第二十話 三月ウサギと『導の星』について

 五分と経たないうちに、流星は喫茶店の前に姿を見せた。目的地が決まるや否や走りだしたらしく、秋晴の前まで来ると息を切らして膝に手をついていた。

「銀くん。もう、急なことだから驚いて――――」

「天文台さんは、どこにいるんですか!」

 しかし、秋晴が声をかけた瞬間、ガバッと飛び跳ねるようにその上体が起きあがり、両手で秋晴の肩を力強く掴んだ。年下とはいえ大柄な流星の激しい態度に、さしもの秋晴も気圧されて後退りしようとするも、物理的にも精神的にもそれは叶わなかった。

「……落ち着いてください。こちらもまだ情報が掴みきれてはいないところです」

 だから、秋晴は腹を括った。彼はもう、下手に出た穏やかな口調では説得できない。彼より高い目線から、反撃を許さないほど力強く屈服させる必要がある。

 甘さ、優しさ、親しみやすさ、そういった要素を己の言動から削ぎ落し、氷のような外面を作り上げる。両肩を掴む少年の力強い手を、秋晴の細く、されどもしなやかな腕が躊躇いなく振り払った。

「いくつか予測は立てていますが、どこにいるか絞り込みきれていません」

 諭す。ただ、大人が子供を諭す口ぶりではなく、大人が大人を諭す口ぶりで。父権主義的パターナリスティックな対応ではなく、流星を強制的に大人の舞台に登らせることで、子供じみた我儘を封殺するために。

「それに、万が一にも危険がないとは断言できませんから。心配なのは分かりますが、銀くんはここで待っていて――――」

 最後に一つ逃げ道を用意する。人は何かを諦めるとき、諦めるための理由を探す生き物だ。その為のお膳立てをし、言い訳すら彼の代わりに終わらせる。これ以上無関係な流星の介入を許すことはできないと、どこか脅迫的な観念が秋晴の中にあった。

 手がかり一つない氷の巨壁を前に、身動きが取れないような形で黙り込んでいた流星が、しかし、秋晴の言葉を遮る形で口火を切る。

「秋晴さんは、どこに行くんですか。同行させてください」

 秋晴にはたった一つ、けれども大きな誤算があった。

 流星は、彼女が作り上げたものと同等か、それ以上に凍り付いた人間を前に、既に一度折れたことがある。そして、既にそこから立ち上がった後なのだ。

 なおも折れない流星に苛立つ秋晴を相手に、一歩も引くことなく流星は言葉を続ける。守勢に入るつもりはなかった。ここはまだ通過点なのだ、こんなところで折れるわけにはいかないのだと、自身を鼓舞する。

「仲間がいるんでしょう、候補が絞り込めていないなら分かれて捜索するはずです。組織の秘密を守りたいにしても、単独行動なら俺が同行したっていいでしょう」

 自分を同行させられない理由を、一つずつ潰していく。彼女の冷静さが自身の都合の為に使われているものなら、より客観的な冷静さであればそれを凌駕できる。

「急いでますよね? 天文台さんが『星祓い』に巻き込まれているなら、今日の夜までには彼女を探し当てないといけないはずだ」

 秋晴の視線は鋭かったが、ただ鋭いだけだった。そこに、正義と真実を背にした力強さは宿っていない。それに対して、流星の中には、体の内側から燃え上がるような熱いものがあった。体を貫く鉄の芯に支えられているような、強い立脚点があった。思いのままに勢いづいて畳み掛ける。

「連れて行ってください、絶対に邪魔はしません」

 秋晴の視線は変わらず、その口はきつく結ばれて沈黙を貫いていた。我慢しきれず、流星の口から感情が漏れ出す。


「俺、天文台さんに伝えたいことがあるんです。どうしても!」


 結局のところ、それが真実で、それが全てだった。

 流星にはどうしても、今この瞬間星空に伝えたいことがあり、それはきっと、明日無事に帰ってくる星空に伝えたって遅い言葉なのだ。

 何の確信も証拠もなく、ただそれだけのために流星は駄々をこねる。我儘でも言う。我を通す。

「……仮に同行を許したとして。銀くんの『二番星』は、一番欲しい結果を遠ざける光です。同行して結果がいい方向に転ぶとは思えません」

 秋晴の言葉は変わらず冷たいものだった。どこまでも冷静で冷厳で冷然で、だが流星にはやはり、そんなものは敵ではなかった。

「それなら大丈夫です」

 むしろ、ここが最大の攻めどころだと力を籠める。これが単なる流星の身勝手ではなく、秋晴にも利益のある取引ビジネスだと証明してみせる。

「俺は今、自分の 『二番星』を捨てる機会が、本心では惜しくてたまりません」

 取り繕わずに吐露する。

 そうだ。どんなに悩んで出した結論だからと言って。どんなに大切な人に支えられて選んだ道だからと言って。どんなに素敵な人に示してもらった信念に殉じた結果だからと言って。

「俺は弱い人間だから、彼女を振り向かせる可能性を捨てるのが、本当は嫌です」

 一番大好きな人を振り向かせるために、やっと手に入れた足掛かり。それを無にすることなんて、辛くないわけがない。

 揺るがない声が、翻って流星の決意を表す。隠すことも繕うこともしない。本当は運命が怖くてたまらない、それは偽りのない流星の本心であり、どれだけ決意を固めたところで、感情はそれに伴ってはくれなかった。

