第二十六話 兎と狗の諍いについて
「――――いや、奴らの言うとおり。『星』の光は、必ず彼らの身を焦がす」
そうして、前触れなく。秋晴にとっては聞き馴染みのある声が、後方から届いた。
ゆっくりと身を翻すと、工場の壁にもたれかかるように、前髪で目を隠した青年が姿を見せていた。一つ普段と様子が異なるのは、その手に握られたナイフ。
あまりにも自然に彼の容貌によく馴染んだそれが、なんら違和感を抱かせないでいること自体が異常。
「なんですか、仕事の失敗を責め立てに来ました? それとも始末ってやつかな、いやーんこわーい(はぁと)」
秋晴は特に恐怖を見せるでもなく、青年の方に近付いてみせる。口ぶりもいつも通り。表情は既に、いつものように完全に計算された『穂積秋晴』の笑顔で、ただその目だけは既に何かの覚悟を決めていた。
青年はじっと秋晴を見つめると、無造作に右手を持ち上げ、ナイフの切っ先を秋晴に向けた。雀とでも戯れるかのような深い感慨も意図もない動き、それに見合う特別な感情のこもらない表情。
青年はそのまま、何かの言葉をかけることすらなくナイフを振りかぶり、横一文字に一閃、迷いなく振り抜く。
斬。
「これくらいで君を切れるほど、人材が潤沢じゃない。有事の際に備えて」
秋晴の前髪が数ミリ、はらりはらり、と舞って落ちていく。
「……髪は女の命、って知らないんですか?」
己の首がしっかりとつながっていることに内心安堵しつつ、秋晴は平然と虚勢を張ってみせる。
「だから。この方が、似合ってる」
青年の口元が、場違いにも穏やかな微笑みを
一陣の風が吹き込み、ほんの一瞬青年の前髪の間から覗いた双眸は、口元の笑顔とは不釣り合いな鋭い視線を飛ばしていた。
先ほどの言葉とは違い、秋晴を切ることに何らの躊躇もない、切るのが首だろうと前髪だろうと大差はない、そう感じさせるほど狂気的に理性的な仕事人、秋晴以上に組織への忠誠が深い番犬。
だが同時に、そこには個人的な強い意思もない。少なくともこの場で首が飛ぶ心配はなさそうだと、秋晴は推察する。
だからこそ、秋晴にはまだ青年に問うべきことがあった。孤児として『夜空』に拾われ、その手駒として育てられてきた自分、その自分以上に組織の最奥に近い部分で暗躍するこの青年に。
「『二番星』の回収はしくじって、あげく向こうと揉めたのに許されるとは。『
青年の笑顔に揺るぎはなかった。秋晴の命をいつでも刈り取れたはずのナイフを手にしたまま、秋晴には見えない視線を中空に漂わせて答える。
「失ったものは、確かに大きい。それ以上に、得たものが大きい」
バスケットボールかのように、人差し指を支点にしてナイフを回転させる青年。その視線は、崩れつつある工場をゆっくりとなぞるばかりで、手のひらで回る凶器には僅かな注意すら払われることはない。
「『二番星』の想定以上の機能。『一番星』とのコネクション。両者が近しい間柄なのも、極めて稀」
やや上機嫌に並べ立てられる言葉は、しかし人情といった温かみのない、人を徹底的に商品として考えるビジネスライクなもので。隠れた視線が見据える先に、秋晴は軽い薄ら寒さを覚えた。
「偶然、けど結果論として僥倖。『
そして。その酷薄さとはあまりに不釣り合いな、同じ組織の仲間に対する親愛の情。裏にどんな意図が含まれているにせよ、その気持ちそのものには僅かな不純物もなく。その強烈な違和感を前に秋晴は思う。彼の中で人間は、二つに分けられているのではないかと。
一つは大切な組織の仲間、もう一つはそれ以外。
「この短時間でそこまで計算済みとは。いやはや、恐れ入ります」
けれど、あえてそれを指摘することはない。その指摘の正誤にかかわらず、そういった彼の態度が変化することはない、長い付き合いの秋晴にはそれが分かる。なれば、指摘するだけ無駄というもの。
「秋晴ちゃん」
ふと、昨日の夕食やテレビ番組についてでも尋ねるような気さくさで、青年が秋晴の名前を呼んだ。振り向いた青年の視線はやはり秋晴には見て取れなかったが、自分を真っすぐに見据えている気がしてならなかった。
「『二番星』、別に同行させても良かったはず」
春が来て暫く経ったが、夜は少し肌寒さが残る。壊れた入口から一際強く吹き込んだ風のせいか、秋晴の背筋が凍りつく。
