第二十一話 私と私の逃避行について

「諦めてください」

 自身の言葉が流星を追い込んでいると、当然理解していながら秋晴は続けた。心の中に、暗い喜びと、深い安堵感と、無自覚な悔しさを抱えて。


(ああ、その通りだ)

 突き付けられた結論を咀嚼して飲み込み、その重さに胃もたれする。

 なんと愚かで、自分のことしか見えていなかったことだと思う、思わされる。

 あの輝きが彼女にとって負担でしかないことを、自分はよく知っているではないか。だって、彼女自身がそう言ったではないか。

(それを俺の身勝手で覆そうなんて、許されるはずがない)

 それを勝手な解釈を押し付けて、自分が見たヒーローの像に当てはめようとして。本当になんと自己中心的な。

 心の中の火が揺らめき、小さくなっていく。なぜそう思ったのかも、遠い昔のこととして薄れていく。

(頷いてしまおう。秋晴さんの言うことに)

 大好きな人を苦しめようとしていることへの耐えられない罪悪感に、諦める、という言葉が流星の喉元までせり上がった。

 だが、出てこない。

(なんで)

 言葉を紡げないほど衝撃を受けたからか。

 己の身勝手さを捨てる決心がつかないからか。

 まさか、年の近い女性の前で無様なことをいうのが悔しいのか。

 いや、そうではない。では、なぜ?

 最後の一言を食い止める違和感を解消して、楽になってしまおうとして、記憶を掘り返すために閉じた瞳。その裏に、遥か遥かな記憶が像を結んで形となった。

 ああ、自分は、何か大切なことを忘れている、ような。



『仮に一番でいられる保証があっても、努力をやめる理由にはならないでしょ』



「あ、」

 その瞬間、流星は確かに放課後の校舎に居た。

 ピアノの前に腰かけて、なんてことない様子で言ってのけた彼女。

 一番になる為にもがいてきた流星にとって、それはあまりに衝撃的な言葉で。

 だからこそ、その少女が誰よりも輝いて見えたのだった。そう、どんな星の光であっても穢せないほどに。

 それは決して、忘れてはいけないことなのだ。

 そうだ。まだ折れるな、こんなことで折れるな。

 思考を回転させ続けろ、反撃の糸口を探せ。心臓と脳が止まるその瞬間まで、決して自分では立ち止まるな。

 流星の瞳が、もう一度しっかりと開く。立ち塞がる秋晴の視線に、まっすぐに視線をぶつけ返してやる。なんだ、この程度の冷たさなんか、なんてことはないものじゃないか、と笑えてきた。

 自分はもっと冷たいものを知っている。自分はもっと、冷たくなってしまったものに挑まなくてはならない。こんなのはただの前哨戦だ。

「天文台さんは、知っているんですか。自分の『一番星』が、奪われようとしていることを」

 慎重に、しかし遠慮することはなく、秋晴の懐へと切り込んでいく。秋晴は、純粋にそれを怖いと思う。何を考えていれば、何を経験すればそうなれるのか、それが秋晴には全く分からなかった。

 それでも、秋晴にも意地があった。表向きは常に演技で覆い隠されていても、当然彼女にだって本音も本心も打算も意志もある。

「おそらく、いいえです。矛盾したことを言うようですが、彼らはそんなに穏健な集団ではない」

 噓はつかず、それでも流星を諦めさせる。相手が爬虫類や昆虫のように理解しがたい存在であったとして、尻尾を巻いて逃げ出したりはしない。

 だってそんなことをしたら、今度は自分が折られてしまうような気がして。

父権主義パターナリズムの権化のような人たちですから、自分たちが正しいと信じていることに、わざわざ確認など取っているはずがない」

 だがその言葉は、多分に綻びを含んでいた。

 あるいは、秋晴自身の意識や意思の外側、ないしはそれ以上の内側で、彼女自身が何か別のことを望んでいたのか。

 秋晴の言葉が、流星が進むべき道を示す。口にすべき答えを教える。さながら、旅人のしるべとなる南十字星サザンクロスのように。

「……だったら嫌です。諦めません」

 だから、流星も言う。崩れかけた体に鉄の芯を通して言う。導かれるようにして、けれどきっと、導かれなくても。

 誰もがそうしなくていいと諭す状況で、味方が誰もいなくても言う。

もし未来を知っていたとして、迷いなくその一球を投じられるのか。そう悩んだ時のことを回想する。

そんなのは決まっている。全力で投じてみせる。

 自然と両の拳が強く握られた。恐怖、勇気、絶望、希望。決してどれか一つではなく、いろいろな感情が綯交ないまぜになって、それでも流星は、自分が言わないといけない言葉だけは理解していた。

「証拠はありません。いろんな人の思いを無駄にする最低な行為かもしれません」

 その輝きを示してくれた少女を、永遠に失うことになっても。己の恋が、夏の夜の夢のように儚く失せることになったとしても。

 決して、決して。銀流星は、彼女のみせた輝きを損なう行いをするわけにはいかないのだから。

 流星はもう一度、胸の内に強く強く焼き付けられて色褪せない、その輝きの記憶を見つめなおす。

 なんてことはない、一人の少年が一人の少女に恋をした、ありふれた日のこと。

 眼が眩む程の星の光の下で、なお負けない輝きを放つ少女の姿。

「でも俺には、あの人がそんな救いを望んでいるとは思えない」

 確かに灯された炎をその胸に抱き、流星はそう言ってのける。

「あの人は――――思うままに生きる人なんです」

 頭上の星などなくても、少女は確かに歩みを進めるだろう。そしてそれは、彼女にとって間違いなく望ましい分岐であることだろう。

 だがそれは、他人が勝手に慮ってお膳立てするものではない。それだけは絶対に、あってはならない。

 何の証拠もなくても。最初で最高の自分の恋が、その選択で脆くも潰えてしまうかもしれなくても。

 それは、絶対にそうであるはずなのだ。そうであるべきなのだ。そうだと心が訴えているのだ。

「お願いします、天文台さんのところに連れて行ってください!」

 これが自身の勘違いなら取り返しのつかない罪だと、流星は自覚する。星空、流星、秋晴、秋晴の仲間、星空を攫った集団。誰もが損しかしない最悪の結末になる。

 それでも。勘違いでないのなら。

 自分は生涯、もっと取り返しのつかない後悔をすることになる。

 流星は秋晴を真っすぐに見据える。

「……ああ、もう! どうなっても知りませんからね。付いてきてください!」

 数秒の沈黙の後、秋晴は流星の手を引き駆け出した。険しくした表情の端に、ほんの少しだけ、けれど確かに喜色を滲ませて。

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