「だから絶対、天文台さんのことは助けられるはずです。俺が本当に、『二番星』の下に生まれたなら」

 力のこもった視線は、秋晴相手にも全く畏縮しない。

 自信か。度胸か。覚悟か。愚昧か。

 いずれにせよ、自分より状況を理解しているはずの人間相手に一歩も引かないその態度。

 それなりに修羅場をくぐってきた秋晴だったが、それでも思わず気圧されそうになるほどだった。


「――――いえ、同行は許可できません」


 だが、こちらも引かない。

 今にも駆け出そうとする流星の肩を、今度は秋晴が掴む。女性とは思えない力に大柄な流星も動けず、苦しげに吠える。

「まだ何かあるんですか。俺の身の安全は、俺が自分で何とかします」

 それでも秋晴は流星を離さない。

 温厚な流星も、焦燥感に思わず声を荒らげる。

「頼む、急いで行かないと危ないんだろ!」

 ぐい、と秋晴が流星に顔を寄せた。予想外の出来事に、流星の思考と呼吸が一瞬停止する。程なくして、香水の甘く爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。

「何をしに行くと言うんです。彼女は今、ずっと苦しめられていた運命から逃れるチャンスを掴もうとしているんですよ」

 五感が食い違う。残酷な言葉が耳を貫き、秋晴の冷ややかな視線が、流星を真っすぐに射貫く。香りだけが、空しいほどに甘い。

 ああ、と思った。

 勘違いしていた。彼女は責め立てられて黙り込んでいたわけではない。ぎりぎりのところまで、流星を必要以上に傷つけないよう、沈黙のうちに流星が諦めるのを待っていただけだったのだ。

 今から自分は、明確にへし折られ、襤褸切ぼろきれのように掃いて捨てられるのだと、理解してしまった。

「銀くんも薄々見当がついていらっしゃるでしょうから言います。彼女がああも一番を取り続けるのは、あなたと同じように生まれ持った星による結果です」

 右耳から入った言葉が、そのまま左耳から抜けていく。情報を咀嚼しているはずなのに味がしない。

「『一番星』。目も眩むほどの栄光と引き換えに、失敗や挫折といった人間らしさを焼き尽くしてしまう、恐ろしい星の光」

 秋晴の中で、いくつかの情報の優先順位が組み変わる。流星に対する情報の秘匿以上に、流星を自身に同行させないことを重んじる。そのための思考回路は非常に正確で、しかしそう考えることは決して論理的ではなかった。

 完璧に作り上げられたはずの『穂積秋晴』が崩れていくことを、うすうす秋晴自身感じていた。決して時間に余裕はない、ここまでくれば流星を昏倒させる程度の用意と覚悟はあった。

 だが、できない。今この場で、どうしても彼を諦めさせなくては、そんな不可解な焦燥感にとらわれて、秋晴は流星に詰め寄る。

「彼女は今、ちょうど銀くんと同じように、『星祓い』に臨もうとしています」

 休業の札を下げている喫茶店の中からは、老齢の男性と少女がその視線を秋晴と流星に向けている。少女は先輩である秋晴の様子を不安げに見守るだけだったが、老齢の男性の表情は幾分か厳しいものであった。

 秋晴の様子が何かおかしい、それに気づいている様子で。しかし秋晴は、同僚からの視線に気づくことはなく。

「彼女が危害を加えられる可能性はほぼ無いと言っていいでしょう。私が忙しくしているのは単に、組織間のちょっとしたいざこざです」

 気づいていないように振舞っているのではなく、そう演じているのではなく本当に気づいていないのだと、長い付き合いから男性は察する。それこそが異常事態だった。

 本来秘匿すべき情報を開示してまで、流星を黙らせようとする。会話の内容こそ男性と少女には聞こえてこなかったが、秋晴が特定の誰かだけに注意を向けるなど、これまでに見たためしがなかった。

「分かりますよね? 彼女は今、呪われた運命から解き放たれる、またとない機会を得たわけです」

 一方の秋晴は、自分で自分がおかしいことに気づかないほど、流星を説き伏せることに全力だった。頭は冷静なつもりで、確かに流星を留まらせようとする言葉には説得力があって。けれど、彼女は少しも平常心ではなかった。

 そういう仕事だから、そうしているのではなく。

 そうせずにはいられないから、そうしようとしていた。

「星の定めは、人を導きも惑わせもする。それは、銀くんにも分かるでしょう」

 一方の流星は、そんなことは知る由も、推し量る余裕もなく。ただ、体の奥で燃えていた炎が、一息に吹き飛ばされたような。そんな、全身から力が抜ける感覚を味わっていた。

 秋晴が自らの意志とちからでもってして、流星の決断を曲げようとしていることなど、流星の与り知るところではなかったが、その圧力は着実にして強大に流星の決意を蝕んでいた。

「銀君がなんのこだわりを持って、あるいは何が惜しくて『二番星』を捨てないことに決めたのか。好きにすればいい話ですが」


「天文台さんが幸せになる唯一の機会を奪う気ですか?」

 流星はもはや、ただ立っているだけと言ってもよかった。

 己を掴む秋晴の手にすがって立っているだけ。いや、立たされているだけ。自身が築き上げた決意が、蟻の一噛みで崩れる砂上の楼閣のように思えた。

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