「そうしなかったのは、君の個人的な――――いや。星に眼が眩んだ感情によるもの」
その指摘は、ある意味刃物や銃弾よりも強烈だった。組織にとっての秋晴の役割は、人の感情を自由に、それも違和感を持たせることなく操作する
星の光で以て人を導く先導者、そんな秋晴が逆に星の光によって感情に干渉されたと、そう認識しているのは青年なのか、それともそれよりもっと「上」なのか。いずれにせよそれは、秋晴という人間の『夜空』における重要性と価値、その根本に対して疑念が生じていることに他ならなかった。
「期待しているからこそ期待したくない。見届けたいからこそ見届けたくない。愛しいからこそ怖い。それ自体は、普通のこと」
青年の言葉は、変わらず軽い口調のままだった。大学生同士で先輩が後輩に恋愛のアドバイスでもしているかのように。その気軽さが、秋晴にはどうしようもなく恐ろしい。この青年は、秋晴を大切な組織の仲間として数えているのだろうか。共に過ごしてきた数年間を、既に過去にしてはいないだろうか。
「『二番星』が『導の星』を撥ね退けたのは、『一番星』との間に起こった相互作用。君が思うほど、ロマンチックなものじゃない」
そんな懊悩を知ってか知らずか、青年は平然と言葉を続ける。秋晴自身が無意識に思い当たり、意識的に思考を止めていた部分。
「銀流星を拒絶する、という天文台星空の願いを叶え続けていた『一番星』は、彼女の願いの変化に応じて最も望む結末を招いた」
抜き身のナイフが、差し込む月光を返して微かに輝く。いや、あるいは、それは月光よりも眩い一番星の輝きだったのかもしれない。
すなわち、銀流星が穂積秋晴による干渉に抗って天文台星空への強い感情を見せられた理由は――――
「君が彼の味方をしたのも、『二番星』の強烈な輝きに目を眩まされただけ」
そんな秋晴の内心をまるごと見透かしているかのように、青年は気安く笑う。普段の演技が剝がれ落ちて、剝き出しの険しい表情が浮かんでいることを指摘することもなく、ただ、愛想よく笑う。
「女の子だから仕方ないけど、夢は見ない方がいいよ」
そんな、あまりに酷薄でどこか物騒な言葉で以て締めくくって。青年はようやくナイフを鞘に納め、曲芸師のように器用に掌で弄んだ。星の光に目を眩まされた同僚にして後輩に対する、ある種の警告のようでもあった。善意でもなく、悪意でもなく、ただの忠告、そんな色彩のない言葉。
「……そうかもしれません」
しばしの沈黙の後に口を開いた秋晴の顔に、先ほどまで浮かんでいた焦燥はもう認められなかった。隠れた青年の目元には、先ほどまではなかった怪訝な色が宿る。落ち着きを取り戻しているはずだというのに、秋晴の顔はいつもとどこか違う。
言動を含め、構成する要素全てが完璧に作り上げられ綻びなく、長く共に過ごすものにとってはそれ自体が強烈な違和感をもたらす、それが秋晴という女性だった。だが今は、何を意図しているのか不明瞭な表情で、それがまるで、ありのままの感情を包み隠さないただの人間であるかのようで。
青年の言うことは正しい。星の光に導かれて、あるいは振り回されて生きる人々を、秋晴も多く見てきた。そして彼らの大半は、いや、ただの一人として――――星の光を跳ね返すことはできなかった。
人知を超えた輝きに、人は決して抗えない。
正論や理屈の上で、同僚の言葉を否定できるほどの材料を、秋晴は持ち合わせていない。どころか、彼女自身のうちにある記憶と記録の大半は、むしろ青年の言葉を補強するものでしかなかった。
「それでも」
これまでに散々見つめてきた、そうして利用してきた現実の重みを感じながら、秋晴は毅然と答える。自身の身勝手さにおかしさすら感じて、その上で、なおも自身を衝き動かすものが、なにか芽生えてしまったから。
星の光に負けない輝きを放ってみせた、少年と少女に背を押されるようにして、大きく息を吸い込んで、言う。
「いくら星が道を示しても――――歩くのは結局、その人自身ですから」
割れた窓から差し込む星の光が、廃工場の中を微かに照らす。青年は何を答えることもなく踵を返し、秋晴も追従する。そうして漸く、廃工場を舞台にした一晩の喧騒は終わりを告げることとなった。
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