから、彼が亡くなる前に、私、一言でも言っておくべきだった。「あなたを世界で一番好きなのよ」って。


 ふふふ、こんな乙女みたいなお話退屈だったでしょ? でも、誰かに聞いて欲しかったの。こんなに急に死と対面することになって初めて慌てても無駄よね? でも、私、後悔したまま死ぬなんて嫌なのよ。


 え? 息子に言えばって? ホホ、それは無理よ。私、そんなに素直じゃないから、息子にはまだ正直に言えないわ。あの子には父親の話もしたことないの。どんな人だったのかも。


 いつまでも意地を張ったままの冷たい母親で最後まで通すつもりよ。だって、こんなに後悔してることを息子に聞かせても、彼を困らせるだけだものね』






「──そう言って、悲しそうに笑っていらっしゃいました。でも、お母様の気持ち、息子さんにはどうしてもお伝えしたくて……。お叱りを受けるなら喜んでお受けしますから。どうか、お母様の気持ちを分かってあげてくださいね。

 息子さんのこともお父さまのことも、本当はとっても愛していらっしゃったんですね」


 そう言うと、看護師の女性は深く頭を下げ、急ぐように治療室へと戻って行った。




「裕くん、真島さんは本当は裕くんのお父さまのこと、大好きだったのね。そして裕くんのことも。今こんなことになって、言葉に出しておきたくなった気持ち、よくわかるわ。

 ご自分の命のことで深刻になっていらっしゃったのね。

 ――ああ、神様、どうか裕くんのお母さんをお守りください」

 美子は制服の胸の十字架を握りしめて祈った。




 裕星は、何も言わずじっと目を伏せていたが、「今はお母さんが生き抜いてくれることを祈るだけしかないな」とため息を吐いた。




 裕星と美羽は、改めて後日洋子が個室に移されるまで、自宅で待機することを余儀よぎなくされた。

 しばらくは身内さえも面会謝絶となるので、どうあがいても仕方のない事だった。


 美羽は毎日の早朝ミサの時に誰よりも長く祈りを捧げていた。

 あれから一週間あまりが経った頃、裕星からやっと連絡が入った。洋子が個室に移されたのだ。



 取るものも取らず慌てて病室に駆けつけた美羽は、最上階にある個室のドアを静かにノックした。


 そっとドアを開けると、ベッドの脇に座って心配そうに母親を覗きこんでいる裕星の姿が見えた。


「裕くん……」

 小さい声で呼んだ。


「さっきここに移されてきた。一週間も経つのにまだ意識が戻らないんだ。

 あれからどんどん体力が落ちてきていると医師に言われた。このまま意識が戻らなかったら危険だって──」


「そんな……」

 美羽がそっと洋子に近づいて枕元を覗きこむと、洋子はまるで死人のような血の気のない顔に真っ白な唇で眠っていた。

 腕には点滴のチューブが痛々しく繋がれている。喉元まで手術の後を物語るように包帯がされ、食事をとることが出来ないために喉にもチューブが繋がれていた。


 ああ……、美羽は目をつぶって唇を噛んだ。

 このまま亡くなってしまったら、真島さんはきっと後悔したままだ。誰にも愛された思い出がないままなんて可哀そうよ! 美羽は決心したように瞼を開けると、裕星を真っ直ぐに見た。


「裕くん、お地蔵様のところに行きましょ!」

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