第二十七話 俺と一世一代の告白について

 振り返らずに走って、走って。

 二人とももう走れなくなったところで、揃ってへたり込む。後ろから誰かが追いかけてくる気配は、今のところない。大の字になって倒れこんだ流星は、頭だけを何とか起こして、星空を気遣う。

「だ、大丈夫?」

「はぁ、はぁ……銀くん、足、速すぎ。ちょっとは、私に気を使ってほしいな」

 いつになく疲れた不機嫌そうな視線に、流星は思わず狼狽。

「ごめん! とにかく逃げないと、ってそれしか頭になくて」

「もう、私が途中で倒れたらどうする気だったの」

 なおも追及する星空に、流星は一瞬逡巡して、

「俺が抱えて逃げてたよ」

 と、顔色一つ変えずに言い放つ。

「はあ、そう考えてくれていたなら怒れないな。ごめんなさい、勝手なこと言って」

「そんな、気にしないでよ。そもそも俺が勝手に行ったんだし……とにかく無事でよかった」

 緊張の息を切らして大きなため息をつく流星に、星空は軽く口元を綻ばせる。

「ところで銀くん」

 しかしその笑顔は、流星の目に留まる前に真剣な表情の裏に隠れ。続く言葉を待つ流星に、一息ついた星空は、腰を九十度近く曲げて頭を下げた。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」

「ちょ、天文台さん、なにを」

 突然のことに狼狽を隠せない流星に、頭を下げたまま、星空は静かな謝罪の言葉を続ける。

「私、貴方に酷いことを言った。貴方の努力を無駄だって嘲笑した。貴方を見下した。謝っても許されることじゃないけれど、せめて謝らせてほしい」

 ただ慌てていた流星は、その言葉を確かに聞いて、もう一度、頭を下げる彼女の姿を見た。その肩は小さく震えていた。

 自信過剰でもなんでもなく。彼女は自分を傷つけたことを心の底から後悔しているのだと、流星には実感された。

「許すよ」

 だから、躊躇いなく言えた。

 決して軽い言葉ではない。同情でもない。好感度稼ぎでもない。

 だけどそれは、相手が天文台星空だからだ。

「正直言って、すごくショック受けたし腹も立った。けど許す。俺が、そうしたいから」

 夢も希望も分からなくなって、ただ生きているだけだった自分。そんな自分に、もう一度炎を灯してくれた人。

 彼女がそれを知らないとしても、自分にとっての恩人であることに変わりない。だから、たとえどんなに道理が通らないとしても、許したいから許すのだ。

「……ありがとう」

 ゆっくりと頭を上げて、しっかりと彼に目線を合わせて、星空は応えた。それで。すべては片が付いたことだった。

「ところで銀くん」

 もう一度、同じ言葉で星空が口火を切った。

「『一番星』、だっけ。私はそれを取られそうになっていた、らしいけど」

 使い慣れない道具を手探りで用いるような慎重さで、星空は流星に問う。

「それを無くしたところで、私にはメリットしかないと思うの。遠慮することなく一番を目指して努力できるようになるわけでしょう」

 その言葉に棘はなく、むしろ、流星が知る全ての記憶の中より穏やかなもので。けれど、話の内容に集中している流星は、残念ながらそれに思い至ることはなく。

「どうしてそれをわざわざ止めに来たの? それとも、身の安全の心配が勝ったのかな」

 提示された単純だが重要な質問に、流星は何とはなしに答える。

「そりゃあ、もちろん無事かどうかも気になりはしたけどさ」

 視線が合う。普段なら恥ずかしくて目を逸らしてしまうところだったが、今の流星に不思議とそんな気は起らなかった。

「だって、嫌いでしょ。そうやって、他人が自分の人生に口出してくるの。都合が良いとか悪いとか、関係なくさ」

 ここに至って、星空は内心、本当に驚かされた。

 銀流星。彼の、どう考えたって押しつけがましい説得を、私は嫌だと思わなかった。いや、嬉しいとすら思ったのだ。

 その理由は、きわめて単純なもので。

(ああ、そっか。私)

 私の周りには、本当にいい人しかいないけど。その中でも、彼が一番私のことを、無意識のうちに理解していて。

 そうして。


(君のこと、結構好きだったんだ)


心の底から嫌いだなんて、くだらない噓をついてしまったことだ、と思う。

 確かにその瞬間はそう思っていたのかもしれない。けれど私は、何度も何度も何度も私に挑戦してくる彼の姿に、どこかで希望を感じていたのだ。

 いつか彼が、私に勝ってくれたら。私も運命を覆せるような、そんな気がして。

「そういえば天文台さん、俺からも伝えておくことがあって」

 ふと、思索の中に沈んでいた意識が引きずり戻された。考えていることを気取られないよう、平静を装う。

「いのりちゃんのことなんだけど」

敵意や冷たさは感じないが、先ほどまでの穏やかさが消えて無表情に近い様子の星空。流星はそれを、彼女にとっての大きなトラウマとも呼べる親友の名前が出たことによると解釈する(実際それは九割がた正しいわけだが)。

