第二十五話 彼と彼女の逃避行について
星空は、しばらくの間差し出された手を見つめた。客観的な時間にすれば僅か十秒にも満たず、しかし流星には、いつかのグラウンドで最後の一球を投げるまでを思い出すほど、無限のように長い時間。
星空は一度瞼を閉じ、開いた。二人の瞳がまた、しっかりと互いを見つめる。星空の右腕が、ぴくり、と動いた。亀の歩みのように
流星は手を伸ばしたまま、じっと待った。静寂に包まれた廃工場で、星空は確かに流星の手を取った。
「――――私」
意を決したように開いた口、それでも言葉が詰まる。星空が流星に向けた視線には、初めて不安の色が宿っていた。対して、返される流星の視線に迷いはなく、ただ何かを信じている強い気持ちだけが貫いていた。
星空が大きく息を吸い込む。言いたいことは一つに決まっている。ずっと目を背けてきた、一番苦しい言葉ではあるけれど。彼女が言いたいこと、彼女がしたいことは、初めからただ一つに決まっている。
「無駄かもしれないけど、まだ諦めたくない」
そう。喉元に刺さった小骨のように、拭えなかった違和感と嫌悪感。星空が『一番星』を捨てようとして、どこかでそれを拒む気持ちが湧き出してきた理由。
吐き出すように苦し気で、それでも気高さを失わず。流星の手を借りて、横たえられていた星空の身体が、ゆっくりと、しかし確実に起き上がる。
「運命から逃げないままで、私が納得できる答えを探したい」
それは結局のところ、ただの意地だった。
誰にとっても納得できるような理屈など一つもない。ただ、与えられたものに対して、自らの力で打克(うちか)ちたいという、才能と幸福に恵まれた強者にしか許されない、あまりにも傲慢な願い。
けれど、誰が聞いたって笑うような言葉であったとしても、誰に伝えたって笑われるような考えであったとしても。
無駄であっても、自分自身すらそう思ってしまっても、積み重ねてきた努力。それを信じて歩いてきてくれた人は、それを信じて歩いてきた自分だけは、絶対に裏切ってはいけないものなのだ。
「まだ、努力し続けていたい……!」
絞り出すような切なさで。けれども地を踏みしめる確かさで。
星空は明確に否定する、誰かが彼女を慮って用意した逃げ道を。そして肯定する、かつて彼女自身が無自覚に導いた諦めを。
流星は目を逸らすことなく、嘲笑することなくその答えを聞き遂げる。自分の思い通りのことを言ってくれたことへの喜びでも、その逆に対する憤りでもない。
彼女が吐き出した言葉の全てを確かに聞き遂げて、少年の顔には、ただ穏やかな微笑みだけがあった。驚きも嘆きも喚起もない。なぜならば彼は、彼女はそう言うだろうと知っていたから。
「連れて帰って、くれる?」
星空の瞳には、まだ僅かな不安の色が残っていた。流星の答えは当然決まっている。繋がれた手に、力が籠った。
「当たり前だ」
流星は力強くその手を引き、星空の身体を一息に抱え込もうとする。しかし、星空のもう片方の手が、それをやんわりと拒絶する。
「ううん」
この期に浮かんで脳裏をよぎる自分勝手な心配事に思わず意識を奪われかけつつ、流星は星空の顔にもう一度目を向けた。暗い拒絶の表情ではない、先ほどまでとは異なる強い意志、それがはっきりと見て取れた。
「自分で、歩くよ」
予想だにしていない、けれど予想通りの言葉だった。受け取って吞み込んで、それはそうだ、と思う。目の前にいるのは、憧れた大好きな少女だった。
「走るぞ、星空さん!」
「――――うんっ」
呆気にとられた様子の仮面たちの間を縫うように飛び出して、流星と星空、月光差し込む廃工場の出口へと二人は駆け抜けていく。
「な、ま、待て貴様!」
その背中に向けて声を荒げ、今にも二人を追わんとした仮面の男たちの前に立ち塞がったのは、両手に二挺の拳銃を構えた穂積秋晴。仮面のうち先行する二人が、流星に突き付けた拳銃を構えんとするも、
「動くなッ!」
秋晴の鋭い怒号、少しでも動けば本当に撃つという気迫を前に、両手を上げることすらできず静止を余儀なくされる。流星が駆け抜ける靴音だけが徐々に小さくなりながら響き、やがて完全に消えていった。
廃工場には、本来あるべき静寂が戻る。
「そこまでです。天文台星空さんは、ここから立ち去ることに同意しました。これ以上執拗に彼女を狙うのは、こちらとの『約定』に違反しますよ」
秋晴の凛とした声が、仮面の男たちを牽制するようにして放たれる。動きを封じられながらも彼らは畏縮することなく、数秒の膠着状態が続く。
再び訪れた静寂を破ったのは、拳銃を取り出すことなく悠然と構える、リーダー格と思しき男だった。
「『夜空』は若人の色恋沙汰にまで首を突っ込むようになったのか? 暇を持て余しているようで羨ましい限りだ」
秋晴の銃口の一つが、瞬時にそちらに向けられる。狙いから外れた男の一人が即座に銃口を秋晴に向け、互いの命が懸かった一触即発の雰囲気が漂う。
「『一番星』が欲しいのはお互い様ですが、
そんな状況でも余念なく、秋晴は強気に笑って悪態をついてみせる。彼女に拳銃を突きつける仮面の男は、その下で怒りに表情を歪ませ、引鉄にかける指に力を込めた。
「貴様、我らの理念を侮辱する気か……!」
「よせ」
怒りが弾き出される直前、後方で立つリーダー格の男が、低く響く声で男を制止する。彼は振り返って、何かを訴えようとリーダーに目で訴えたが、返された視線に何かを察し、拳銃を構えなおすにとどめた。
「……いいだろう。今回のところ、天文台星空はそちらに渡してやる」
表情を仮面に隠した男は言う。その言葉は、秋晴に投げかけた言葉であり、同時に二人の部下を制止するものでもあると、秋晴は心中で分析する。
「だが、彼女は後悔することになるぞ」
そして。次いで放たれた言葉は、今度は秋晴だけに向けた、静かな憤りと憐憫の籠った、刺々しいものであった。単に敵意のみで形作られたのではない鋭さが、遠慮なく秋晴に投げかけられる。
仮面の僅かな隙間から垣間見えるその視線が、既に立ち去った二人と秋晴の選択を糾弾するかのように突き刺さった。
「『一番星』の輝きは、人の身には過ぎたる光だ」
その言葉は、決して自身の任務の失敗を悔いるだけのものではなかった。おそらくは、あまりにも強い星の光を背負って歩くことになる少女へ、純粋な憐憫を向けているからこそのものなのだろう。
秋晴にはその気持ちが自分のことのように分かる。つい先刻まで、ある少年に対して向けていた感情。その道行の先が予想できるからこそ、歩みを止めさせ、道を敷きなおそうとしてしまう。
だけど、だけどそれは。
「それを決めていいのは、本人だけですから」
男達はそれ以上、何を言うことも何をすることもなく、その場を静かに立ち去って行った。一人残された廃工場の中、音を立てるものは何もなく。秋晴はただ、目を瞑って何かに何かを願った
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