「お見舞いに来てほしいって」

 そして、それでも伝える。彼女が、星空に伝えてほしいと願った言葉を。

「……それ以外にも、何か言ってたよね?」

 星空の視線は、流星の中にその答えを探すかのように、尖ってはいないが鋭かった。

「言ってた。けど俺からは言えない。直接聞いてくれ」

 それでも、流星は譲らなかった。それは、それだけは譲ってはいけないことが分かっていたからだ。しばしの膠着状態を経て、ふう、と星空が一呼吸ついた。

「分かった。ありがとう」

 端的な言葉だった。それでも、流星はそれでよしとして、確かにうなずいた。


「ところで、最後に銀くん」

 再々度なんとなしに呼びかけられた名前に、流星は首をかしげる。

「なに?」

「『俺の好きな人』って、あれ私のことだよね」

「は、はひぃい!? あ、あんな極限状況下での発言をしっかり記憶してる!」

 比喩表現でもなんでもなく、五メートルばかり流星が後方に吹き飛ぶ。

 星空は遠慮なく、尻餅をついて震える子兎を追い詰める。

「私のことだよね」

「ぎ、疑問符がついていないタイプの言い方!」

「違うの」

「ち、違いません!」

 ある意味先ほど以上の極限状況下で、流星はあまりに難しい判断を強いられた。

 即ち。思いを告げるか否か。

 流星が選ぶ答えは一つ。

「銀流星は、天文台星空さんが好きです!」

 銀流星には、前進あるのみ。

 明日がいつも通り来る保証はどこにもない。つかみ損ねたチャンスが転がってくる確証はどこにもない。泥だらけでも、痣だらけでも、何の準備もできていなくても、今言うべきならば今言う、変わっているかもしれないけれど、それが、誰よりも輝く少女に誰よりも憧れた少年の生き方なのだ。

 それに。その思いを告げる覚悟は、ずっとずっと前から、とうに決めてしまっていた。


 一世一代の大勝負を受けて、星空はいつもと同じように笑う。



「ありがとう。でもごめんなさい」



「溜めるまでもなく即答!?」

 釣られて流星が笑みを浮かべる間もなく、初めての告白は撃沈。

「単純に、恋愛的? にはタイプじゃないの。銀くんのこと」

「あまりにシンプル、ゆえに言い返しようがない!」

 思わず頭を抱えてその場にうずくまる流星。

 大きな体躯が折りたたまれる姿に星空の顔はまた綻んだが、流星はそれに気づかない。

「ど、どこがダメかな。俺星空さんのこと好きだから、頑張って直すよ」

 真っ白になりそうなほどのグロッキー状態で、それでも流星は必死に顔を上げる。

 表情はガチガチに硬い苦笑い、目元には涙が浮かんでいるが、まだ諦めていない様子。



「どこがというか、全体的に?」



 それも、想い人の一言で完全に砕かれる。

 死を目前に煩悩から解き放たれたごとく、微かな喜色すら讃えて、流星は動かなくなった。

「銀くん。こんなところで座り込まれたら、一緒にいる私まで不審に思われる」

「ごめん天文台さん。俺には今、俺を動かすだけの燃料がないんだ」

 顔をつんつんとつつかれても、流星は微動だにしない。

 彫刻のごとく、下された審判と静かに向き合っている様子。

「いや、断った私が何か言える立場でもないけど――――」

 そうして、星空が何か言いかけたことを知ってか知らずか。

 わずか十数秒の静止の後、流星は勢い良く立ち上がる。

「燃料、復活した!」

「えぇ……。さすがに切り替えが早すぎるでしょ」

 振った張本人であるにもかかわらず、星空の口からは自然とそんな言葉が出た。

 まるで、何か思うところがあるかのように。


「俺諦めないから。天文台さんのこと、大好きだから!」


 真っ直ぐに星空の方を見据えて。

 流星は、この上ないほど真剣な表情で言ってのける

「本当に、しつこい人。私、そういう人タイプじゃないんだけどな」

「ごめん、でも俺そういうタイプだから」

 悪びれもせずあっけらかんとする流星に、また、星空の表情が緩む。

 流星はそれを、初めてしっかりと見る。

「あ、」

 思わず声が漏れた。

 不思議そうな顔をする星空に、流星は慌てふためく。

「こ、ここまで来たら大丈夫だろうし、そろそろ帰ろうか。星空さん、大丈夫? 送っていった方が――――」

「これは本当に偶然なんだけど、家、すぐそこなの」

「ですよねー」

間髪入れずに笑顔でシャットアウトする星空に、流星はもはや慣れたもので。けれどそれは断じて、諦めに起因するものだはなかった。

「じゃあ、また明日からもよろしく。おやすみ!」

 言いたいことだけ言い残す形で、流星はそのまま走り去っていく。先ほどまで全力疾走とは思えないほど、その背中が遠ざかるのは速く。それは流星が、星空の体力を考慮して走っていたことを意味するわけで。

 そして、それが分からないには、天文台星空という少女は聡明すぎた。


「……本当に変な人」


 すぐに遠くなっていく背中に、星空の視線はやや冷たい――――と、彼女自身は思っている。

 そうして、その背中が完全に消えて、夜の肌寒さが気になりだしたところ。

 星空もまた、帰路につく。

 客観的には、いつになく満足げな表情で。


「あんな、王子様みたいに助け出しておいて、惹かれない訳ないじゃない」

「お友達からなら、って言いたかったのに。せっかちだな」


 その言葉を聞いていたのは、都会の空に小さく光る一番星だけだった。

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